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「欽ちゃんの快和術」 その①

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、「誰とでも心が通じ合う 欽ちゃんの快和術」その①です。


萩本欽一氏の著書 「誰とでも心が通じ合う日本語のしゃべり方 快和術」を何回かに分けて紹介します。
欽ちゃんは、いつも「いい会話ができる相手を探してる人」なのです。

欽ちゃんの快和術の極意を具体的な会話で表現した「いい言葉をしつこく、しつこく探す」編です。









以下、その内容です。

欽ちゃんは[サインして]と言われれば、いつでもサインをしちゃう。
たとえば、温泉に入ってるときでもサインしちゃう。
だって、断るためには、ずいぶん会話をしなくちゃいけないでしょ。
[欽ちゃん、サインちょうだい]
「ゴメン、今、お風呂に入ってるから」
「お願い。ファンだから」
[でも、お風呂に入ってるから、あとで」
「……、じゃ、あとで」
「ゴメン、ゴメンね、あとでね」

「……、あっ、うん」

こんなことをしゃべっているうちに、サインできるもん。サラサラっと書いちゃえば、おしまいだもの。
それに、こんな会話して、立ち去っていく人の後ろ姿を見て、何が残るかと言えば、気持ちの悪さだけ。これは、もう、どう考えても、サインしちゃったほうがいい。


レストランで食事しているときでも、もちろん、サインしちゃうよ。
それを見た他のお客さんが「私も私も」ってことになったりするけど、ボクはみんなにサインする。
「欽ちゃんはご飯を食べているんだから、今は遠慮しましょうよ」って言ってくれる人が現れないかな…、と思いつつ、サインをする。
そうすると、そのうち、ホントに「欽ちゃんは、ご飯を食べているんだから…」って人が現れる。

「あれっ、おばちゃん、優しいこと言ってくれるんだね」
「だって欽ちゃんがかわいそうなんだもの」


こういう会話ができれば、気待ちよくなれるじゃない。サインを断って食べ続けるより、おいしい食事になるもん。

なんかさ、欽ちゃんって ”いい人” っていうイメージがあるじゃない。
 今のレストランの話にしても、なんか、いい人そうな感じがするし。

 ”欽ちゃんはいい人だ” ”いい人に違いない”
 全国的にそう思われてるようなところがあるよね。だけど、それって、ちょっと違うの。


欽ちゃんは、いい会話ができる相手を探してる人なのよ。で、欽ちゃんは、かなりしつこほうだから、そういう相手を、昔も今も、しつこく探し続けてる。しつこく、しつこく、いい言葉と巡り合いたいと思ってる。
 そういうことなの。

追悼! 小野田 寛郎(ひろお)さん

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、1月16日にお亡くなりになられた小野田 寛郎(ひろお)さんの功績に敬意をはらい「追悼! 小野田 寛郎(ひろお)さん」です。

終戦後、30年間、ジャングルに立て籠もり、戦後のフィリピン警察軍による93回の討伐にも屈せずに戦い抜いた。その間、姉や兄弟による現地での呼びかけにも応じず、最後に元上官からの「命令」を受けて、ようやく投降した小野田 寛郎(ひろお)さんの覚悟の話です。

「地位も名誉も金もいらない。国と国民のために、捨て石となる覚悟を持った男たちがいた」です。



国際派日本人養成講座より、国と国民の捨て石になる覚悟 ~ 陸軍中野学校。



以下、その内容です。



■1.「30年間もジャングルで生き抜いた強い意志は尊敬に値する」

 小野田寛郎(ひろお)さんが1月16日に亡くなった。昭和19年末、22歳にして、米軍上陸間近のフィリピンのルバング島に送られ、「離島残置諜者」として、米軍占領後のゲリラ戦指揮を命ぜられた。

 以後、30年間、ジャングルに立て籠もり、戦後のフィリピン警察軍による93回の討伐にも屈せずに戦い抜いた。その間、姉や兄弟による現地での呼びかけにも応じず、最後に元上官からの「命令」を受けて、ようやく投降した。

