鹿児島市西千石町の「フレッセ厚生市場」にある靴修理・鞄修理・合鍵作製のお店です。
 

店 名   リペアショップ鹿児島店
住 所   鹿児島県鹿児島市西千石町13-11
電 話   099-223-1766 
店舗URL http://ebisusama2322.on.omisenomikata.jp/


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ただ生きていく、それだけで素晴らしい

テーマ:ブログ
リペアショップ鹿児島店の坂元です。


今回は、五木寛之氏の心に響く言葉より…ただ生きていく、それだけで素晴らしいです。




「生きる目的がわからないんです」

私の講演会では、まれにですが、最後に質疑応答のコーナーを設けることがあります。

そのとき、こんなふうにおっしゃる方が少なくありません。


私はその方に、「生きるうえで目的は、果たして必要なんでしょうか?」と問い返します。

なぜならこれまで生きたきた中で、そういったものはないんじゃないか、とひそかに感じているからです。

そして目的がなくても、生きているだけでもう十分に素晴らしいと心の中で思うのです。

「生きる」とは、それだけで奇蹟と言ってもいい。


「一本のライ麦」の話をしましょう。

アメリカの生物学者、アイオワ大学のディットマー氏が行った、実に面白い実験の話です。


小さな四角い箱に土を入れ、一粒のライ麦のタネを育てます。

水をやりながら四ヵ月ほどしますと、ライ麦の苗がヒョロヒョロと育ちます。

小さな箱で栄養も足りないんでしょう、ひ弱で頼りない様子で、もちろん穂も大きく育ちません。


その頼りない苗を箱から出して、土を払い落し、根がどれくらい育っているかを物理的に計測します。

見えないほど小さな産毛(うぶげ)のような根毛(こんもう)も顕微鏡(けんびきょう)で計測しますと、なんと全部で約一万千二百キロメートル以上の根を土の中に張りめぐらしていた…。

そこから必死の思いで栄養分を吸い上げながら、その小さないのちを保っていたのです。

生きているということは、実はそれだけの目に見えない根によって支えられているということです。


小さなライ麦でさえそうなのです。

私たちはライ麦よりも複雑で大きいうえに、何十年と生きていきます。

もっともっと長い根がこの宇宙に張りめぐらされて、私たちを生かしてくれているのではないでしょうか。

その根の広さ、大きさというものを考えると、気が遠くなるような気がします。


人間は、自分で生きているつもりでいても、自分だけで生きているのではない。

一個の人間として生きるために、気がつかないところで大きなエネルギーを消費しながら、今日一日を生きているのです。

そう考えますと「生かされている自分」と言うことすらおこがましい気がしてきます。


「生きている」。

それだけで十分なのではないのか。

もちろん生きる目的や目標を持ち、何かを達成することは素晴らしいことだと思います。

しかし、達成できなくても素晴らしい、そう考えてほしいのです。


私たちは生きているだけで価値のある存在です。

生きるというだけですでに様々なことと闘い、懸命に自己を保ち、同時に自然と融和している。

悩みのたうちながら、毎日を生き抜いている。

そんないのちの健気(けなげ)さを思うと感動を覚えます。

まずあなたのいのちの健気さを、自分自身で認めてあげてほしいと思うのです。


『ただ生きていく、それだけで素晴らしい』PHP研究所





ある女性にこんな話を聞いたことがある。

自分の子供が高校生の頃、授業のみならず、試験もサボって遊びに行ってしまったり、卒業のために学校が好意で追試を用意してくれてもそれまでもサボって行かない等々…

いよいよこれでは卒業できないと、切羽詰って、義父に相談したそうだ。

すると、義父は、その女性を前に座らせ、こう言ったという。

「生きているだけでありがたいじゃないか」

義父は、戦争に行き、酷寒のシベリアで5年間の抑留生活を経て帰ってきた方。


豊かな生活をしていると、ちょっとした嫌なことがあっても耐えられなかったり、我慢できなくなる。

世界には飢えた人、戦争やテロの脅威の真っ只中にいる人も多い。

そんな中、平和な日本に生まれたことだけで、本当は幸せなのに…


だからこそ、

ただ生きていく、それだけで素晴らしい




ひどい目に遭ったときは、運がたまっている

テーマ:ブログ
リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、萩本欽一氏の心に響く言葉より…ひどい目に遭ったときは、運がたまっているです。


