鹿児島市西千石町の「フレッセ厚生市場」にある靴修理・鞄修理・合鍵作製のお店です。
 

店 名   リペアショップ鹿児島店
住 所   鹿児島県鹿児島市西千石町13-11
電 話   099-223-1766 
店舗URL http://ebisusama2322.on.omisenomikata.jp/


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終戦を支えた皇族たち

テーマ:ブログ
リペアショップ鹿児島店の坂元です。

 今回は、国際派日本人養成講座 ■■ 国史百景(15): 「終戦を支えた皇族たち」です。

 789万人の陸海軍将兵に戈(ほこ)を収めさせるために、昭和天皇の大御心を説くべく、皇族たちは戦地に向かった。


■1.「不退転のご決意を秘められた荘厳なお姿」

 昭和20(1945)年8月12日、在京の皇族男子全員12人が宮中の御文庫付属室に呼ばれた。空襲で宮殿も焼け落ち、分厚いコンクリートで覆われた暑く湿度の高い御文庫に、両陛下は住まわれていた。

 お出ましになった昭和天皇の憔悴されたお姿を目のあたりにして、竹田宮恒徳(つねよし)王は「天皇陛下は今まで拝したことのない程に緊張された御様子」「しばらくお目にかからない間に、なんと深いご心労を宿されたことか」と思った。

 8月9日深夜の御前会議で、昭和天皇の御聖断の下に、最高戦争指導者会議と閣議でポツダム宣言受諾の政府決定がなされた。しかし、このまま戦争を無事に収拾できるのか、降伏後の日本がどうなるのか、については五里霧中の状態だった。[a]

 集まった皇族方に、昭和天皇はこう話された。

__________
 私自身はどうなってもよいから、ここで戦争を止めるべきだと思う。そこで自分は明治天皇の三国干渉当時の御心労を偲び、ポツダム宣言を受けて、戦いを止める決心をした。どうか私の心中を了解してくれ、そしてこれからは日本の再建に皆真剣に取り組んでもらいたい。[1,p170]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 そのお姿に触れた時の思いを、竹田宮は後にこう記している。

__________
 ふだんはむしろ女性的にさえ思えるほど、お優しい陛下が、この日本存亡の際にお示しになった、不退転のご決意を秘められた荘厳なお姿を、私は生涯忘れることができない。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 最年長の梨本宮が、皇族全員を代表して「陛下の御英断に謹んでお従い致します。そして今後共国体の護持に全力を尽します」と奉答した。


■2.「自分の心中をよく第一線の将兵に伝えて欲しい」

 8月15日正午の玉音放送により、昭和天皇が直接、国民に終戦を告げられた。その翌日、朝香宮(あさかのみや)鳩彦(やすひと)王、東久邇宮(ひがしくにのみや)稔彦(なるひこ)王、竹田宮恒徳王、開院宮(かんいんのみや)春仁(はるひと)王に、昭和天皇から突然の御召があった。

 東久邇宮以外の3名が、まず昭和天皇の御前に案内された。昭和天皇は14日と同様の緊張した面持ちで、こう話された。

__________
 終戦をつつがなく行なうために、一番心配なのは現に敵と向かい合っている我が第一線の軍隊が本当にここで戈(ほこ)を収めてくれるという事だ。蓋(けだ)し現に敵と相対している者が武器を捨てて戦いを止めるという事は本当に難かしいことだと思う。しかし、ここで軽挙盲動されたら終戦は水の泡となる。

自分が自ら第一線を廻って自分の気持をよく将兵に伝えたいが、それは不可能だ。ご苦労だが君たちが夫々手分けして第一線に行って自分に代わって自分の心中をよく第一線の将兵に伝え、終戦を徹底させてほしい。急ぐ事だから飛行機の準備は既に命じてある。ご苦労だがあした早朝発ってくれ。[1,p173]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 当時、陸海軍合わせて789万人の将兵がおり、特攻に使える航空機も6千機は残っていた[b]。特に中国大陸では、陸軍が国府軍を圧倒しており、突然、降伏を命ぜらたからと言って素直に従ってくれるかどうかは、まったく不明だった。

 もし、前線や日本本土で降伏を潔しとしない陸海軍将兵が戦い続けたら、終戦は有名無実となる。イタリアのように内乱状態になるか、ドイツのように全土占領されるまで戦いが続くことになるか、のどちらかだった。いずれにせよ、民の苦難は続く。