 投降後、小野田少尉はマルコス大統領に「30年間もジャングルで生き抜いた強い意志は尊敬に値する」と賞賛され、過去の行為はすべて赦された。

 それから40年、小野田さんの逝去に、米紙ニューヨーク・タイムズは評伝を掲載し、小野田さんが任務への忠誠心と忍耐力を体現し、「戦後の繁栄と物質主義の広がりの中で、多くの日本人が失われたと感じていた誇りを呼び覚ました」と評している。

 小野田さんは「軍国主義教育」で鍛えられた、と思い込みがちだが、事実は異なる。中学校を卒業すると、貿易商社に就職して中国の武漢に赴任し、英国製の背広を着て、米国車に乗り、夜のダンスホールに入り浸る生活をしていた。

 中国娘を口説けるほど中国語ができるのを買われて、陸軍の諜報員養成機関、中野学校に送られ、そこでわずか3ヶ月の特訓の後に、フィリピンに向かったのである。

 この若きプレイボーイを、マルコス大統領やニューヨークタイムス記者も賞賛する戦士に変身させた陸軍中野学校とは、どのような学校だったのだろうか。


■2.「本日から、いっさい軍服を着てはならぬ」

 陸軍中野学校(当初は「後方勤務要員養成所」)の第一期生が集められたのは、昭和13(1938)年春だった。陸軍大臣命令で、各部隊に「1名ないし数名の部隊最優秀者を要員候補として推薦するように」との指示が出され、その中から、家族関係、思想傾向などの審査、および面接の結果、20名が選ばれた。当時の日本における最優秀の若者たちと言ってよい。

 選ばれた20人は上京すると、「平服で靖国神社の第二鳥居の下に集合せよ」と命ぜられた。定刻に集まっていると、背広姿の紳士が迎えに来た。一人があわてて挙手の礼をすると、「平服で、敬礼する奴があるか」と小声でたしなめられた。

 その紳士に連れられて、小学校の分教場のような古い二階屋に辿り着いた。その中には、6つの部屋があり、教室が一つ、小使い室一つ、事務室が二つ、兵隊ベッドの並んだ寝室が二つあった。

 そんな薄汚い建物に連れ込まれて、「本日から、いっさい軍服を着てはならぬ」と申し渡されたので、誰もひどく情けない顔をした。


■3.「その地に骨を埋める覚悟で定住し」

 専任教官は3人いた。そのうち学校設立の中心人物の一人で、所長の秋草俊中佐が背広姿で、こう述べた。


 諸君も知ってのとおり、戦争の形態は、野戦から国の総力を結集して戦う、総力戦態勢に移行しつつある。したがって軍情報も、従来の大公使館付き武官からの軍事情報だけでは十分ではない。

 政治、経済、思想、宗教等、広範囲の情報を必要とするのだが、武官は2年ないし5年で異動する。1ヵ所に定住するということがないから、その国の人物風俗にもうとく、また軍人は、なんといっても社会常識にとぼしい。・・・

 諸君は、この養成所で一年間の訓育をうけたのち、たぶん、ソ連、中国、あるいは英米と、世界各国に派遣されるだろう。そして、その地に骨を埋める覚悟で定住し、武官にさぐりえない情報をさぐるのである。[2,p135]


 中野学校は、期によって教育目的が多少違っていた。第一期生は、単独で各国に潜入し、一般市民として定住しながら、諜報勤務につかせることを目的に、訓練された。「いっさい軍服を着てはならぬ」とは、こういう意味だった。


■4.徹底した自由教育

 その日から始まった生活は、およそ軍隊とは縁遠い、自由なものだった。午前10時から午後5時までは学課があったが、それ以外は自由時間で、どこに遊びに行こうが勝手だった。門限もなく、翌朝の10時までに帰れば、外泊すら許された。

 ある時、2、3人で話をしている時に、秋草中佐が話の仲間に入った。何かの拍子に「天皇」の名が出たので、あわてて「気をつけ」の姿勢をとると、いきなり「バカ者っ」と怒鳴られた。