■僕の書いた運の本に、女の子から手紙が来たの。

新入社員でいつも上司に怒られて会社に行くのが嫌になっていたそのとき、たまたま僕の本を読んだんだって。

そこに「怒られるごとに運がたまっている」とあって、今は運をためてる時期なんだと思ったら、会社が楽しくなってきたって言うの。


■僕は、ひどい目に遭ったとき、「次、でっかい運がやってくるかな」と思うんです。

現にテレビでコマーシャルの生放送を19回トチる大失敗をして、ションボリして熱海に行っていたときがそうでした。

2ヵ月たって、やり直そうと浅草の下宿に帰って来たら、その日に(坂上)二郎さんから電話があったの。

それがコント55号の結成につながったのね。

奇跡だね。

1日遅れて帰って来てたら二郎さんとコンビになってないんだもんね。

負けは負けのまま終わらない。

人生ってうまくできているね。


■ダメなヤツは俺の仲間だと思うから、ダメなヤツほど応援したくなるね。

小堺一機は最初にテレビに出た時、ガタガタ震えていたからね。

後になって小堺が、「(欽ちゃんから)『あがるヤツ、好きなんだよ』と言われたのが励みになった」って言ってたけど、違うの。

俺と互角のあがり症のヤツがいるんだ、スゲーッて、バカにうれしかったの。

この子がもし有名になったら、この子も俺もすごい幸せに思うだろうなあって。

ですから師匠でも何でもないの。

教えたこと1回もないんだもの。

テレビに出るきっかけをつくってあげただけでね。

でも面白いよね。

僕を師匠みたいに言うんだもんね。


■子どもたちに僕が言ったのは、

「みんなが右を向いていたら、とにかく1回は左を見ろ。左にいいことがある。たくさん人が集まっているところには運がない」とね。

それと「嫌だ」と思ったことも、とりあえずやってみた。

8年前、24時間テレビでチャリティマラソンのランナーになってくれ、と言われたときも、本当はすごい嫌だったの。

66歳という年齢ではキツイよ。

でも嫌なことには運がある。


『人生の流儀』新日本出版社




欽ちゃんは、「損から入ると運がたまる」という。

人とつき合うときは、率先して損な役回りをすると、だれかが幸運を持ってきてくれるからだという。


「運は遠いところからやってくる」

という欽ちゃんの言葉も同じで、まわり道が一番近かったりする。


怒られたり、ひどい目に遭ったときも、一見すると「損」のように思えるし、「まわり道」でもある。

しかし、実はそういう時が一番運がたまるとき。


大事なことは、怒られたり、ひどい目に遭ったときに、どんな対応をするのか。

そこで、グチや文句や泣き言を言うのか、逆に感謝したり、ありがたいと感じるのかどうか。

神さまは、そういうところをよく見ているという。


嫌なことには運があり、ひどい目に遭ったときに運がたまっている。



きれいな言葉を意識して使う

テーマ:ブログ
リペアショップ鹿児島店の坂元です。


今回は、斎藤一人さんの心に響く言葉より…「きれいな言葉を意識して使う」です。


きれいな言葉というのは、意識して使わないと口から出てこないものです。

それは、人間の脳と関係があるからです。

人間の脳は、本能的に自分の身体を守ろうとするために、悪いことが起きる前提でものごとを考えています。

要するに、前もって心配しているのです。


頭の中で心配することによって、予期せぬできごとに対して予防線を張っています。

あらかじめ心配しておけば、いざショッキングなことが起こってもショックを和らげることができるからです。


幸せになりたいと思ったら、「幸せだなあ」と声に出してみましょう。

「幸せだなあ」と何度も声に出していると、あなたは幸せな顔になっているはずです。


言葉はエネルギーです。

口から出た言葉は、エネルギーになって天空を駆けのぼり、お星様に当たって再び自分の元に返ってきます。

