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胎内記憶に心耳を澄ます

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、致知4月号より「胎内記憶に心耳を澄ます」です。





池川クリニック院長の池川 明氏によると、生まれる前の記憶を語る子供たちがいるといいます。
池川氏によると、
諏訪市と塩尻市の公立保育園1620人へのアンケートの回答で、お腹の中の記憶を持つ子が30%、誕生した時の記憶を持つ子が20%もいることがわかったそうです。





その記憶とは、「暗くて、プカプカしていて気持ちよかった」「温かくて柔らかだった」といった胎内の様子や、「丸くなって入っていたの」「毎日ずっとねんねしていた」「ダンスして、キックしてクルンってまわったりしていた」と自分のことを話したりしています。

また、「パパがオヘソをツンツンしてきたんだよ」「お父さんとお母さんがケンカしていたよ」といった外の様子や「暗いトンネルをくぐってきたんだよ」と出産時の記憶を語る子もいます。

お母さんの気持ちも伝わるようで、妊娠中に夫婦の諍(いさか)いなどでネガティブな精神状態でいると ”冷たかった” ”寂しかった” と言う子もいます。

母親の食べ物の好き嫌いについても語りますし、たばこやお酒はダメなようです。


また、胎内に宿る前の記憶を持っている子が20%、5人に1人もいたのです。

例えば、「僕はさぁ、雲の上から見ていてママのところにビューンて来たんだよ」「私は女優さんになりたいから、空の上から綺麗なお母さんをさがして来たんだよ」と、生命が宿る前の中間生や過去生の記憶まで出てくるケースもそうです。

だから、子供は母親を選んで生まれてきている?のかもしれません。

池川氏曰く、
「中絶や虐待をする親にも、あえて中絶や虐待をされるためにその親を選んできているのです。
でも、親を恨んでいる子は1人もいなくて、みんな「お母さん、ありがとう」って言っているのです。
赤ちゃんはお母さんを精いっぱい応援してますし、命を懸けてお母さんを守ろうとしています。
そして長い目で見ると、中絶や虐待があったことによって、お母さんや家族が愛情を取り戻したりすることがあるんです」と。

だから、母親は自分が子供に選ばれたことを自覚して、子供はこの母親を選んだと思うと親子関係は随分変わるのではないでしょうかと語っています。





これから結婚をされる方やお孫さんが生まれる方、

「すべての赤ちゃんに意図や意志があり、感じる力があるのです。
親が一方的にいい、悪いを決めるのではなくて、愛情を持って真摯に耳を傾ければ、胎児は必ずなんらかのサインを送り返してくれる」と信じてくださいね!

私が勝手に、胎児を代表して申し上げます。







平田 靫負(ひらた ゆきえ)の宝暦治水

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、”平田 靫負(ひらた ゆきえ)の宝暦治水 ”です。





本日は、平田 靫負の命日にあたり、毎年5月25日に平田公園で薩摩義士頌徳慰霊祭が行われています。



先日、平之町の平田公園を通りがかって、平田 靫負(ひらた ゆきえ)の銅像とその宝暦治水について書かれた看板を読みました。
私の記憶では、小学校の時に”平田 靫負が岐阜県の木曽川の治水に尽力した”と習ったことは覚えているのですが、詳しくは知りませんでした。

今回、木曽川工事の経緯と平田 靫負の功績についてウィキペディアから抜粋してみました。


今回調べてみて、意外と知らなかったことが多かったことと、宝暦治水が縁となり現在でも岐阜県の平田町(現・海津市)や大垣市と交流があることは、鹿児島県人として嬉しいことだと思いまました。


<宝暦治水の経緯>

1753年(宝暦3年)、徳川幕府は琉球との貿易によって財力を得ていた薩摩藩を恐れて、毎年氾濫による被害が多発していた木曽三川の分流工事を薩摩藩に命じる。工事費用は薩摩藩が全額負担、大工などの専門職人を一切雇ってはならないとした。

露骨な弾圧政策に薩摩藩は幕府への反発を極め、このまま潰されるくらいなら一戦交えようという過激な意見まで噴出したが、平田が「民に尽くすもまた武士の本分」と説破して工事を引き受けることとなり、平田は総奉行となる。

40万両にも上る工事費用を捻出するため大坂豪商から借金を重ね、幕府へもたびたび専門職人の雇用許可を要請するも許可は下りず、工事のやり直しを命じられることがしばしばあった。