 天皇の名をきいて、直立不動の姿勢をとるのは軍人だけだ。仮におまえたちが、セビロ服を着て地方人(弊誌注:民間人)になりすましていても、それではたちまち化けの皮がはがれてしまう。・・・
 第一番に天皇もわれわれと同じ人間だということを知っておけ。


 かくいう秋草中佐は、かつては近衛師団に青年将校として勤務したエリートだったが、語学将校として外遊してからは、背広姿で特殊任務についている事が多かった。家に帰れば飯を食うとき以外は、軍歌を歌っているか、大イビキで寝ているだけ、という豪傑風で、見合い結婚した夫人が「この人はどうかしているのではないか」と新聞の身の上相談欄に手紙を出したこともあった。

 しかし、実際は緻密な頭脳の持ち主で、ロシア語はじめ数カ国語に通じ、陸軍では対ソ諜報の第一人者だった。終戦時には少将として満洲ハルピンの特務機関長をしていて、ソ連が攻め込んでくる際にも「オレが逃げれば、代わりに誰かがやられる」と言って、動かなかった。

 果たして侵入したソ連軍は第一番に秋草少将を捕まえ、ハバロフスクの収容所に送った。ソ連通の秋草少将が米国に連れ去られるのを恐れた、とも言う。その後の消息は知られていない。


■5.「国と国民のために、捨て石となる覚悟」

 こうした教官による、天皇に関する自由な言論すら許される徹底した自由教育が、中野学校の精神だった。なにゆえに、このような自由教育がなされたのか、副所長格の福本亀治中佐は、こう説明している。


 集めたのが、全国選り抜きの秀才である。しかも彼らは、訓練を卒(お)えて外国にいけば、何十年、あるいは生涯、商人なり、会社員になっていつき、一般市民として生活するのである。誰も監視するものもなく、一人で行動するのだ。

 外部から強制の、しごきや一時的猛訓練で、つけ焼き刃的にきたえあげたところで、長い孤独や、筆舌につくせぬ労苦に堪えられるものではない。

 かつて気ままに行動させておいて、その自由におぼれ自己を見失うようでは、ものの役にたつはずがないから、「地位も名誉も金もいらない。国と国民のために、捨て石となる覚悟」だけをもたせるように指導して、あとは彼らの自由にまかせた。



■6.「いやだったら遠慮なく申し出ろ」

 秋草中佐も、一期生たちにこう説いた。


 諸君は、民間人として、外国にもぐりこむのである。検挙されることがあれば「スパイ」あるいは「間諜」という罪名で牢獄につながれ、戦時ならば当然銃殺または絞首刑をまぬがれまい。

現に日露戦争中、北京の青木大佐と結んで、敵中深く潜行して(弊誌注:兵員輸送阻止のためにシベリア)鉄道爆破を企てた民間志士、横川省三、沖禎助は、露軍の巡邏兵に捕らわれ、帝国の万歳を叫びながら銃殺されている。・・・

 諸君は、かがやかしい未来を持っている。諸君の才能をもって努力したならば、未来の大臣も、大学総長も、あるいは会社の社長にもなれるであろう。

しかし、いまの日本が、国民の安全を守り、そして国の発展を期するためにもっとも必要としているのは、大臣でも大学総長でも会社の社長でもない。名利を求めず、一身一家をすてて、日本民族発展の礎石となる人物、本官が諸君に求めるものはこれである。

しかし、陸軍といえども、これを諸君に強制することはできない。もし諸君のうちに、この任務が不適当だと思うもの、あるいは「イヤだ」と思うものがあったなら、いまからでもおそくない。遠慮なく申し出てほしい。


 入所して3ヶ月ほどの間に、秋草中佐から2度、他の二人の教官からも、「世界のどこで、どんなふうにして果てるかもしれないのだ。もし、いやだったら遠慮なく申し出ろ」と言われた。


■7.「国家社会に尽くしたという誇り」の無形の勲章を

 この方針に関して、一期生の一人はこう語っている。


 はじめは、われわれも深く考えなかった。ところが、3月か4月して、しだいに諜報の実態もわかってくる。将来のことなども考えるようになると、(これは、ぼやぼやしておれないぞ)という気がしてきた。つまり、やる気が自然に盛りあがってきたわけで、自分から進んで学び、くふうするようになった。