 昭和天皇は、これを恐れて、三方の宮を御自身の代理として戦地に派遣して、無事に戈を収めるよう説得しようとされたのだった。朝香宮は支那派遣軍に、竹田宮は関東軍と朝鮮軍に、そして開院宮は南方総軍にそれぞれ天皇の特使として終戦の聖旨を伝達しに行くことになった。


■3.「満洲帝国皇帝の亡命を助けよ」

 東久邇宮には、終戦決定の後に総辞職した鈴木貫太郎内閣の後を継いで、組閣の大命効果があった。誰も経験したことのない降伏後の混乱は、これまた昭和天皇の分身としての皇族内閣により乗り切るしかない、という判断だった。

 皇族が政府の長となるのは、明治政府が樹立された時に、有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王が「総裁」の地位に就いて以来のことであった。

 その日の午後、東久邇宮は組閣で忙しい中、竹田宮を呼び出して、東郷外相とともにこう依頼した。

__________
 竹田さんは満州に行くそうだが、もしできたら薄儀(ふぎ)満州国皇帝に会って、皇帝が希望されたならば、一緒に日本へ連れてきてもらいたい。もちろん、あなたの本来の任務は聖旨の伝達にあるのだから、無理をしてまでとの依頼ではないのだが。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 竹田宮は、つい7月まで関東軍参謀として満洲帝国の首都・新京(長春)に赴任していたから、ソ連軍と中国軍の進駐を目前に控えた現地の混乱ぶりは容易に想像できた。果たして無事に帰れるかも分からないと思って、身辺の整理を始めた所に、さらにこの依頼である。


■4.「皇族の三人や五人は死ね」

 明治天皇は「男子皇族は軍人となって政治に関与すべきではない」との思召(おぼしめ)しを示され、竹田宮も軍人として生きてきた。

 竹田宮恒徳王は昭和13(1938)年に陸軍大学校を卒業したが、軍の首脳部は宮をあくまで安全な場所に配置しようとした。皇族を戦死させては、という心配が軍の内部にはあったからだ。しかし、竹田宮は、陸軍省の人事局局長と電話で激しく口論した末に、中隊長として中国の前線に赴くことになった。

 ただ、戦闘に加わる以上、皇族の身分を隠した方がよいということになって、「竹田宮」をひっくり返し、「竹」を「武」に代えて、「宮田武」とした。以後、「宮田参謀」が皇族であることは、軍の中でもごく一部しか知らなかった。

 後に、大本営勤務となった際に、南洋方面の戦略検討のために、参謀次長と軍令部次長がラバウルの前線司令部に出向くことになった時も、竹田宮は随行を願い出た。しかし、杉山参謀総長と東條陸軍大臣は頑として聞き入れない。竹田宮は眼に涙を浮かべながら、上司の辻政信班長に嘆願した。

__________
 班長さん、御願ひです。私を、ラポール(ラバウル)にやるやう、総長、大臣に班長から是非もう一度、申上げて下さい。私が皇族なるがため、当然なすべき仕事をさせて貰へないなら、今すぐ大本営参謀をやめさせていたゞきます。この大戦争に、もし、明治天皇様がお出になりましたなら、きつと、皇族の三人や五人死ね!! と仰言るでせう。[1,P197]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 竹田宮の迫力に押された辻班長は、杉山総長に宮の思いを伝えると、「そうか、それほどの御決心か!」と涙を拭い、万一のことがあったら切腹する覚悟を固めて、自ら東條大臣を説得した。東條大臣も涙ながらに、これを許したという。

 竹田宮恒徳王の母親は、明治天皇の皇女・昌子内親王だけに気骨ある母親で、「皇族の三人や五人は死ね」とはその母からの手紙の中の一節であった。


■5.聖旨伝達

 竹田宮は8月17日朝、東京・立川から専用機で飛び立った。到着した新京では、関東軍総司令官山田乙三大将以下の幕僚が、司令部2階の広い総司令官室を埋め尽くした。

 竹田宮は、昭和天皇が仰せられたお言葉を詳しく語って、御決意を伝えた。「どんな返答が戻ってくるか、この時ほど心配したことはなかった」と宮は後に書き記している。厳粛な空気の中、山田大将は「謹んで聖旨に沿い奉ります」と奉答した。誰もが目頭を熱くしていた。