「幸せだなあ」と声に出せば幸せが、「ありがたいなあ」といえばありがたいことが自分に返ってきます。

しかも、池に石を投げ込んでできる波紋のように、何倍も大きくなって返ってくるのです。


おもしろいことに、「幸せだなあ」が口癖になってくると、「なぜ自分は幸せなのか」という理由がフッと出てくるようになります。

なぜそんなことになるかというと、人間の脳にその秘密が隠されています。


人間の脳は、脈略のないことを話していると思考回路が錯乱します。

この錯乱を止めるために、脳は錯乱した原因を探しはじめます。

「幸せだなあ」といった自分は、なぜ幸せなのかと原因を探しはじめるわけです。


人間の脳はカラ回りをいちばん嫌うものです。

だから、とにかくつじつまを合わせようとするのです。

すると、「…だって、今日の天気はとってもいいからだよ」と、幸せである理由が勝手に口から出てきます。


まわりの人間からは極楽とんぼといわれるかもしれませんが、そんな声には耳を貸さず、ドンドンいい続けましょう。

変な奴だなといわれても、そこでやめてはいけません。


さて、「幸せだなあ」という言葉の対極にあるのが「ため息」という行為です。

ため息をつくというのは、世の中でいちばん悪いことです。

ため息の中には夢がありません。

そればかりか、夢を消して諦(あきら)めや絶望を生み出します。


ため息は最悪の行為ですが、うっかりため息をついてしまうこともあります。

でも心配はいりません。

そんなときはあまり気にせず、続けて「幸せだなあ」と声に出してみましょう。

こうしておけば、ため息の悪い部分を薄めて、幸せになっていきます。

人は幸せになるために生きているのだから、邪魔するものは払いのけなくてはなりません。


『斎藤一人の絶対成功する千回の法則』講談社





我々は時々、予防線を張ってしまうことがある。

出来なかった時のことや、失敗した時のこと、結果が出なかった時などのことを考えて、言い訳を前もって言っておく。

自分に自信がないからだ。


「幸せだなあ」と声にだして言ってみる。

まわりに聞こえて恥ずかしいなら、一人のときや寝る前や朝起きたとき、にこっそり言ってみる。

「ツイてる」、「うれしい」、「楽しい」、「感謝してます」、「ありがとう」、「ゆるします」も同じ。


「ツイてる」と言い続ければ、ツイてる理由を脳が勝手に探してくる。

きれいな言葉を意識して使いたい。







なぜ日本人には虫の「声」が聞こえ、外国人には聞こえないのか?

テーマ:ブログ

リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、国際派日本人養成講座より、
なぜ日本人には虫の「声」が聞こえ、外国人には聞こえないのか?です。




誰しも一度は耳を傾けたことがある、虫の声ですが…、この虫の鳴き声を「声」として認識できるのは、世界中で日本人とポリネシア人だけという事実をご存知でしょうか。

国際派日本人養成講座』では、そのメカニズムを紐解きながら、わたしたち日本人の「全世界に対する責務」についてが論じられています。



日本語が作る脳

東京医科歯科大学の角田忠信教授が、1987年1月にキューバのハバナで開かれた第一回国際学会「中枢神経系の病態生理学とその代償」に参加した時の事である。
キューバではいまだ戦時体制が続いており、西側諸国からの参加者は角田教授一人だった。開会式の前夜に歓迎会が開かれ、東欧圏から大勢の科学者が参加していた。キューバ人の男性が力強いスペイン語で熱弁をふるう。

しかし、教授は会場を覆う激しい「虫の音」に気をとられていた。
なるほど暑い国だな、と感心して、周囲の人に何という虫かと尋ねてみたが、だれも何も聞こえないという。教授には「蝉しぐれ」のように聞こえるのに!