夜など、町へ遊びに出ても、はじめはただおもしろいだけで、深い考えもなく、麻雀や囲碁をやっていたが、それは将来、どこでどんなふうに役だち、あるいは身を守ることになるかもしれないぞと考えると、ダンスも撞球(弊誌注:どうきゅう、ビリヤード)も、単なる遊びではなくなり、しぜん、おどろくほど上達も早くなった。


 一期生の間でも、自分たちの将来に関して議論し、こんな結論で皆が一致した。


 陸軍、いや、日本の国がわれわれに望んでいるのは、骨を異境に埋めて、国と人民のために働くことである。われわれももちろん、栄進などは考えてもいない。

そうなれば、たとえ少尉、中尉の吹けば飛ぶような軽い身分でも、むしろ階級はじゃまであって、なんの役にもたたない。どうせ身をすてた奉公なら、このさい、すっ裸になって、やってやってやり抜き、自分の手で自分の心に「国家社会に尽くしたという誇り」の無形の勲章を飾ろうではないか。[2,p184]


 その翌日、一期生はこぞって陸軍の軍籍をのぞいて欲しいと願い出た。教官たちは、そのあっぱれな覚悟に感激したが、軍籍のない民間人からの情報では、軍はとりあげない、と説いて、ようやく思いとどまらせた。


■8.「大事な仕事を全身でやったことを幸福に思います」

 諜報員、スパイと言うと、我々がすぐに思い浮かべるのは、映画の007、ジェームス・ボンドである。派手なアクションやスリルで観客を楽しませてくれるが、自分が現実世界で主人公となったら、どうだろう。

 映画とは違って、現実世界では使命を全うできず、途中で敵に殺されてしまうかも知れない。しかも、誰にも知られないうちに。もしジェームス・ボンドほどの能力・才能があったら、そんな危険な人生を歩むよりも、実業家にでもなって、富と名誉を得た方がよほど良い、と多くの人が思うだろう。

 そういう気持ちに背を向けて、現実の諜報員が、命を懸けて使命に向かうのは、ひとえに国家のためである。007シリーズのタイトルの一つに ”On Her Majesty's Secret Service”(女王陛下のための機密活動)とあるのも、そうした国家的使命感を表している。

 英国では、自分の名利を度外視して、国家のために働く諜報員は名誉な仕事と考えられている。ボーイ・スカウトの創設者であるロバート・ベーデン=パウエル卿は、もともと諜報官として活躍した人で、「諜報活動こそ、男子の一生を傾けるにたる愉快なスポーツである」と言っている。

 ちなみにボーイ・スカウトの「スカウト」とは、「偵察」とか「斥候」を意味するから、諜報活動ともつながっている。小野田さんが帰国後に自然の中で子供たちを鍛える「小野田自然塾」を始めた事も軌を一にしている。

 小野田さんは帰国後、30年のジャングル生活を振り返って、「若い、勢い盛んなときに大事な仕事を全身でやったことを幸福に思います」と語っている。パウエル卿の言葉に通じている。

 これも、小野田さんが中野学校で「国と国民のために捨て石となる」覚悟を固めたからこそと知れば、この言葉は理解できよう。そうであればこそ、マルコス大統領やニューヨーク・タイムズ記者の賞賛を浴びたのである。

 我々、諜報活動には縁のない一般国民でも、私利私欲を離れて「国と国民のために捨て石」となる覚悟を持った名もなき先人たちの事を思い起こしてみることは大切だ。そういう人生を思い出させてくれた小野田さんに感謝しつつ、ご冥福をお祈りしたい。

(文責:伊勢雅臣)

【宮崎駿監督の3原則】

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、ひすいこたろう氏の名言セラピーから、【宮崎駿監督の3原則】です。

世界最大の映画の祭典が米ロサンゼルスで3月2日(日本時間3日)に発表・授賞式が行われる第86回アカデミー賞で、長編アニメ賞に宮崎駿監督(73)の「風立ちぬ」がノミネートされました。

すでに引退を表明していますが、宮崎監督らしい【映画づくりの3原則】を紹介します。



以下その内容です。



ひすいです。
いまは、黙々と
ものの見方検定本、
書いてるよ~


「未来の見方」

をいま書き上げたので、
ほやほやをシエアしますーー。


──────────────

見方検定
努力してない者は、努力している者には勝てない。
しかし、努力している者は○○している者には勝てない。
さて、○○とは?