 翌18日朝、竹田宮を乗せた飛行機は奉天(瀋陽)に向かって飛び立ったが、間もなく故障を生じて、新京に引き返した。幸い、故障は1時間ほどで修理できて、再び、奉天に向かった。翌19日にはソ連軍が進駐したので、もし修理が長引いて、新京にもう一泊していたら、ソ連軍の捕虜としてシベリアに連行されていたろう。

 奉天に着いた竹田宮は満洲南部で治安維持に当たっていた第3方面軍司令部で同様に大御心を説き、さらにその日のうちに京城(ソウル)に飛んで、朝鮮軍司令部にも同じく聖旨を伝達した。

 竹田宮の搭乗した飛行機は、4機の戦闘機「隼(はやぶさ)」に護衛されていた。いずれも若く優秀なパイロットで、竹田宮は京城に着いて、彼らと別れる際に、厚く礼を述べ、固い握手を交わして「今後、いろいろの情勢になろうが、くれぐれも自重して、日本の再興に尽くしてくれ」と言った。

 しかし、4機が奉天に戻ると、飛行場にソ連機が並んでいる事を目撃し、既にソ連軍に占拠されていることを知った。4機は垂直に急上昇してから、編隊を組んだまま、真っ逆さまに飛行場中央に突っ込んで、自爆した。


■6.皇帝溥儀の運命

 もう一つの任務である満州国皇帝溥儀の救出に関しては、溥儀は満洲と北朝鮮の国境にある通化(つうか)の山中にいることが判り、17日に幸いにも電話がつながって、翌18日午後に京城で落ち合う約束をした。

 しかし、その18日には、溥儀から「小さな飛行機しかないので長白山脈が越えられないから、明日(19日)午後奉天に出る」との電報が来た。

 竹田宮は新京に赴任中、皇帝溥儀とは特に親しくしていた。宮が転任で新京を去る時には、溥儀はお忍びで宮の官舎に見送りにきた程だった。

 竹田宮は翌日再び、奉天に戻って、溥儀との再会を果たそうとした。しかし、阿部・朝鮮総督と上月・朝鮮軍司令官が口を揃えて、「あなたの主任務・聖旨伝達の結果を一刻も早く帰って陛下に復命し、御安心を頂かれるべきではありませんか」と反対した。この言葉に竹田宮はハッと目を覚まし、直ちに東京に帰ることとした。竹田宮は再び、命拾いをした。

 溥儀にとっては、京城に直接飛べなかった事が運命の分かれ道となった。奉天飛行場に出ると、ソ連軍に身柄を拘束され、そのままシベリア送りとなった。


■7.「国内での不穏な動きを抑えよ」

 竹田宮は8月20日、無事に帰国し、復命することができた。同様に、サイゴン、シンガポールで南方軍に聖旨伝達した閑院宮、支那派遣軍に伝えた朝香宮も、それぞれ任務を終えて、帰国した。

 帰国して2日後の8月22日、昭和天皇から竹田宮に3度目のお召しがあった。昭和天皇は、占領軍の本土進駐に際して、反乱などがあってはならないと心配され、不穏な動きが報告されていた福岡の陸軍航空部隊と、広島県宇品(うじな)の陸軍船舶司令部に行って、自重するよう聖旨の伝達を竹田宮に命ぜられた。竹田宮はすぐに福岡と宇品に行き、それぞれ戈を収めさせた。

 8月26日には、連合軍の先遣隊が神奈川の厚木飛行場に降り立つ日だったが、そこを本拠とする相模原航空隊は進駐軍を撃退すべく演習を続けていた。海軍上層部はこれを抑えようとしたが、言うことを聞かない。昭和天皇に差し遣わされた弟宮の高松宮が直接説得することで、ようやく24日の夕方、強行派は厚木飛行場を明け渡した。

 翌25日には米軍機が東京上空を盛んに飛んだので、厚木飛行場の武装解除が半日遅れたら、戦闘状態になった可能性もあった。

 こうして789万人もの将兵が、君主の号令一下、整然と戈を収めたのは史上でも例のない見事な降伏ぶりであったが、その背景には、各皇族が昭和天皇の分身として、自分の身はどうなっても良いから民を助けたい、という大御心を内外の将兵に伝えたからであろう。


