まるごと受け入れてしまう!

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、「まるごと受け入れてしまう」です。

小林正観氏の著書「100%幸せな1%の人びと」より、”自分以外の人を自分の思い通りにするより、まるごと受け入れてしまう方が人生はラクになる”です。



以下、その内容です。


私のところへくる人生相談の98%は、「自分の理想や価値観に合わない人を、どうしたらいいでしょうか」
「自分の家族や知り合いにこういう人がいるのですが、どうしたらいいでしょうか」というものが占めています。


 ある年配の女性から、
「娘が離婚磨のある、子持ちの男性と結婚すると言いだした。命をかけてでも結婚しようとしているんです。どうしたらいいのでしょう?」と質問を受けました。

 私は聞き返しました。
 「反対しているのは、誰ですか?」

 「私です」
 「他に反対している人はいますか?」
 「いいません」

「騒いでいるのはお母さんだけですか」
 「そうですね」

 つまり、この女性だけが、娘が離婚暦のある男性と結婚することが気に入らなかっただけで、思い通りにならないごとでもすべて受け入れることができれば、問題は

 

 

はじめからないわけです。

 受け入れることでかたづくことが99%。
 受け入れると自分がラク。


 私に相談をしにきても、「私の姉が……、友人が…・:」と言い始めると、もうそこで「やめにしましょう」と言って終わりです。

 本人の問題であれば聞くことはできますが、まわりの人をどうしたい、という話は相談ごとではありません。
ただ”白分の思いどおりにしたい”だけですから。

 「夫が酒を飲んで夜12時以降にしか帰ってこない。どうしたらいいか」

 「子どもが不登校になってしまった。どうしたらいいか」
 

「叔父と叔母がケンカばかりしている。どうしたらいいか]

 「となりの住人がなにかと難癖をつけてくる。どうしたらいいか」

 いずれの相談も、「自分がどう生きるか」ではなくて、「自分以外の人をいかに自分の思いどおリにするか」ということが、自分の「悩み」だと思っています。

 「自分以外のものを自分の思いどおりにする」という考え方を全部やめる。

そして、目の前の人が、自分の考え、価値観、生き方と違うことを認めて、まるごと受け入れてしまう。他人のことよりも、「自分がどう生きるか」だけをまず考える、というのはどうでしょうか。

 何かを思いどおりにしようとはせず、その人がそういう人であることを認めてしまった方が、自分にとっても一番ラクだということです。

 「自分の仕事に命を懸けなさい」

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、 「自分の仕事に命を懸けなさい」です。

致知メルマガ配信 『致知』2005年6月号致知随想より、「自分の仕事に命を懸けなさい」(加藤彰彦 沖縄大学人文学部福祉文化学科教授)です。



以下、その内容です。             


二十代最後の年、放浪の旅から戻ると
一枚のハガキが届いていました。

「万難を排し、ただちに来られよ」

差出人の名前は「森信三」とありました。

大学卒業後、小学校の教師になった私は
子どもたちと過ごす時間が何よりも幸せでした。
教師はまさに天職でしたが、
唯一私を苦しめたのは通信簿でした。

クラスには跳び箱を跳べる子もいれば
跳べない子もいます。

跳べない子たちは、自発的にお昼休みも返上して
一所懸命練習します。
すると、一週間もすれば跳べるようになる。
それは音楽でも鉄棒でも掛け算でも同じです。

しかし成績表をつける時はすんなりできた子が5、
一所懸命努力して、やっとできるようになった子が1か2……。

「どうしても納得できません。
少なくともうちのクラスに1や2の子はいません」

私は校長へ申し出ましたが、
「それが決まりですから」の一言でした。

結局、正規の通信簿と別に、
一切評価を書かない私からの手作り通信簿を渡し、
良心のバランスを保っていました。


        
そうして五年目、ハッと気づいたことがありました。

私は子どもたちに
「北海道は寒いんだよ」「沖縄は暖かいんだよ」と、
さも知っているかのように教えていましたが、
本当はその寒さも暖かさも経験したことがないのです。

自分はもっと社会を知らなければならない。
そして、「これからどう生きていったらよいか」を
探さなければならない。
その思いを抑えきれず、私は教壇を去り、
放浪の旅へと出たのでした。

北は北海道から南は沖縄まで、
八百屋、土木作業員、サンドイッチマンなど、
ありとあらゆる仕事をしながら、
気の向くままに転々としました。

旅も終盤に差し掛かり、長崎まで流れ着いた時、
お世話になった方から、

「それで、君はこれからどうするの」

と聞かれました。

「もう一度教師をやろうかなと思っています」

と答えると、

「それならこの人に会いなさい。
 教師をやるならこの人抜きでは語れない」


そうして紹介されたのが、森信三先生でした。

私はその場でハガキを書いてポストへ投函。
再び放浪しながら自宅へ戻ると、
森信三先生から冒頭の内容のハガキが
速達で届いていたのでした。

私は取るものも取りあえず
先生のご自宅へ駆けつけました。

当時私は二十九歳、先生は七十歳に近かったと思います。
先生は私を部屋へ招き入れると、


「さあ、こちらへ!!」


と言って、私を上座へ座らせました。
その一連の動作から、先生の「出会い」に対する気迫を感じ、
ただただ圧倒されるばかりでした

その後、何度もお会いするようになりましたが、

先生はいつも毅然としていて、孤高の人でした。
別れ際は


「未練が残りますから、きょうはここで。じゃ」


と言って、決して振り返らずに歩いていかれる。
おそらく、すべてにおいて未練を断ち切って
生きてこられたのでしょう。

厳しい生き方を貫いてこられた背中を見送っていると、
駆け寄って抱きしめたくなることもありました。

        * *

その後、私は中学時代の恩師の勧めで、
横浜の寿町にある生活相談所の職員になりました。
横浜の寿町といえば、有名なドヤ街です。
生活相談所の職員とはいっても、
結局あらゆる相談に応じました。