午前2時頃、ようやくパーティが終わって、キューバ人の若い男女二人と帰途についたが、静かな夜道には、さきほどよりももっと激しく虫の音が聞こえる。

教授が何度も虫の鳴く草むらを指して示しても、二人は立ち止まって真剣に聴き入るのだが、何も聞こえないようだ。不思議そうに顔を見合わせては、お疲れでしょうからゆっくりお休みください、というばかりであった。

教授は毎日、この二人と行動をともにしたが、3日目になってようやく男性は虫の音に気づくようになった。しかし、それ以上の感心は示さなかった。
女性の方は、ついに一週間しても分からないままで終わった。どうも日本人の耳と、外国人の耳は違いがあるようだ。


左脳と右脳

こうした聴覚の違いを切り口に、角田教授は日本人の脳が他の民族の脳と違う点を生理学的に追求してきた。その結果が驚くべき発見につながった。
人間の脳は右脳と左脳とに分かれ、それぞれ得意分野がある。右脳は音楽脳とも呼ばれ、音楽や機械音、雑音を処理する。
左脳は言語脳と呼ばれ、人間の話す声の理解など、論理的知的な処理を受け持つ。ここまでは日本人も西洋人も一緒である。

ところが、虫の音をどちらの脳で聴くかという点で違いが見つかった。
西洋人は虫の音を機械音や雑音と同様に音楽脳で処理するのに対し、日本人は言語脳で受けとめる、ということが、角田教授の実験であきらかになった。
日本人は虫の音を「虫の声」として聞いているということになる。

キューバ人にとっては、会場を覆う激しい虫の音も、いつもの騒々しい雑音だと慣れてしまえば、意識にのぼらなくなってしまう。

我々でも線路沿いに長年住んでいれば、騒音に慣れて、電車が通っても意識しなくなってしまうのと同じ現象なのだろう。
しかし、虫の音は日本人は人の声と同様に言語脳で聞いているので、雑音として聞き流すことはできない。スペイン語の熱弁と激しい虫の音は、教授の左脳でぶつかっていたのだ。


このような特徴は、世界でも日本人とポリネシア人だけに見られ、中国人や韓国人も西洋型を示すという。
さらに興味深いことは、日本人でも外国語を母国語として育てられると西洋型となり、外国人でも日本語を母国語として育つと日本人型になってしまう、というのである。
脳の物理的構造というハードウェアの問題ではなく、幼児期にまず母国語としてどの言語を教わったのか、というソフトウェアの問題らしい。


左脳か、右脳かの実験

この違いを考察する前に、こうした結果がどのような実験で得られたのか、簡単に見ておこう。
人間の耳から脳への神経系の構造は、左耳から入った音の情報は右脳に行き、右耳から入ると左脳に行く、という交叉状態になっている。

そこで、左右の耳に同時に違ったメロディーを流して、その後で、どちらのメロディーを聴きとれたかを調べると、常に左耳から聴いた方がよく認識されている事が分かる。

これで音楽は、左耳、すなわち、右脳の方が得意だと分かる。同様に、違う言葉を左右から同時に聴かせると、右耳、すなわち左脳の方がよく認識する。

我々がほとんどの場合、右耳に受話器をあてるのは、このためだそうだ。さらに複雑なテスト方法もあるが、これが最も基本的な実験方法である。

こういう実験で、いろいろな音で、左脳と右脳の違いを調べると、
音楽、機械音、雑音は右脳、言語音は左脳というのは、日本人も西洋人も共通であるが、違いが出るのは、母音、泣き・笑い・嘆き、虫や動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎ、邦楽器音などは、日本人は言語と同様の左脳で聴き、西洋人は楽器や雑音と同じく右脳で聴いていることが分かった。


アメリカでの虫の音?

