鹿児島市西千石町の「フレッセ厚生市場」にある靴修理・鞄修理・合鍵作製のお店です。
 

店 名   リペアショップ鹿児島店
住 所   鹿児島県鹿児島市西千石町13-11
電 話   099-223-1766 
店舗URL http://ebisusama2322.on.omisenomikata.jp/


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…【寿司職人と「人情」】

テーマ:ブログ

リペアショップ鹿児島店の坂元です。



今回は、西南学院大学教授、山村英司氏の心に響く言葉より…【寿司職人と「人情」】です。



入門者向けの経済学の教科書では、「人は他人のことを気にしない」ことを前提にしている。

つまり、自分のことだけを考えているのである。

確かに、空気を読まずに自分のことだけを考えているように見える人は多くいる。


しかし、実は他人の活躍に心の中で嫉妬心を募らせているのではないだろうか。

三省堂の『新明解 国語辞典』によれば、人情は「人ならばだれでも持っているはずの、人間味を感じさせる心の働き」である。

嫉妬心を募らせるのも、人情と言える。


一方、人情によって取引がスムーズになされる場合もある。

一人前の寿司職人になるためには下積み修行を10年ほど経験する必要があるという話をよく耳にする。

起業家であるホリエモン(堀江貴文氏)は、このような「世間の常識」を批判する。

ホリエモンの主張によれば、センスと経営能力さえあれば1年もしないうちにプロの寿司職人を養成できるという。


経済学者からすると、ホリエモンの説に分があるように思えた。

フランスのパリで寿司職人をしている友人に、どちらが正しいと思うか質問をしてみた。

まずホリエモンの言い分に理解を示し、次のように回答した。


「確かに、条件さえそろえば、技術的には可能」

しかし、技術以外の2つの要素が重要だと言う。


第1に、うまい寿司を作るには良いネタを仕入れる必要がある。

ネタの良し悪しはネタが入ってくるまでわからない。

さらに、良いネタを見分け、なるべく安く仕入れることが必要だ。

経験がない人でも、センスが良い人は見分けることが可能かもしれない。

しかし業者は良いネタを隠し持っていて、昔からの取引がある名店にしか売らないそうだ。

要するに人間関係がモノを言うわけである。


第2に、寿司職人にはコミュニケーション能力や話芸が求められる。

とりわけ高級店に来てカウンターに座る客は、寿司を食すためだけに来ているわけではない。

社会的にも一定の地位につき、人生の荒波を泳いできた客が来店する状況を想像すると良い。

貫禄のある寿司好き紳士が、世間話や寿司のあれこれをネタにして話しかけてくるという。

客がどのような人物なのかを観察しつつ、相手を楽しませ愉快にさせる受けこたえをする。

なじみ客でも日によって機嫌の良し悪しがあるので、油断はならない。


一方で、神経を集中させながら寿司という名の芸術品を作るのである。

うまい寿司、そして愉快な会話も手品のように提供し、客を納得させる。

これらすべてを身につけているのが「一人前の寿司職人」なのだ。

寿司職人は寿司を作る芸術家であると同時に、経験に裏打ちされた「人情」のエキスパートなのだ。


もう一度考えてみよう、20歳台の若者が50歳を過ぎた食通紳士の相手ができるのか?

友人の結論は次の通りだ。

「センスが良くても、10年近くかかるだろう」


市場参加者が人間である以上、入門者向けの教科書には描かれない力学が働く。

「人情」を知らねば現実経済は見えてこない。

この要素を深く考えることができる者が「一人前の経済学者」である。


『義理と人情の経済学』東洋経済
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山村氏は「義理」と「人情」についてこう記している。