──────────────



映画監督の宮崎駿監督がいつも若いスタッフにいう
映画づくりの三原則というのがあったそうです。


「おもしろいこと」

「作るに値すること」




そして3番目は何かというと……


























「お金が儲かること」









3番目はちょっと意外でしたか?
でも、これ当然なのです。


1本のアニメを作るのに、スタッフが400人~500人関わりますから、
人件費が膨大にかさむのです。

ちなみに、ひとりのアニメーターが1週間で描ける絵は、時間にするとわずか5秒ほどだとか。


つまり、1年間やっても4分ほどの絵の分量にしかならないのです。
だから、2時間の映画にするには最低でも2年はかかる。

しかも、宮崎さんは絵に妥協はない。
何度でもやり直させる。うまく描けないものは自分でも描く。
こんな気の遠くなる作業を延々とやっているのがアニメ制作なのです。


だから、興行的にも1本たりとも外せない。
監督には想像を絶するプレッシャーが襲いかかるわけです。
儲けなければ次はないのです。

だからこそ、宮崎監督の3原則は

「おもしろいこと」
「作るに値すること」
「お金が儲かること」だったわけです。

しかし、宮崎監督は、自ら定めたこの3原則を一度だけ破ったことがあるそうです。




それは「となりのトトロ」のとき。




「となりのトトロ」は、宮崎さんの先輩であり、盟友の高畑勲監督の「火垂るの墓」と2本立て上映になっていました。
つまり、興行成績をひとりで背負わなくていい。プレッシャーが半分になったわけです。


プロデューサーの鈴木敏夫さんは、このときほど、宮崎さんが楽しそうに働くのを見たことがないと言っています。「トトロ」のときは、宮崎さんは近くのスタッフと楽しそうにおしゃべりをしながら絵を描いていたそうです。



3原則の「お金が儲かること」というプレッシャーから解放されて、
心から楽しんで制作した初めての作品が「トトロ」


結果はどうだったのか?




実は、ジブリ全作品のなかで、
いちばんお客さんが「来なかった」作品になったそうです。


楽しんだ結果は……惨敗でした。



















楽しむことに関して、競馬の福永祐一騎手がテレビでこのように言っているのを耳にしました。


「努力している人は努力してない人には勝てるけど、
努力している人も楽しんでいる人には勝てない」


努力は辛いですから、いつか力つきます。
でも、楽しんでいる人は力つきることがありません。

だって楽しいんですから。その結果、
「努力してる人は、楽しんでる人には勝てない」となるわけです。



では、「これほど楽しそうに働くのを見たことがない」というくらい、
宮崎さんが楽しんでつくったはずの「となりのトトロ」の惨敗はどう説明がつくのか。


実は、逆転劇が待っていたのです。


「トトロ」の場合は、映画では火がつかなかたものの、テレビ放映で人気が爆発。
それで、ぬいぐるみメーカーがトトロの魅力に気づき、キャラクターを商品化。

ジブリはこれまでキャラクター商品を考えたことはなかったそうですが、初のキャラクター商品が大人気となり、なんと、最終的には最も大きな収益を生みだした作品になりました。


しかもその年の映画賞をほとんど総なめにするくらいの評価もえました。



楽しむ先には、奇跡が待っているんです。

では楽しむ秘訣は何か?