虫の音と言えば、筆者にもこんな個人的な体験がある。ボストンから内陸部に車で2時間ほど入った人里離れた山中で、見晴らしの良い所があったので、車を止めて一休みしていると、昼間なのに虫がしきりに鳴いている。

それを聞いているうちに、ふと、そう言えばカリフォルニアに4年も住んでいたが、虫の音に聴き入った覚えがないな、と気がついた。

乾燥したカリフォルニアでも沿岸部にはかなり緑も多い。
しかし私の記憶の中の光景では、なぜか常に豊かな緑がシーンと静まりかえっているのだ。やかましい蝉しぐれだとか、秋の夜長の虫の音だとかは、どうしても思い出せない。

アメリカ人が虫というとまず思い浮かべるのは、モスキート(蚊)、フライ(蠅)、ビー(蜂)など、害虫の類だ。
アメリカでは蜂はまだしも、蚊や蠅はほとんどお目にかからない。
だからたまに蠅を見かけると、とんでもない不衛生な所だという感じがする。文明生活の敵だとして、とことん退治してしまったのだろうか?

また昆虫を示す単語には、悪い語感が付随している場合が多い。
「insect」には「虫けらのような人、卑しむべき人」という使い方があり、「bug」は、「悩ましい、てこずらせる」から、転じてソフトウェアの「バグ」などと使われる。

日本語なら「虫けら」とか、蚤、シラミのイメージだ。

虫はすべて害虫であり、その鳴く音も雑音と同様に聞くとなれば、蚊や蠅を退治する殺虫剤で、見境なく一緒に全滅させてしまったとしても無理はない。



虫の音に聴き入る文化

日本では対照的に、虫の音に聴き入る文化がある。

現代でもコオロギ類の画像と鳴き声を納めたインターネットサイトから、飼育法を解説した書籍まで無数にある。
「虫の声」という以下の童謡は、虫の音に聴き入る文化が子供の頃から親しまれている一例である。


あれ松虫が鳴いている

チンチロ チンチロ チンチロリン

あれ 鈴虫も鳴き出した

リン リン リン リン リーン リン

秋の夜長を鳴きとおす

ああ おもしろい 虫の声

この伝統は古代にまで遡る。


夕月夜心もしのに白露の置くこの庭にこおろぎ鳴くも

(万葉集、しのに:しっとりと濡れて、しみじみした気分で)


近世では、明治天皇の御製が心に残る。


ひとりしてしづかにきけば聞くままにしげくなりゆくむしのこゑかな

一人静かに耳を傾けると、虫の声がより一層繁く聞こえてくるという、いかにも精密な心理描写である。

また虫の「声」という表現が、すでに虫の音も言語脳で聞くという角田教授の発見と符合している。もう一つ明治天皇の御歌を引いておこう。


虫声

さまざまの虫のこゑにもしられけり生きとし生けるものの思ひは

松虫や鈴虫など、さまざまな虫がさまざまな声で鳴いている。
それらの声に「生きとし生けるもの」のさまざまな思いが知られる、というのである。

人も虫もともに「生きとし生けるもの」として、等しく「声」や「思い」を持つという日本人の自然観がうかがわれる。虫の音も人の声と同様に言語脳で聞く、という日本人の特性は、この文化に見事に照応している。


犬は「ワンワン」、猫は「ニャーニャー」

角田教授の発見では、虫の音だけでなく、そのほかの動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎまで、日本人は言語脳で聞いているという。