『ハーバード大学の経済学者でジャッド・クレイマーという人がいる。

2019年にネットニュースで、クレイマー氏が日本の恩人を探していると報じられた。

14年ほど昔、高校時代の日本人クラスメートに会うためクレイマー氏は来日したという。

旅行の最中に地震が発生し、仙台駅で足止めにあった。

まだ高校卒業直後の貧乏旅行で、所持金はほとんどなく、泊まる場所のあてもない、日本語も全くわからない。

クレイマー氏は怖さと心細さで途方にくれた。

18歳のアメリカ青年に救いの手を差し伸べたのは「片腕がない仙台駅の30代くらいの駅員」だった。

その駅員はクレイマー氏を近くのホステルに連れて行き、宿泊代を支払ってくれた。

翌日になると切符の利用期限が切れていた。

そのことを知った「片腕のない駅員」は新幹線の切符をくれた。

この出来事はクレイマー氏の記憶に深く刻みつけられ、その後の人生にも大きな影響を与えた。

日本語を学び、日本の文化を学び、いつの日か「片腕のない駅員」に「日本のやり方でお礼」を伝えたいという思いを持ちづづけてきた。

2019年に来日したクレイマー氏は、仙台駅を訪れ「片腕がない駅員」を探したが、出会うことができなかった。

しかし「お礼を伝える」ためにに今も「片腕がない駅員」を探し続けているという報道がなされ、クレイマー氏が帰国後、無事その駅員が見つかったという。

おそらく二度と会うことがない外国の若者を助けるためにコストを負担する日本の「駅員」。

そして、「お礼を伝える」ことから経済的な見返りなどないとわかりながら、時間や労力というコストをかけて遠くアメリカから「駅員」を探す「経済学者」。

いずれの行動も、通常の経済学では説明できない。

クレイマー氏は、日本での体験や学習を通じて、日本的な「恩義」の意味を理解したのだろう。

そして、「義理」を果たすために行動を起こした。 』


「かけた情けは水に流し、受けた恩は石に刻む」という言葉がある。

かけた情けを、「オレがやってやったんだぞ」などと、いつまでも恩にきせるようではカッコ悪い。

しかし、受けた恩は絶対に忘れてはいけない。

それが義理人情に厚い人であり、一本筋の通った人だ。


義理と人情に厚い人でありたい。

威張る人は野暮

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。





今回は、江戸しぐさ語りべの会、越川禮子(こしかわれいこ)氏の心に響く言葉より…【威張る人は野暮】です。



《江戸っ子が最下等と考えていた、弱者に対して威張る人》


私の知り合いの若い女性から聞いた話ですが、彼女がアルバイトの面接に行ったときのことです。


そんなに大きい会社ではないので、直接そこの社長さんとの面接になりました。

社長さんは質問にも丁寧に答えてくれて、とても感じがよく、彼女はその会社でアルバイトとして働くことになったのです。


ところが、いざ仕事をしてみると、あの感じのよかった社長さんが人が変わったように威張りちらすというのです。

会社という組織ですから、役職に上下があるのは仕方ありません。

上から下への命令もあるでしょう。

でも、上の者が下の者に対して「威張りちらす」というのは、どうなんだろう?と思ってしまいます。


この社長さんのみならず、世間では必要以上に偉そうにしている人を見かけます。

自分が大企業に勤めているというだけで、周囲を見下した発言をする人もいます。

ふだんの主婦同士のつき合いでも、なぜか威張っている人がいます。


傍から見ていても、ほんとうに嫌な気持ちになるものです。

自分より立場が下で言い返すこともしづらいといった、相手の立場に思いをめぐらすことができない人なのでしょう。

もしくはそういうことがわかっているから、わざと自分を大きく見せようと威張っているのかもしれません。

ほんとうに品がないですね。


江戸庶民の間では、このような必要以上に威張ることは下等の人間のすることとされいました。

とくに、抵抗できない立場の人に対して必要以上に威張ることは野暮の極み、最下等の人間と位置づけられていたのです。

現代の私たちでも、そんな人を見かけたら、「なに、アイツ、立場を利用して威張ってやがるんだ」と思うでしょう。


J・B・シュネルツェンという、江戸文化に興味を持った人のレポートのなかに、『江戸っ子とは、進歩的な人間主義者で、和をもって良しとなし、誰とでもつき合い、新人をいびらず、権力にこびず、人の非を突くときは、下を責めず上を突き、外を飾らず中身を濃く、と言う思想を持った人である』(「青い目の見た日本」より)という一節があります。

江戸庶民は、もともと人間は平等であり、弱い人をいたわることや、できるだけへりくだることが世間と良好なつき合いができる秘訣と考えていたことが、この一節からもわかると思います。

江戸では、「人間」と書いて「じんかん」と読ませていたそうですが、これは、人と人には適切な間合いが必要であり、その「間」を持つことが良好なつき合いをもたらすことを知っていたのでしょう。

いわば「共生」の知恵。

現代の人は、この「間」を忘れてはいないでしょうか?