■8.歴代天皇陵への代拝

 終戦の混乱も落ち着きかけた11月29日、7名の皇族をお召しになって、123代に及ぶ歴代天皇の御陵に代拝を依頼された。

 このような終戦は自分の不徳の致すところで、それを歴代天皇に謝り、日本の今後の復興への御加護をお願いしたい。神武天皇の畝傍陵、明治天皇の桃山陵、大正天皇の多摩陵は御自身で参拝するが、残りは皇族で手分けして代参してくれ、との御聖旨だった。

 竹田宮は四国と淡路島を担当した。各皇族は全国に散って、代参をするかたわら、病院や行政機関などを訪問され、多くの要人や民衆と交流した。後に昭和天皇は8年半をかけて、沖縄を除く全都道府県を行幸され、数千万の国民と交流されたが[c]、この皇族方の代参はその原型とも言えるものであった。

 昭和22年10月、直宮(昭和天皇の弟宮である秩父宮、高松宮、三笠宮)を除くすべての皇族、11宮家51人が臣籍降下した。皇室の力を弱めようという占領軍司令部の意向であった。

 竹田宮恒徳王も竹田恒徳となったが、その後、スポーツを通じて青年のために奉仕できればと、スケート、馬術などのスポーツ連盟の会長となり、東京オリンピックや札幌冬季オリンピックの招致に貢献し、「スポーツの宮様」と呼ばれた。
(文責:伊勢雅臣)

「にやにや」してみてください!

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

本日は、かめおか ゆみこさんの★今日のフォーカスチェンジ♪より、
「にやにや」してみてください!です。


脳は、ビビリでヘタレです。

太古の昔、それは、危機回避のため
に、必要なことだったんです。

それが、DNAにきざみこまれて、
今日にいたっているわけですね。


ただ、同時に脳は、ちょこっと、
おばかさんなところがあるんです。

(そこが、脳の、かわいいところ
 でもあるのですが♪)

けっこう、ムードに
流されやすいんですよ。(笑)


そもそも、脳は、

確たる証拠をもって、
ビビっているわけではないんです。

よくわかんないけど、
なんか、不安だなあ。
なんか、こわいなあ。

と、勝手に妄想して、
ビビってしまっているんですね。


だって、ビビる確たる証拠があれば、

はっきり対策を立てるか、
きっぱり撤退するか、

どちらか決めればいいだけですから。


ということは、

よくわかんないけど、
なんか、大丈夫そうだなあ。
なんか、いけそうだなあ。

って、想えちゃったらいいワケです。

(ですよね?)


このときに、「大丈夫だ!」と、
無理に思いこもうとしても、

脳は、逆に、ビビリます。

「そんなの、信用できないよう!」
って、よけいに抵抗しちゃいます。


それよりも、意味もなく、ただ
「にやにや」してみてください。

はい。「意味もなく」がポイントです。


脳は、つねに、
「理由」をほしがります。

あなたが、「にやにや」すると、

「あれ? なんで、にやにやしてる
 んだろう」って、脳は想います。

でも、もともと意味がないですから、
理由が思い当たりません。

すると、脳はこう想うんですね。

「よくわかんないけど、
 いいことがあったみたいだ♪」


え~、そんなばかな!
って想うかもしれませんが、

何かの作業をやるときに、
ぜひためしてみてください。

フツーに作業するのと、
笑顔で作業するのとでは、

笑顔でやるほうが、スムーズに
進みやすくなるんですよ。

脳は、カンタンに
ムードに流されるんです。(爆)


未来はまだやってきていませんが、

「にやにや」することで、
その感覚を先どりしちゃうのです。

「あ、大丈夫なんだ」って、
脳が、かんちがいしてくれます♪

脳が、その気になるんですから、
あとは、実行あるのみです!