1754年(宝暦4年)4月14日永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった。

工事に派遣された薩摩藩士達の過労や伝染病による死亡が相次ぎ、また幕府に抗議して切腹する薩摩藩士達も続出した(この時には、本来監視役のはずの徳川家からも、薩摩藩に同情して抗議の切腹を行う武士が二名いたほどである)。
この件に関して、平田は幕府との摩擦を回避するため、切腹した藩士たちを事故死として処理している。薩摩藩は最終的に病死33名、自殺者52名という多大な殉職者を出している。



   薩摩義士碑


分流工事は着工より1年3ヶ月ほどでようやく完成したが、平田は藩への多大な負担の責任を取り自害、享年50。遺体は山城国伏見の大黒寺に葬られ、遺髪は鹿児島城下の妙国寺に埋められる。藩主島津重年も心労で、後を追うように翌月に27歳で病没している。

辞世の句は「住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧」。


この工事による治水効果は木曽三川の下流地域300か村に及んだとされる。





<いろいろなエピソード >

桑名市にある平田靱負像 鹿児島では「平田靱負」は小学校の道徳の副読本に掲載されており、その名を知らない人はいないと言っても過言ではない。また、岐阜県及び愛知県の郷土史および道徳の副読本にも宝暦治水のくだりでは中心人物として取り上げられており、知名度は高い。



平田靱負の屋敷のあった場所(鹿児島県鹿児島市平之町)は現在、平田公園となり平田靱負の銅像がある。命日にあたる毎年5月25日、薩摩義士頌徳慰霊祭が行われている。

岐阜県の海津郡(消滅)にかつて存在した平田町(現・海津市)は、平田靱負の功績に因んで付けられた町名である。その海津市平田町三郷にも平田公園があり、平田靱負の銅像がある。

三重県桑名市の海蔵寺には、桑名市指定史跡である薩摩義士墓所があり、宝暦治水事件で犠牲となった平田靱負ら薩摩義士が祀られ、21基の墓石が現存する。また、平田靱負像もある。

鹿児島県と岐阜県の姉妹県盟約、鹿児島市と大垣市の姉妹都市盟約は、この平田靱負の治水工事に端を発している。

鹿児島県と岐阜県は、これが縁で県教育委員会同士の交流研修として、お互いの県に小中高校教員を転任させている。2007年(平成19年)より岐阜県では他県への教職員派遣を止める事にしたが、鹿児島県のみ継続している。鹿児島県で発生した平成5年8月豪雨の際は岐阜県より復旧支援の土木専門職員が派遣され支援に当たった。



   治水神社

平田靱負(ひらたゆきえ)と薩摩藩士84名の犠牲者の名を記した石碑

1900年(明治33年)の分流工事完成時に、宝暦治水碑が千本松原南端に建てられている。1938年(昭和13年)には、平田靱負ら85名の薩摩藩士殉職者を、「祭神」として顕彰するために『治水神社』(所在地:岐阜県海津市海津町油島(旧海津郡海津町))が建立された。


遺髪は妙国寺に埋められたが、廃仏毀釈により明治の初めに妙国寺から新照院墓地に移された。さらに昭和に入って国道三号線の拡張工事に伴い、直系の子孫であった平田ハナが住む肝属郡高山町(現在の肝付町)の丸岡公園墓地へ移転。
平田靱負の命日にあたる毎年5月25日には親族によって慰霊祭が行われている。


また、西千石町にある大中寺には、宝暦治水薩摩義士之墓があります。







薩摩義士の墓建立の由緒は、下記の通りです。

 岐阜県養老町天照寺隣接の薩摩義士の墓が昭和三十四年の風水害 によって埋没、災害復旧の時五柱の御遺骨が発掘され、その分骨を 故松下庄一郎氏(当時坊津町在住真珠養殖業)が鹿児島に持ち帰り 供養されていた。同氏物故の後は御遺骨は大中寺に安置し、薩摩義 士顕彰会において供養を続けてきた。
 大中寺から用地提供の御懇志があり、義士の二百四十年祭を機に 御遺骨と宝暦治水工事で尊い犠牲となられた薩摩藩士八十五名及び 藩士以外三名の墓十五ヶ所の霊土を埋葬し合わせて治水工事に参加 された全ての藩士の御霊も人魂することとし、墓の建立を発起し、 広く県内外の有志の御懇志により建立した。
 今後、宝暦治水工事の歴史が広く語り継がれ、御霊の供養が永久 に続けられることを祈念し、墓建立の由緒を記すものである。
   平成六年秋彼岸
     鹿児島県薩摩義士顕彰会会長 島津修久