いくら威張り散らす人も、相手がいなければ威張ることもできません。

威張り散らしていれば、自然に人は離れていくでしょう。

人はひとりでは生きていけません。

適切な間合いを持って自らをへりくだることができれば、もっと中身の濃い人づき合いができると思います。


『野暮な人イキな人』日本文芸社
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威張る人は、徐々に、友人知人が離れていく。

もちろん、若い後輩たちも当然のごとく離れていく。

会社の人たちは仕方なくついていくが、それを自分が支持されていると勘違いする。

そういう人は、定年になり、会社の人間関係も切れた時、まわりを見渡すと誰もいない、ということになる。

自治会等の近所のつき合いでも、会社での元の肩書をひけらかしたりするので、嫌われる。

品がなくて、野暮(やぼ)な人だ。



反対に、若い頃から、洒脱(しゃだつ)で、威張らず、年齢が上の人とも下の人とも分け隔てなくつき合ってきた人は、年を重ねるごとに友人知人が増えていく。

洒脱とは「軽妙洒脱」ともいうが、俗っぽくなくて、さわやかで洗練され、軽やかでしゃれていること。

会社だけでなく、それ以外の人脈がどんどんできる。

しゃれていて、イキ(粋)な人だ。


軽妙洒脱で、イキな人を目指したい。

笑いと祝い事の重要性

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。





今回は、A・マクギニス氏の心に響く言葉より…【笑いと祝い事の重要性】です。



南北戦争時代のリンカーンについて著した、リチャード・ハンサーはこう語る。

「厳しく血なまぐさい南北戦争に対するリンカーンの砦(とりで)はユーモアだった。やせこけてひょろ高いリンカーンは、よくフランネルのナイトガウンをヒラヒラさせながら真夜中にホワイトハウスの中を歩きまわったものだ。今読んだばかりのおもしろい話を誰かに話したくて、まだ起きている人を探しまわっていたのである」

ハンサーは当時の戦時内閣が臨時議会のためホワイトハウスに召喚された時のことについて語った。

後に時のウォー・スタントン国務長官が書いたものによればこうだ。


「大統領は本を読んでいて、私が入ってきたことにほとんど気づかなかった。

ようやく私たちの方をふり返るとこう言われたのだ。

『諸君、アルテマス・ウォードの作品を何か読んだことがあるかね?ちょっとこの一節を読んでみよう。とっても愉快なんだ』」


それから大統領は大きな声で「古代都市ウティカの恐るべき侵害」というタイトルの諷刺文を読んだ。

長々と読み続けるリンカーンを目前にして、スタントンは怒りで頭に血がのぼらんばかりだった。

が、最後には心から大笑いしたのである。

リンカーンは皆の顔を見回してからこう言った。


「諸君、どうして笑わないのかね?私は昼夜を問わず恐ろしいほどの緊張の連続にさらされている。笑わなければ死んでしまいそうだ。そして諸君にも私と同じようにこの笑いの薬が必要なんだよ」