「にこにこ」でも
「あははは」でもいいんですが、

なんだか、「にやにや」が

一番、肩のちからが抜けそうな
気がするんですよね♪

まあ、そのへんはお好きなように。

おなごは大黒柱を支える大地

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、国際派日本人養成講座 ■■の 国柄探訪:日本女性の矜持 ~

『女子の武士道』から「おなごは大黒柱を支える大地」です。



■1.「おなごは大地のようなもの」

「おなごは大地のようなもの」。明治22(1889)年生まれのセツは父親からそう聞かされて育った。幕末の会津戦争の際、セツの父親はまだ幼児で、そのまた父と二人の兄は北上してくる新政府軍を迎え撃つために出立した。

__________
その際の、母じゃの見事なことよ。どっしり構えて笑顔さえ浮かべておった。そんなことがあってから、わしはおなごというのは大地のようなものだと思うようになった。

大黒柱というが、しっかりした良い大地であらねば立っていられるわけがあるまい。一家の大黒柱を受けとめて、その大黒柱を堂々たらしめんのは、おなごにかかっておる。それをよう憶えておくのであるぞ。大地とならんために学び、おのれを鍛錬するのだ。[1,p23]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 そう父から聞いたセツは、喜びを抱いた。

__________
 そんな立派なばばさまを私はお手本にせねばならぬのかと、恐ろしいような気持ちもありましたよ。けれど一方で、おなごはか弱きものとされているのに実はそうではなかったのだと、楽しいような気がしたものです。なんだか手を打って喜びたいような気分でしたねえ。

父を手伝って畑仕事もしましたから、いかに大地の質が大切かというのは、そんなことからもわかりましたし、父もことあるごと、上質な作物を作るためにはなんといっても土だと言っておりましたからの。[1,p24]
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 封建時代は「男尊女卑」だったと一般に信じられているが、それは誤った先入観だ。セツからこういう話を聞かされて育てられた孫娘、石川真理子さんは、その著書『女子の武士道』で「むしろ男尊女尊であり、日本は昔から男女共同参画だったのです」と語る。[1,p24]


■2.「そのようなことにへこたれてしまっては面白くないからのう」

「武士道」というと、いかにも生真面目な、堅苦しい生き方と考えるのも、誤った先入観のようだ。会津藩士は会津戦争に敗北した後、青森県の下北半島斗南(となみ、現在のむつ市)に押し込められて、厳しい寒さの中、食べ物さえもろくにないような境遇におかれた。

 その頃の苦しい生活をどうして耐えることができたのか、セツが聞くと、

__________
 すると父は笑い飛ばすような勢いで陽気に言ったのですよ。そのようなことにへこたれてしまっては面白くないからのう。誇りを傷つけられたなどと自害しては相手の思うつぼじゃ。陰で奥歯を噛んでいたとても平気の平左で生きてやるのよ。

お前のじじさまは誇りをもって帰農したのだ。自らの食い扶持を自らの手でつくるのだ、誇りをもたぬわけがない。ばばさまにしたって、お前も憶えておろう、得意のお縫いやお仕立てで一所懸命一家を支えたではないか。

どんな目に遭おうとも、どっこいそれがどうしたと、智恵と心意気で相対してやるのだ。士族が無くなろうと西洋張りの日本国が生まれようと、武士の心意気が生きていることを見せてやるのよ。

とまあ、想像もしなかったご返事だから、私は驚いての。けれど、これが天晴れということかと、私の気持ちまで晴れ晴れしたものです。[1,p30]
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 著者・石川真理子さんは、ここで小泉八雲が『日本人の微笑』の中で「日本人は心臓が張り裂けそうな時でさえも微笑んでみせる」と書いているのを引用し、東日本大震災の時にも多くの被災者が微笑を浮かべながらインタビューに答えていた事実を指摘する。

 困難にも明るく立ち向かうのが日本人の心根であり、武士道はこの国民性に根ざしている。「武士は食わねど高楊枝」とは、見栄ではなく誇りを守るための「やせ我慢」なのである。


■3.片目を失ったセツ

 セツが11歳のときに、農繁期で大人たちがこぞって農作業に出てしまうので、二つになるかならないかの女の子の子守を頼まれた。女の子を背負って庭に出たセツは、飛び石を飛んで女の子を喜ばせていた。

 その時、ふとした拍子にバランスを崩して、前に倒れこんだ。とっさに女の子に怪我をさせてはいけない、と思ったのか、両手で背中の女の子をしっかりと自分の背に押し付けたまま、前に手を突けない姿勢で倒れこんだ。悪いことにそこには植え込みがあり、そのひと枝で左目を突いてしまった。