大久保 利通 の外交手腕

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、鹿児島の英雄 大久保 利通 の中国に謝罪と賠償、沖縄帰属認めさせる敏腕外交についてです。





明治初期、「眠れる獅子」と恐れられていた大国・清と交渉し巨額の賠償金を勝ち取ったのが維新の元勲、大久保利通だ。尖閣諸島問題での弱腰外交が批判されるなか、当時の毅然とした外交交渉を上智大学名誉教授、渡部昇一氏が解説するブログから紹介します。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * 

明治4年(1871年)11月、琉球の漁師54人が台湾に漂着した時、惨殺されてしまった。ところが清国政府は謝罪にも賠償にも応じない。それで政府は西郷従道を出兵させ、ただちに台湾を鎮定した(明治7年5月)。





それに引き続き清国と交渉するが埒(らち)があかない。全権公使は柳原前光(さきみつ)であったが、これでは話がつかないので、参議の大久保利通自身が全権弁理大臣となって北京に行くことになった。司法省からは井上毅がついてゆく。

清国政府は日本が先ず台湾から撤兵することを求めたが大久保はこれを拒絶して談判は決裂せんとした。その時、大久保は井上に最後通牒(つうちょう)の文案を起草させた。その主旨は次の通りであった。

「台湾の原住民(当時“生蕃”と言う)は清国の“化外の地”の民と言う以上、台湾は主権国に属さない。それなら日本が台湾を統治し“生蕃”を文明に浴させることにする。われわれは10月26日に北京を去る」

そうして大久保は北京駐在の各国外交官に挨拶をした。この時、イギリス公使が日清間の調停にのり出してきた。彼は清国政府に頼まれて大久保を訪ね、「10万両を賠償金として出すから合意してくれないか」と言ってきた。

大久保は次のように答えた。
「償金をいくら出すかは清国の自由にまかせる。われわれはまず日本が台湾に軍隊を出した正当性を認めることを清国に要求する」

この結果、清国は日本の台湾出兵を正義と認め、先ず賠償金10万両を払い、更に後に50万両を払うことにしたい、と答えてきた。
大久保は清国政府を訪ね、大臣らと会見して、その謝罪を受け、50万両の賠償金を得、日本側の台湾からの撤兵を約束した。明治7年10月31日のことである。

これは、単に謝罪、賠償を得ただけでなく、当時、日清間で争いのあった琉球の帰属先について、賠償金を払わせることで間接的に「日本のものである」と認めさせたことにもなった。


      交渉相手  李鴻章





大国の清に1人で出かけて交渉する事、実に2か月。
北京に乗り込んだ大久保が殺されることもあり得たなか、頑張りに頑張って、ついに筋を通したのです。
この外交は、日本の国力など取るにたらない頃に、大久保利通という人間的な迫力で成し遂げた成果です。

幕末・維新の動乱をくぐりぬけて、”いつ死んでも本望”という気概があったから、成しえたのだろうと想像します。


改めて鹿児島が生んだ偉人、大久保利通の凄さを知りました。







あなたは、昔のあなたではない!

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、「あなたは、昔のあなたではない!」です。


ゾウは、1トンもある積荷を鼻で軽々と持ち上げるほどの力持ちです。
ところが、サーカスなどでよく目にするゾウは、小さな杭につながれたまま逃げもせず大人しくしています。




では、杭など簡単に引っこ抜けるにもかかわらず、なぜつながれたままなんでしょうか?
サーカスでは、ゾウが小さな子供のうちに杭につないで、いくら力を入れて引っ張っても、その杭は抜けないことを体験させます。

そうするとそのゾウは、成長して体が大きくなり力が強くなっても、子供の時の「頑張っても杭は引き抜けないもの」という経験を覚えていて、今も同じだと思い込んでいるので、逃げようとしないのです。


このゾウの「思い込み」と同様なことは、私達にも当てはまることが多々あるのではないでしょうか?