これまた山や川や海まで、ありとあらゆる自然物に神が宿り、人間はその一員に過ぎないという日本古来からの自然観に合致している。


幼稚園から小学校の4、5年ぐらいの日本の子供に、犬はなんといって鳴くかというと、ワンワンというにきまっているのです。
マツムシはチンチロリンという。
外国人に聞きますと、ひじょうに困るのです。なんというていいか一生懸命考えて記憶を呼び出して、ウォーウォーといったり、ワーワーと言ったり。

(『右脳と左脳』p122 対談者の園原太郎・京都大学名誉教授(心理学)の発言)

日本の子供が「ワンワン」と答えるのは当然である。
親が犬を指して「ワンワン」と教えるのであるから。

同様に猫は「ニャーニャー」、牛は「モーモー」、豚は「ブウブウ」、小川は「サラサラ」、波は「ザブーン」、雨は「シトシト」、風は「ビュウビュウ」。

まるで自然物はすべて「声」をもつかのようである。

このような擬声語、擬音語が高度に発達しているという点が、日本語の特徴である。

幼児がこれらを最初から学んでくれば、虫や動物の鳴き声も自然音もすべて言語の一部として、言語脳で処理するというのも当然かもしれない。

あるいは、逆に、言語脳で処理するから、言語の一部として擬声語、擬音語が豊かに発達したのか?


いずれにしろ、自然音を言語脳で受けとめるという日本人の生理的特徴と、擬声語・擬音語が高度に発達したという日本語の言語学的特徴と、さらに自然物にはすべて神が宿っているという日本的自然観との3点セットが、見事に我々の中に揃っているのである。



人種ではなく、母国語の違い

角田教授の発見で興味深いのは、自然音を言語脳で受けめるという日本型の特徴が、日本人や日系人という「血筋」の問題ではなく、日本語を母国語として最初に覚えたかどうかという点で決まるということである。

その端的な例として、南米での日系人10人を調査したデータがある。

これらの日系人は1名を除いて、ポルトガル語やスペイン語を母国語として育った人々で、その脳はすべて西洋型であった。

唯一日本型を示した例外は、お父さんが徹底的な日本語教育を施して、10歳になるまでポルトガル語をまったく知らずに過ごした女性であった。
その後、ブラジルの小学校に入り、大学まで出たのだが、この女性だけはいまだに自然音を言語脳でとらえるという完全な日本型だった。

逆に朝鮮人・韓国人はもともと西洋型なのだが、日本で日本語を母国語として育った在日の人々は、完全な日本型になっている。

こう考えると、西洋型か日本型かは人種の違いではなく、育った母国語の違いである可能性が高い。
「日本人の脳」というより、「日本語の脳」と言うべきだろう。

角田教授の今までの調査では、日本語と同じパターンは世界でもポリネシア語でしか見つかっていない。


違うがゆえに独創的なものが生まれる

日本語による脳の違いとは、我々にとってどのような意味を持つのだろうか? 理論物理学者の湯川秀樹博士は、角田教授との対談でこう語る(『右脳と左脳』p114)。


つまり日本人はいままでなんとなく情緒的であるというていた。

(西欧人が)論理的であるのに対して、より情緒的であるといっていたのが、構造的、機能的、あるいは文化といってもいいけれども、そういうところに対応する違いがあったということが、角田さんのご研究ではっきりしたわけです。



そうするとそこで私が考えますことは、その違うということを生かすという方向です。


違うということは上とか下とかいうことではなくて、その違いということを生かす。

(中略)違うがゆえに独創的なものが生まれるのである。
西洋に比べてあかん、劣っているという考え方が根深くあったけれども、そういう受け取り方をしたら劣等感を深める一方です。

「違うがゆえに独創的なものが生まれる」とは、独創的な中間子理論でノーベル賞を受賞した湯川博士の言葉だけに重みがある。
日本語の脳の違いは人類の多様性増大に貢献しているわけで、「虫の音に耳を傾ける文化」などは人類全体の文化をより豊かにする独創的なものと言える。