 女の子は怪我ひとつせずに、びっくりした顔でセツの背中から降りた。異変に気がついた大人たちが駆けつけると、セツは自由になった左手で片目を押さえ、その手指の間から血が流れていた。セツは痛がる様子もなく、女の子を危ない目に遭わせたしまったことと、農作業を中断させてしまったことを詫びた。

 セツは左目を失明し、その目は白く濁って、見た目にも恐ろしげになってしまった。これでは嫁にも行けない。目の痛みは軽くなっても、心の方は沈んでいった。


■4.「清く正しい心が見える」

 セツは自分の顔を見るのがつらくて、鏡を見なくなった。それに気がついた母親は、ある日、静かにこう諭した。

__________
 鏡に向かってごらんなさい。おなごは毎日よく鏡を見て、おのれの心に陰が射していないか注意しなければならぬのです。その左目が醜いと思うのであれば、なぜ醜いのか考えながら見つめてごらんなされ。それはほかならぬ、お前の心が醜いと決めつけているからでないのかえ。

私には醜くは見えませぬ。おのれより先に幼い子どもを守ったという、おまえの清く正しい心がそこに見えるから、醜くは見えぬのです。[1,p43]
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「清く正しい心が見える」という母の言葉は、あまりにありがたく思えた。そして、自分がまだまだ自分の運命を受け入れていなかったのだ、と分かった。

 武士道は自らの運命を穏やかに受け入れ、静かに従う心を求むる。「なぜ自分がこのような目に遭わなければならないのか」と運命を恨んでいるうちは、自分の本当の人生は始まらない。

 目を失ったという自分の運命を静かに受け入れた所から、「そのようなことにへこたれてしまっては面白くないからのう」という困難にも明るく立ち向かう生き方が始まる。


■5.「生涯の友を見つけなされ」

 日露戦争後は「自由主義」「自然主義」の風潮が起こり、封建時代の道徳などこれからの時代には通用しないという考え方が広まった。セツの女学校でも、級友たちはそういう風潮に染まっていた。

__________
 私も友人たちのように、いっぱしに自由という言葉を使ってみたくてね。だけどその実、何が自由だかわかっていなかったものですよ。せいぜい厳しい父の教えから逃れるのが自由と思ったぐらい。

それでも女学校に通っていた友人をまじえて自由とは何か、なんてことをしゃべりあっていると、不思議な高揚感と解放感があっての。それがますます父親への反発心に火をつけて、反抗したい気持ちになったのですよ。そうしたら父にひどく怒鳴られまして、それは恐ろしかったものですよ。[1,p49]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 セツが「自由主義」という言葉を使った瞬間、父親は烈火のごとく怒って、「自由と身勝手をはき違えおって、そんなくだらん輩(やから)に迎合するぐらいなら、いっそおまえは孤独を選べ!」と怒鳴られたのだった。

 セツはじっと唇を噛み、かたちだけ頭を下げて「わかりました」と謝った。その様子を見ていた母親は、しばらくしてから娘を呼んで、こう言い聞かせた。

__________
 ほんとうは親身になって話せる友が欲しいのではないですか。おまえが友に話したいことは、自由主義のことではなかろう。安心しなされ、おまえがまごころを失わずにいれば、かならず本物の友人ができます。

ほんとうの自分を隠して人とつきおうても、そんなのは偽物です。一時の気を紛らわす相手ではなく、生涯の友を見つけなされ。[1,p49]
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■6.「人の情けに触れたときに流す涙はうつくしいものですよ」

 セツは女学校で級友たちから「セツさんはお堅いわ。まるで古武士のようね」と敬遠された。そのように受け取られるだろうとは分かっていても、やはり悔しい思いは捨て切れなかった。

 そんな時、千代と知り合った。千代も会津藩士の娘で、没落寸前となった一家をなんとか支えようと、わずかばかりの収入でも、とセツの家を訪ねてきた。気の毒に思った父親は、働き口の世話をした。千代はうれしさのあまり涙を流した。

「武家の娘は泣いてはいけない」と教えられて育てられたセツは、いけないものを見たように、はっとして目をそらした。

__________
 すると母が、人の情けに触れたときに流す涙はうつくしいものですよ。ごらんなさい。胸があつくなるようです。こんなに喜んでいただけて幸せだこと・・・ と言うての。

おそるおそる見れば、確かに心が動かされるようにきれいだった。ありがたいと流す涙は礼を失したりはしないということが、ようわかりましたよ。[1,p54]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 それからセツと千代は心を許しあい、忙しく働く合間にも行き来して、おしゃべりをするのが何よりの楽しみになった。