例えば、子供の頃に字を書くのが下手だったから、算数が苦手だったから自分には事務や経理の仕事は向かないと決めつけたり、昔から勉強がきらいだったから、本を読むのは苦手だとか。




それは、サーカスのゾウと同じ思い込みなんです。
子供の頃のあなたと、たくさんの経験を経てきた今のあなたとは、別人と言っていいくらい違っているはずなんです。

「こういうことは苦手」「こいいう分野は好きじゃない」という言葉が頭をよぎった時は、”私がそう思い込んでいるだけ”と自分で自分に教えてあげたら、「新しい事」や「未知のこと」にすんなりチャレンジできるかもしれません。
そうすると、あなた自身の可能性は間違いなく広がっていきます。

自分の苦手や不得意としている分野のうち1つでも、克服できれば(思い込みとわかれば)、自信にもなるし、自分の可能性はもっともっと広がっていくと思います。






私ごとで恐縮ですが、私は自他みとめる超不器用でした。
ですから、私は技術系を選択せずに営業系の道に進みましたが、縁あって現在は手先を使う「靴修理の仕事」をしてます。

この靴修理の道に進むときに、「自分は、超不器用だから大丈夫かな? とか この道は俺の最も苦手としている分野の仕事だよな~」と不安しかなかったなかでスタートでした。

その当時の状況を振り返ると、「自分は失業中、それで夫婦仲はギクシャク ・ 息子たちは高校入学(私立)と大学入学とお金がかかるピーク!」 待ったなしの切羽詰まった状況だったので、「泣こよっかひっ飛べ」の心境でチャレンジしました。

そうしたら、自分が思っているイメージよりはるかに仕事が出来たので、「自分自身が超ビックリ‼ 」 「私を知っている人達も超ビックリ‼」という経験があります。

でも、環境が追い込んでくれなかったら、私もサーカスの杭につながれたゾウのように 「思い込みに負けていた」 のではないかと思っています。


大切なことは 「今の自分は昔の自分とは違う」 と過去の記憶を書き換えることで、そうするとあなたの可能性は広がること間違いなしなんです。

ですので、 自分の勝手な ”思い込み” にはくれぐれもご注意くださいね。

なぜなら、”あなたは もはや昔のあなたでは ないのですから!








婦人の心を一変させた赤ちゃん

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、致知メルマガより、鈴木秀子(文学博士)の「婦人の心を一変させた赤ちゃん」の話です。


 
以下、鈴木秀子さんが電車の中で体験したエピソードです。




「私、この間こういう体験をしたんです。

渋谷から横浜に行く東横線で、目の前の座席に、五十代半ばぐらいの、上から下までブランド品で身を固めたご婦人が座ってたんです。

きれいな人なんですが、どこかしら、なんとも言えない陰気な雰囲気が漂っているんですね。

私はどうしてこういう人と向かい合わせに座ることになっちゃったんだろうと思いながら、頭の中で、この人はきっと家で喧嘩してきたに違いないとか、そんなことを考え始めたんです。

そこで気分を変えようと本を読み始めて、しばらく後で目を上げると、その同じ人が、さっきとは全然違う感じで、和やかにニコニコしながら本当にいい雰囲気をあふれさせているんです。

え? これが同じ人かと思って。
そうしたらその人の視線がずーっと遠くにいってるんです。

何がこの人をこんなに変えたんだろうと思って、視線をずっと追っていったら、赤ちゃんがその人に手を振っていたんです。

私はそれを見たときに、ああ、これからの世の中はいろんな変化が起こるけれども、大事なのは、一人ひとりが、人に接したときに、あるいはいろんな出来事のなかで、その人の人間の深いところにある優しさ、人間らしさ、そういうものを引き出すような生き方をすることではないかと、しみじみ感じたんですね。

私は目の前に座っていて、いやな人と目を合わせないようにしていたから、私からもいやなものが伝わっていったと思うんです。

でも赤ちゃんは本当に無心にその人にある人間的な優しさを引き出したんです」と。




私の店の向かいのお店にも、時々お孫さん(現在 1歳4ヵ月の男の子)が来ます。
その赤ちゃんが人見知りせずに、通りがかったお客さん達が声を掛けると ”ニッコリ” 笑うんです。

これが満面の笑みで、明らかにみんな幸せな表情になって帰っていくんですね。
そのお孫さんがいる時間だけが、その場所がいつもと違う優しい雰囲気になって、癒しの空間に変わってしまうんです。
赤ちゃんが「幸せのおすそ分け」をしているような情景ではないかと思います。

私も7ヵ月の頃に抱っこさせてもらったんですが、私の方を見て ”ニッコリ” 笑うんですよ。
おじさんは、超癒されて2~3日は余韻にしたって上機嫌でした。

我が子の時はそこまで思いませんでしたが、赤ちゃんパワー恐るべしです。




そして、お父さんは帰ってから、2人の息子(19歳と22歳)に叫びました。
「早く結婚して、孫をみせろ~」と。

2人の息子は、「はて?何のこっちゃ」でした。(笑い)





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鹿児島市西千石町のフレッセ厚生市場内にある靴修理・鞄修理・合鍵作製の店「リペアショップ鹿児島店」です。

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