こうした「生きとし生けるもの」の「声」に耳を傾けるという自然に対する敬虔な姿勢は、今後「宇宙船地球号」の中ですべての生命と共生していくために貴重な示唆を与えうる。

我々が受け継いだこの「日本語の脳」の違いを意識的に極め、その独創性をよりよく発揮していくことは、我々日本人の全世界に対する責務とも言えるだろう。

文責:伊勢雅臣





百人が百人の子供を間違いなく不幸にする唯一の方法

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、正法寺住職、青山俊董尼の心に響く言葉より…百人が百人の子供を間違いなく不幸にする唯一の方法です。



大型連休に入った日、たまたまタクシーの運転手が語りかけてきました。

「今家族五人、連休を利用して海外へ遊びにゆくというのを空港に送ってきましたが、金持ちに生まれた子供はかわいそうですな。

いつでも行きたいところへは連れていってもらえる。

ほしいものは何でも買ってもらえる。

金は一生ついてまわるもの、などという中で育ってしまうと、自分の欲望にブレーキをかけるということも知らずに育ってしまいますし、行けて当たり前、買ってもらって当たり前で、喜びをいただくアンテナも立ちません。

そこへゆくと私などは十二人兄弟でしたから、親は育てるのに苦労したと思いますよ。

焼き芋一つも十二人で二つか三つしか買ってもらえないじゃないですか。

一つの焼き芋をみんなで分けあって一口ずつ食べたときのおいしさは忘れられません。

一口の焼き芋を、こんなに喜びの中にいただけるのは、貧しい家に育ったお蔭です」


禅家の大説法を聞く思いで耳を傾けていた私は、思わずこんなおしゃべりをしました。

「『百人が百人の子供を間違いなく不幸にする唯一の方法は、いつでもほしいものは買ってやる。行きたいところへは連れていってやることだ』とルソーが語っていますね。

ああしたい、こうしたい、あれがほしい、これがほしいというわがままな私を野放しにせず、しっかりと手綱さばきのできるもう一人の私を育てることこそ大切なことであり、それが親の責任でもあるのですがね」と。


道元禅師のお言葉に「遠近の前途を守りて利他の方便をいとなむ」というのがあります。

その人の、あるいはその子の遠い将来のことまでも考えた上で、今どうしてやるべきかを考える、というのです。


ヨーロッパの家庭であったことです。

食事の最中に子供が騒いだ。

父親が厳しくたしなめて食事をさせませんでした。


居あわせたE氏が、「少し厳しすぎないか」というと、父親はいいました。

「今叱らなければ、子供の心が死んでしまう。

一度や二度食事をとらなくても、子供の体は死にません」と。


その人の、あるいはその子の、少なくとも一生という展望の上から、今どう対処すべきかを考える、それがほんとうの愛というものであり、親切というものでありましょう。


『泥があるから、花は咲く』幻冬舎




多くの人は、何不自由なく使えるお金があったらいいなと、夢想する。

しかし、人はやっかいなことに、お金があればあったで、本人のみならず、家族、あるいは会社なら社員の気持ちまでが弛(ゆる)んでしまう。

そして、油断したり、気が弛んだりして、スキができ、思わぬアクシデントに見舞われることになる。


アルコール依存症の治療も同じだが、目の前にお酒があるのに「飲まない」という自己コントロールくらい難しいことはない。

依存症の治療中の人が世間に出て行けば、テレビではビールの宣伝が絶えず流れていて、コンビニやお酒屋さんにはお酒があふれている。


豊かな時代には、自己コントロールの力をつけることくらい重要なことはない。


『百人が百人の子供を間違いなく不幸にする唯一の方法は、いつでもほしいものは買ってやる。行きたいところへは連れていってやることだ』

自己コントロールができない人のことを、「わがまま」、「自己中心的(自己チュー)」、「自分本位」、「甘えがある」「他力本願」、という。


子供だけでなく、自分自身の行動も、きちんと律(りっ)することができる人でありたい。
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