なあなあにやっているだけでは、楽しくならないんです。

ラク(楽)と楽しいは違うからです。


楽しむ秘訣は、この4つに挑戦することです。

・「おもしろいこと」
・「作るに値すること」
・「お金が儲かること」

儲かるとは、観客の拍手のこと。
つまり、自分だけの面白さを越える必要があるのです。
ここに挑戦することがまた楽しいんです。

そして楽しむ秘訣、その最後は、

・「結果(未来)に執着せず、トコトンやること」です。


結果を思い通りにしようとすると、同時に、未来に不安と恐れが生まれます。
だから、思い通りにしようという思いを手放しちゃう。
だって、

「ああなりたい、こうなりたいとか言ったって、なるようにしかならないんだぜ」赤塚不二夫


結果への執着を手放して、
いま、この瞬間をトコトン生きる。
すると、楽しくなるんです。

そのとき、思いをはるかにしのぐ奇跡が舞い降りるのです。

結果が楽しいんじゃない。
プロセスが一番楽しいんです!


●未来の見方
未来(結果)はなるようになる。
  一番楽しいのは、プロセス(いま)






ひすいこたろうでした(^^♪
hisuikotaro@hotmail.co.jp
 ▲▲▲アリガ島▲▲▲


『四肢切断 中村久子先生の一生』

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、致知メルマガより黒瀬昇次郎・著『四肢切断 中村久子先生の一生』です。

中村久子女子、これほど過酷な運命を自らの身体と心と意思とで戦いぬいた方がいるだろうか。
壮絶な運命を生きぬき、日本全国の身障者および健常者に大きな生きる力と光を与えた一人の女性の物語です。





その本の内容の一部ですので、参考にお読みください。

  

昭和43年、ヘレン・ケラーをして「私より不幸な人、そして偉大な人」と言わしめた1人の女性がその生涯を閉じました。

女性の名前は中村久子先生。

晩年、執筆・講演・各施設慰問活動を通じて自らの生い立ちを語り、日本全国の身障者および健常者に大きな生きる力と光を与えた女性です。

久子先生が突発性脱疽という難病で両手両足を失ったのはわずか3歳の時でした。

7歳の時に父親を失い、 9歳になった頃、それまで舐めるように久子先生を可愛がっていた母親は、一変して猛烈な教育を施すようになります。


     *     *     *

 手足のない子供に着物を与えて、解いて見なさい、と言うのです。

 どうして解くんですか、と聞くと、自分で考えておやりなさい、と冷たく答えて取り合ってくれない。

 鋏の使い方を考えなさい、口で針に糸を通してごらんなさい、そして、縫ってみなさい、と厳しく言いつける。

 できません、難しい、と泣いても喚いても母親は、振りむかない。

 みんな11歳の久子先生に工夫をさせて、ヒントの1つも与えようとはしないのです。

 言いつけたことができないと、ご飯を食べさせてくれない。

「人間は働くために生まれてきたのです。できないとは何事ですか」

 恐ろしい顔で叱る。おそらく母親は、心を鬼にしてこの難しい仕事をやらせたに違いありません。

 中村先生は母親のこの厳しい躾を恨みまして、当時の気持ちを、(自分は本当の子供ではないのではないか。あるいは貰い子ではあるまいか)と、深刻に疑ったことがあると、その自伝に述べています。


     *     *     *

必死の努力で、生地に唾をつけることなく、着物を仕上げることができるようになった久子先生。

やがて、自分のパンは自分で稼ぎ出すために自ら進んでわが身を見せ物小屋に売り、生活の糧を得ていきます。

その後、度重なる不幸を乗り越え、昭和36年10月、全国身体障害者の模範として昭和天皇に拝謁し、お言葉を賜った際、久子先生はこのように語られました。

     *     *     *

「私は若いときから今日まで、お国から一円の福祉のお金も頂かなかったが、頂かなくてよかった。
 頂いていたら、今日、天皇陛下のお顔を真直ぐに仰ぐことはできなかっただろう。