 そんなある日、千代はこう言った。「セツさんは古武士のようと言っていた人がいたけれど、それはまったく素敵なことね。私は自慢したい思いだったのよ」

 千代の思いがけない言葉に、気がつけばセツの頬に涙が伝わっていた。

__________
 少し恥ずかしかったけれど、ずいぶんうれしい気持ちでしたよ。友とはなんと良いものだろうと思いました。そしてそれからはいっそう、涙はうれしいときしか流すまい、と思うようになったのです。[1,p54]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■7.「自分の苦しみや悲しみを外面に表さないという礼」

 表情に注意するのは、武士道の特徴である。それはいつも能面のような無表情を勧めているわけでない。セツの母の言うように、人の情けに触れたときの美しい涙は流しても良いのである。

 新渡戸稲造は著書『武士道』の中で次のように言っている。

__________
 武士道は一方において不平不満を言わない忍耐と不屈の精神を養い、他方においては他者の楽しみや平穏を損なわないために、自分の苦しみや悲しみを外面に表さないという礼を重んじた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 大震災で家を失うような大きな損害を受けても、微笑を浮かべてインタビューに応じた人々は、「忍耐と不屈の精神」の持ち主であり、また他者の平穏を損なわないための「礼」を実行しているのである。

 近隣諸国の中には、不幸に会うと人前で大袈裟に泣き喚くことを慣習としている国もあるが、武士道から見れば、それは運命を受け入れられずにあがいている姿であり、また他者への思いやりのかけらもない姿である。そこには困難と戦い、他者を思いやる人間精神の自由はない。


■8.国家の元気、気風は母の感化による

 ここで紹介したセツの母親の言動から、「おなごは大地のようなもの」という事は十分に感じとれよう。こうして育てられたセツは、やがて自ら「大地」となって、大恐慌、関東大震災、そして大東亜戦争と次から次へと襲ってくる苦難に負けずに夫を支え、3男3女を育てていくのだが、その波瀾万丈の物語は原著で味わっていただきたい。

 明治期の女性教育の代表者・下田歌子の次のように語っている。

__________
 その国民の元気、気風のいかんは、またおのおのその母の感化によるものとすれば、母としての婦人は、実に国家の元気、気風を自分の双肩に担って立つものと申さねばなるまいと思います。[1,p114]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 明治日本は、極東の島国からわずか半世紀ほどの間に世界五大国の一つにまで成長したのだが、その国家の元気、気風は、全国津々浦々でセツの母親のような女性が「大地」となって生み出したものだろう。
(文責:伊勢雅臣)

おとな流「いま・ここを生きる」です。

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。


今回は、かめおか ゆみこさんの ★今日のフォーカスチェンジ♪、
おとな流「いま・ここを生きる」です。


エネルギーをうばう三大要素。

過去へのとらわれ。
未来への不安。
周囲への気づかい。

私たちは、多かれ少なかれ、
ここからエネルギーをうばわれます。


どうしたら、エネルギーを
うばわれずにすむのか?

シンプルなこたえは、
「いま・ここを生きる」です。


実は、うんとおさない
子どもたちは、そのお手本です。

子どもたちは、過去のことを
振り返って、くよくよしません。

未来の不安で、憂いたりしません。

まわりのことなんか、
おかまいなしです!(笑)


でも、おとなになるにつれて、
傷つく体験を重ねます。

マイナスの未来を想像して、
あれこれくよくよ考えます。

まわりのことが気になり、
行動を抑制してしまいます。


あれ? おとなになるって、
こういうことだったの?

子どものままでいたほうが、
幸せだった?

…なんて思ってしまいそう!