そして彼はテーブルの上のシルクハットに手を伸ばすと、これから読み上げる紙片を取り出した。

それがあの奴隷解放宣言であった。

スタントンは圧倒された。

彼は立ち上がり、リンカーンの手を握るとこう叫んだ。

「大統領閣下、もしアルテマス・ウォードの一節の朗読がこの宣言の前文なら、国の公文書館に保存しなければいけませんね。もちろん作者には栄誉の表彰も」


英国の医師シーラ・キャシディはホスピスにおける笑いと祝い事の重要性について、感動的な筆致で次のように記している。


《医学的に言えば、ホスピスはもはや手の施しようのないガン患者に対して、痛みや症状をやわらげるために設けられた施設である。

すでに死にかかっており、たとえ死を共にする忍耐と勇気が残っているだけであったとしても、何かしら必ずできることがあるのです。

たいていの人々はホスピスに対してこんなイメージをもっています。

患者と家族が目を伏せ、声を押し殺して避けられぬ運命を待つ場所。

重々しくて、陰気なところ。


ところがこれはまったく真実とかけ離れているのです。

ホスピスのケアは生命と愛と笑いについてのもので、二つのゆるぎない信念の上に成り立っているのです。

一つには生命はかけがえのないものであり、一瞬一瞬を精いっぱい生きるべきであるということ。

そしてもう一つは、死はまったく純粋に生の一部であるから、素直に向き合って両手を広げて歓迎すべきものであるということです。


ホスピスの生活の特徴の一つに祝い事があります。

ケーキを焼き、シャンパンの栓を抜いて誕生日や記念日のお祝いが始まります。

病院の事務局の人々や看護婦、ボランティアの人たちが患者とその家族たちとグラスを合わせるのです》


『今できることから始めよ!』(稲盛和夫監訳)三笠書房
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精神科医の斎藤茂太氏は、『ユーモアは、「にもかかわらず」笑うこと』という言葉があるという。

にもかかわらず笑うとは、どんな厳しい状況になっても、そこでユーモアを言って笑わせること。

すると、今までのトゲトゲした雰囲気が笑いによってパッと明るくなるからだ。



極限状態にあるときほど、この「にもかかわらず笑う」ことが必要だ。

すると、重大事故が起こりにくくなる。

全員がヒートアップしてしまっているとき、「笑い」が緊張をゆるめ、ふっと我に返ることができる。


同時に、「祝い事」は大事だ。

古来より、日本では神社において、祭祀の最後に「直会(なおらい)」という儀式がある。

直会とは、神事に参加したもの一同が、神前に供えたお酒や新撰(お供物)をお下がりとしていただくこと。

神人共食(しんじんきょうしょく)という、神様と人が一緒になっていただくという宴会(平たくいえば)のこと。

天岩戸神話にもある通り、日本の神様は、笑いと踊りなど、お神酒を飲んで楽しく騒ぐお祝い事が好きなのだ。


どんなに切羽詰まっても…

笑いを忘れず、共に楽しむ祝い事を忘れない人でありたい。

起こることは、すべて最高

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。




今回は、ひすいこたろう氏の心に響く言葉より…【起こることは、すべて最高】です。



インドの王様の、ある家臣は「これについて、おまえはどう思う?」と王様から聞かれると、必ずあるセリフを言ったそうです。

その結果、王様からたいへん信頼されました。

さて、その家臣のセリフとは?


ジャナカ王の家臣にアシュタバクラという者がいました。

その男は、王様から「これについて、おまえはどう思う?」と聞かれると、いつもきまって、あるセリフを言いました。


「起こることは、すべて最高でございます」


何が起きても、そう言われたら悪い気はしない。

その結果、彼は王様からとても信頼されました。

しかし、やがて、他の家臣たちが、アシュタバクラに嫉妬するようになり、ある日、王様が手にケガをしたとき、ワナにはめられてしまうのです。

家臣たちが、アシュタバクラに「王様がケガをされたことを、どう思う?」と聞いてきたのです。


これに対して「起こることは、すべて最高」と答えたら、王のケガを喜んでいるようにもとられます。

さあ、アシュタバクラどうする?