 天皇様は私を一人前の人間として扱って下さった。

 今日は本当にいい一日だった。

 どんな人間にも生かされて行く道がある。

 これからも、自分の力で生きていこう」

     *     *     *

人間の尊厳とは何か、努力を重ねるとはどういうことか。

久子先生の生涯は、 精一杯、力強く生きることの意味を
私たちに教えてくれます。




黒瀬昇次郎・著『四肢切断 中村久子先生の一生』 【目次】

 達磨のように
 死の断崖に立つ
 厳しい教育
 見せ物芸人
 続く悲運
 向上心
 座古先生との出会い
 生まれて、生きて、生かされる
 誇りと厳しさ
 ある、ある、ある

幸せの本質に気づく

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、「幸せの本質に気づく」です。


小林正観氏の著書「100%しあわせな1%の人びと」より、”幸せの本質に気づく”を紹介します。
 




我々は、今日も一日何も起きずに平々凡々と過ぎてしまった一日を 「当たり前」 だと思っていますが、何も不幸なことが無かったからこそ、平々凡々と過ぎ去ったな~と思っていることを忘れていないでしょうか?


小林氏は、著書のなかで”何も起きず、普通に、淡々と過ぎる日常こそ幸せの本質である”ということに気づくべきと述べています。




以下、その著書の内容です。


「あれもほしい、これも足りない」と言って、ずっと何かを求め続けている人がいます。
でも幸せというのは、「今、白分が置かれている日常そのもの」です。

 「何も起きないことがどれほど幸せであるか」ということに、私たちはなかなか気がつきません。毎曰が、淡々と平凡に過ぎていくことが、実は幸せの本質である。

 幸せというのは、何か特別なことが起きることではありません。それどころか、「何も起きないことが幸せの絶対的な本質」です。

 幸せとは、よいことが起きるとか、楽しいことが起きるのではなくて、白分にとって、いわゆる面倒なこと、大変なこと、汗をかかなくてはいけないこと、神経を使わなくてはいけないことが何も起きないこと。
それこそが最大の奇跡です。

 ところが幸せの本質を知らないまま「どこかに幸せがあるに違いない」と言って、白分を叱咤激励し「もっと私が頑張って成長すれば、幸せが手に入るんだ」と思いながら生きている人が多い。
 でも結論を言ってしまうと、幸せというのは、「努力をしたら手に入るもの」ではありません。



人聞は、病気や事故、トラブルなどに巻き込まれたときにはじめて、自分が幸せの中で生きていたことを知ります。

 たとえば右手を捻挫して使えなくなった、とします。

全治2週間。電話ができないとか、お箸が持てないとか、すべて左手だけでやらなければいけないことが不便で、不幸感を味わいます。

でも、捻挫が治って、右手が白由に使えるようになったら「右手が使えることは、こんなにも幸せなことだったのか」と感謝できます。

 では、この右手が使えなかった2週聞は不幸だったのでしょうか?

 いいえ。不幸だと思っていた2週間があった結果として、それから先ずっと右手に対する感謝の心が湧いてくるようになったわけです。
右手が自由に勤くことで「嬉しい。ありがとう」と思う喜びを1ついただいたわけですから、捻挫をしていた2週問は不幸でもなんでもなかった。

 この2週間は、罰が当たったとか、ベナルティーが課せられたとか、不幸があったということではなくて、この右手に感謝する心、喜びの心を1つ増やすため、何も起こらないことがどれほど幸せかということをわかるために、右手を捻挫したのかもしれない。
そういうしくみがわかって、自分が幸せの中にいることを認識することによって、災難とは無緑になるようです。



 今、目の前に起きている最高の幸せとは、「淡々とした何も特別なことがない日々、普通に家族がいて、仕事があって、歩くことができる」ことなのです。

 「お金も時間も手開ヒマもかけないと幸せになれない」という感性から、世間一般の人から見たら「だから、何?」と思われることに楽しみを感じられる、さらには「何もなくても幸せを感じられる」ように白分の感性を磨いていくと、自分がいつも楽しくいられます。

 英語で「現在」を「Present」と言いますが、現在、普通に淡々と過ぎていくこの瞬間は「何も起きていない」のではなく、宇宙や神様からの最高の「プレゼント(贈りもの)」が来ているということ。

ですから「何かが起きてくれたら幸せなんだけど……」という考え方ではいつまでたても幸せにはなれないように思います。








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