けれど、おとなになった私たちは、

もう、子どもにもどることは
できません。

成長のプロセスで、
経験も知識もそなえた私たちは、

子どもたちとはちがう方法で、

幸福な人生を、
選択する必要があるのです。


それが、おとな流
「いま・ここを生きる」なんです。

今日は、ざっくりと
概要だけをお伝えします。


まず、過去について。

過去は、すでに存在していません。

過去は、あなたのアタマのなか、
記憶のなかにだけ存在しています。

しかも、それは、あなたが

意識的・無意識的に受け取った、
心象記憶であり、選択記憶です。

つまり、事実とイコールではない
かもしれない、ということです。


そして、未来について。

未来は、まだ存在していません。

未来は、あなたのアタマのなか、
想像のなかにだけ存在しています。

しかも、それは、あなたが、
意識的・無意識的にイメージした、
予想にすぎません。

あなたの予知能力は、
予言者レベル、神レベルですか?


さらに、周囲について。

当たり前の事実ですが、
あなたは、
まわりのひとではありません。

まわりのひとも、
あなたにはなれません。

つまり、あなたの人生に、
最後の最後まで、
責任をもってつきあうのは、

あなた自身しかいない、
ということです。


以上です。

これらのことが、腑に落ちれば、

おとな流「いま・ここを生きる」
を実践できます。

ちゃん、ちゃん。


…で、ナットクできたかたは、

この先を読む必要はありません。


がっ、多くのかたは、おそらく、
ここでモンゼツしているはずです。

「アタマではわかってるんだけど、
 実際に、できないんだあああ!」


はい。

というわけで、明日からは、
その詳細版を書いていきます。

お楽しみに!

自分の体に感謝する

テーマ:ブログ
リペアショップ鹿児島店の坂元です。



今回は、春日大社宮司・医学博士、葉室頼昭氏の心に響く言葉より…自分の体に感謝する



人間がいちばん嬉しいのは、人に認めてもらうことです。

反対に、一生懸命やっても誰にも認められないというのは悲しいものです。

これはなぜでしょうか。


科学で証明されないものや目で見えないものは信じないなどと言う人がよくいますが、この宇宙には、絶対に、永久に見ることができないものがひとつあります。

それは何かというと、自分自身です。

自分という人間は永久に見ることができません。


鏡や写真などに映して見てはいますが、あれはあくまでも影を見ているわけです。

自分はどんな顔をしているのかも分かりません。

自分自身を知ろうと思えば、他人から見てもらうしかないのです。


もしあなたが女性であれば、「きれいですね」「若いですね」と言われれば嬉しいでしょう。

それは、自分では自分のことが分からないからです。

男性は、「素晴らしい」「立派だ」といわれると、ああそうなのかという気がして嬉しくなるでしょう。

生き生きした気持ちになると思います。


これと同じで、人間の身体の細胞一つ一つもみんな生きています。

ですから、認めてあげることで、やはり非常に生き生きとしてくるのです。

この体は、生まれてからずっとこの何十年一秒の休みもなく働いてくれています。

この体に生かされているのに、ご主人さまが一向に褒(ほ)めてくれないとなると、細胞も怒ります。

もう力が出なくなってしまうのです。

ですから、一つ一つの細胞を、「素晴らしいね」と認めてあげて、感謝してあげる。

これが健康の本当の基本です。


私は、健康のために、感謝の心を込めて毎日、頭から足の先までをなでています。

私は医者で体全体の構造を知っていますから、頭をなでながら、毛髪、皮膚、頭蓋骨、脳と次々に「ありがとう」と感謝していきます。


五十肩という病気があります。

なかなか治らないので不平をこぼす人がいますが、そんな人に「あなた、肩に感謝したことがありますか」と尋ねると、びっくりするのです。

長い間、ものを持ったり、支えてくれたり、いろいろと働いていてくれているのに、ご主人さまがちっとも感謝してくれないので、肩の細胞が怒っているのです。

それが五十肩です。

それで、「まず肩に感謝しましょう」といっているのです。

感謝すると治ってきます。

これは本当の話です。


『神道感謝のこころ』春秋社




色々なものやこと、あるいは人に感謝することはとても大事だ、とはよく言われることだ。

しかし、意外に忘れているのが、自分の体に感謝すること。


「体は借り物」という言葉がある。

神さまからお借りしているものだから、いつかは返さなくてはならない。

お返しするときが、いわゆる、死ぬとき。


体は自分のものだと思っている人は、ぞんざいに扱う。

しかし、神さまからお借りしていると思うなら、感謝の心をもって、大事に扱うようになる。


毎日、自分の体に感謝したい。

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