彼は答えました。

「起こることは、すべて最高でございます」


すぐに家臣たちは王様に告げ口をしました。

「王様!アシュタバクラは、王様のケガのことも最高と言っております」

怒った王様は、アシュタバクラを牢屋に入れてしまいました。


そして、王様が狩りに出かけたある日のこと。

王様は“人食い部族”に捕まってしまったのです。

その部族は儀式のときに人を生け贄(にえ)として火あぶりにします。

王が火あぶりになる直前、彼らは王の手にケガがあることに気づきます。

この部族には、傷ものは生け贄にできないというしきたりがあったので、「もうお前には用はない」と王様は放免されました。

無事に帰って来ることができた王は、アシュタバクラを出してあやまりました。


「わしが手にケガをしたのは、おまえの言う通り最高の出来事であった。どうすれば、この過ちをつぐなえるだろうか?」

アシュタバクラは言いました。

「もしも、私を牢屋に入れてくださらなかったら、私はいつも狩りでは王様の側から離れないので、いっしょに捕まっていたことでしょう。

そして、ケガをしていない私は、生け贄になっていたことでしょう。

だから、私は牢屋に入れていただいて最高だったのです」


王様はここで悟ります。

「人生で起きることは、本当にすべて最高なのだ」と。


アメリカの成功者たちへのアンケートを見ても、そのことがわかります。

彼らがあげた成功した理由のベスト3。

それは…。

「病気」「倒産」「失恋」でした。


あの病気のおかげで…。

一度倒産したおかげで…。

失恋したおかげで…。

すべて、いわゆる不幸ばかりです。

失望したくなるようなことばかりです。


しかし、彼らはこのツラい出来事を、「自分を深く見つめ直す機会」に変えて、生き方を改めたのです。

すると、災いは転じて福となったのです!

つまり、「失望」すら「希望」の一部なのです。


『犬のうんちを踏んでも感動できる人の考え方』祥伝社黄金文庫
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舩井幸雄氏は、「起こることはすべて必然、必要」と言う。

『人生の悲喜こもごもさまざまな出来事は、実はすべて必要で必然です。

ですから目先の出来事の一つひとつについて、安易に正誤や善悪、幸不幸などの二元的な判断を下さないほうがいいようです。

楽しいこと、喜ばしいことはともかくとして、悲しいことやつらいことを必要、必然とはなかなか思いにくいものです。

しかし、生起した時点ではその意味がよくわからなくても、まず素直に受け入れ、じっくりと考えて、その後の事態の進展を注意深く観察すれば、それがいかに必要だったか、ベストだったかが必ずわかるはずです。

今よりもよくなる過程で起こった出来事と、すべてを認識したうえで、意味と理由を考えることに挑戦していただきたいと思います。

生起したことの意味が正しく理解できれば、次に何かが起こるはずか、あるいは何をなすべきか、が少し余裕を持って判断できるようになるでしょう。

心から感謝できる心境にまで到達すると、物事は急速に展開するものです。

生起した出来事の意味がわからなかったり、事後処理に追われている間は、目先のことに手一杯で、とても感謝どころではありません。

私の経験では自分にとっての本当の必要性が理解できて初めて、素直に感謝できるようになります。

必然で起こった出来事の必要性と、いかにベストであるかを早く見抜く力を、ぜひ日々養ってほしいのです。』(未来を変えるクセづけ―舩井幸雄の金言集/海竜社)より



なぜ、起こることがすべて必然で必要なのかというと、それはこの世の中は、必ずよくなる方向に進化しているからだという。

江戸時代の暮らしとくらべれば、今の我々の生活は、当時の殿様の数百倍便利になり、暮らしやすくなっている。

なにしろ、電気も車もなかったし、冷蔵庫も温水便座もないし、刀での切り合いもない。

平均寿命は格段に延び、医療も相当よくなっている。

つまり、進化しているのだ。


だから、今の決定が最善であり、最高で、ベスト。

「起こることは、すべて最高」


すべての起こることに対して、感謝の気持ちで接したい。

【「新しい時代」が始まった】

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。




今回は、中谷彰宏氏の心に響く言葉より…【「新しい時代」が始まった】です。


「いつ終息するんですか」という質問を、よく受けます。

それは考えなくていいのです。

「いつ終わる」と考えることで、すでに「待つ」という受け身になっています。

感覚としては、「これが終わって元の世の中に戻る」と思っているのです。


そうではありません。

新しい時代が、すでに始まっているのです。

これは大きな違いです。

用意、スタート、バーンの「バーン」が聞こえている人と聞こえていない人とにわかれます。


「いつ終わるんでしょうね」と言っている人は、「いつ前のように戻るんでしょうね」と言っているのです。

これが終わって以前のような生活に戻ることをイメージしています。

前の生活に戻ることはないのです。


これと似た現象が明治維新の時にもありました。

明治維新が始まって最初の10年間は、「大政奉還で何かしたようだけど、そのうちまた武士の時代に戻るに違いない」と思っていた武士が大勢いました。

彼らを西郷隆盛が率いて西南の役になったのです。


一方で、海外を見てきた連中がいます。

日本は江戸時代の間に、世界の中で260年間、時間が止まっていました。

すぐになんとかしないといけない状況です。

攘夷(じょうい)とか、ちょんまげとか言っている場合ではないのです。

海外に行った連中は、世界の時間が進んでいる間に自分たちの時計が止まっていたことに初めて気づきました。

ここで差がつくのです。


今も同じです。

「これが終わったら前のように戻るんじゃないか」と期待している「ちょんまげ」の人がまだいるのです。

前の生活には戻りません。

今の状況を楽しんだ者勝ちです。

やっと遅れを取り戻したのです。


コロナによって、敗者復活のチャンスが来たのです。

敗者復活のチャンスを活かさないのは、もったいないです。

政府を頼ろうとしても、政府はまだ「ちょんまげ」です。

保健所は、メールで送ったものを手書きで書き直してファックスで送っていました。


日本では何十年も前から「IT立国」と言いながら、いつの間にか何周遅れの国になっていたのです。

IT革命は国が起こすのではなく、自分の中で起こします。

自分の中で新しい時代が始まったことに気づけるかどうかです。

社会の意識革命を待っていたのでは間に合いません。

自分の意識が変わることによって、社会の見え方が変わってきます。

これが大きいのです。


社会を変えようということではありません。

自分の意識を変えれば、社会の変わってきたところに気づきます。

「あの会社は、もうこんな取り組みをしている」と思えるのです。

自分の意識が変わっていないと、世の中の遅れているところばかり目につきます。

「みんなは、まだこうしている」としか思えなくなるのです。


世の中は、「遅れている部分」と「進んでいる部分」があります。

進んでいる部分から置いてきぼりにならないように頑張るのです。

これがその人の時間感覚です。

遅れている人を見るのではなく、進んでいる人を見ておくことです。

「元へ戻ることを期待する」という感覚が、すでに違うのです。


『新しい仕事術』リベラル社
https://amzn.to/33vdvPI




中谷氏は本書の中で「いつも違うこと」について、こう述べている。

『制御能力の高い人は、いつも違うことをしています。

いつも同じことをしている人は、いつもと違うことが起こるとイライラします。

たとえば、ランチでいつも違うメニューを頼んでいる人は、お店の人に「すみません、今日はそれ終わっちゃったんです』と言われても、「仕方ないな。じゃ、〇〇にしよう」と言えます。


毎日同じものを頼んでいる人は、「なんでないんだ」と、ぶちキレるのです。

歳をとると、自分の慣れ親しんだものばかり選ぶようになります。

新しいものに手を出さなくなると、新しい状況が起こった時に、その状況自体に不快感とイライラを感じます。

これが制御機能がきかなくなるということです。


脳が若い人は、新しいものが出てきた時に、楽しむことができます。

見たことがない未知なるものを楽しめるのです。

新しいテクノロジー、新しいピンチ、新しい環境は、これからもどんどん出てきます。

それが正しいか正しくないかではありません。

出てきたのだから、仕方がないのです。


メニューに「正しい・間違っている」はないのです。

新しく起こっていることは、新しいメニューが出たのと同じです。

イライラしないためには、いつもと違うことを常にしていることが大切なのです。』



「新しいこと」に『耐性』がないと、イライラしてしまう。

耐性とは、変化に対して適応していく力だ。

「新しいこと」に耐性をつけるには、常に何か「新しいこと」にチャレンジし、それにふれるしかない。

これは、どの年齢になっても同じだ。

新しい「SNS」「アプリ」「携帯」「ガジェット」「本」というモノや情報、また、新しい「人」という世代を超えた人間関係。


それを立命館アジア太平洋大学学長の出口治明氏は「人・本・旅」とふれ合うこと、と言っている。

今のコロナ禍では遠くへの旅は難しいが、近隣のちょっとした旅は可能だ。

それをマイクロツーリズムというが、自宅から1時間圏内の地元や近隣への観光のことだ。


新しい時代が始まった。

いくつになっても…

「いつもと違うこと」にチャレンジできる人でありたい。



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