小学校もろくに通えなかった人もたくさんいて、
勉強がしたいという彼らの要望に応え、
私は無認可の夜間学校を作って教壇に立ちました。
本当に昼も夜もない忙しさでした。

森先生はいつも私を気にかけてくださり、


「あなたの仕事を見てみたい」


とおっしゃっていました。
ある日、関東での会合の帰りに足を伸ばしてくださって、
本当にドヤ街に会いに来られたのです。

ひとしきり相談所での仕事ぶりをご覧いただいた後は、
三畳一間の私の部屋にお泊まりになりました。
教育のこと、仕事のこと、このドヤ街の事情、
森先生は一晩中私の話に耳を傾けてくださいました。

そして、もう明け方が近づいた頃でした。
最後に私は当時一番悩んでいたことを打ち明けました。
それは恋愛のことでした。

ドヤ街での仕事ははっきり言ってきついものがあり、
自分は家庭など持てないと思っていました。
生涯独りで生きていくつもりでしたが、
熱心に言ってくださる方が現れ、悩んでいたのです。

話し終えると、先生は声高らかに笑って、


「これはご縁があるかどうかですね」


と言いました。



「あなたは自分の仕事に命を懸けなさい。
 そうすれば必ず一緒に行く人は現れます。

 相手のことを考え、振り回される人生なら、
 あなたはきっと途中で燃え尽きるでしょう」


そう言って、また笑いました。

私はスッキリして、ドヤ街に骨を埋める覚悟で
働くことを決意しました。
すると不思議なことに、いまの妻が
手伝いに来てくれるようになったのです。

私はあの日の朝焼けの空と、
先生の澄んだ笑い声を
いつまでも忘れることができません。

現在は大学で児童福祉学を教える立場になりましたが、
いつも耳の奥で、


「自分の仕事に命を懸けなさい」


という森先生の声が響いています。

昨年は先生の十三回忌でしたが、
その存在は世間でも私の中でも
ますます大きくなるばかりです。


謦咳に接した一人として
先生の教えの一端でも
受け継いでいきたいと思っています。


熱血教師の教育改革、奮闘記

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、「熱血教師の教育改革、奮闘記」です。


国際派日本人養成講座の伊勢雅臣が紹介する、教育改革の現場 第3弾ベテラン教師が問題校への異動を志願して、奮戦した記録です。


以下、その内容です。



国際派日本人養成講座の伊勢雅臣です。

 第5号のオヤジたち、第6号の民間人校長に続いて、本号はあるベテラン教師が問題校への異動を志願して、奮戦した記録です。子供たちを思うその志には心打たれます。


 校長への「土下座要求事件」まで起きた小学校に乗り込んでいったベテラン教師の戦い。
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■1.子供たちが校長に「謝れ」「土下座しろ」■

 東京都国立市立国立第2小学校で「土下座要求事件」が起こったのは平成12(2000)年3月24日の事だった。[1]

__________
 関係者によると、卒業式が終わった後の二十四日午後零時四十分ごろ、校庭で六、七人の児童が、澤幡校長に「校長先生は昨日、夜十二時まで先生たちと話し合った。

先生みんなが(国旗掲揚に)反対しているのに、なぜ掲げたのか」「二小は四十九年間、掲揚しなかった」「式は私たちのもの。旗を降ろせ」などと詰め寄ったという。
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 その後、校長と、子供たち、先生、保護者の間で次のようなやりとりがなされた。[2]

__________
A教師 校長先生、子供たちは国旗を揚げたことを怒っているんではなく、自分たちで作り上げてきた卒業式を勝手に変更したことを怒っているんです。そのことを分かってあげてください

 《子供たちが興奮状態になり、泣き出す子も》

児童  謝れ

児童  土下座しろ

保護者 子供たちに謝ってほしい
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 校長は結局「君たちにつらい思いをさせて、悪かった」と謝罪し、子供たちはさらに「教頭はどうなんだ」「校長やめろ」などと追い打ちをかけた。


■2.「自分にはどうしてもやらなければいけない使命がある」■

 この記事を読んだ鷲野一之氏は、この国立第2小学校への異動を希望した。

定年退職の後、世田谷区の小学校に嘱託教師として赴任して3年目のことだった。異動希望を聞いた校長は、冗談と思って笑ったが、鷲野氏は真剣だった。ベテラン教師として「消防士が火を見たら、消したくなるのと同じで、私にとってはごく自然な心境だった」[3,p19]

__________
 子供たちが最初から、これほど極端なことが言える訳がないじゃないか。

組合教員が今日まで用意周到な計画のもとに、子供たちを洗脳したからだというのは、誰が見ても明らかだ。交換日記といって日記を書かせ、組合教員が朱で自分の思想を書き入れ、何回も繰り返しながら洗脳していくということをやってきた。

 教員自らが、先頭に立って反対運動をするならまだしも、純粋な子供たちを前面に出して、自分たちは後ろに隠れて、子供たちに言わしめる卑怯さは、天人ともに許すことはできない暴挙だ。そういう教員は即刻教育界から排除すべきだ。
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 国立2小の教員たちを「どうしても許せない」と思った鷲野氏は世田谷区教育委員会にも同校への転勤を願い出た。嘱託教員は退職した地域で勤務する、という慣例を無視した願いだった。

平成13(2001)年3月12日、土下座要求事件から一年後、校長から「国立2小に決まったよ。おめでとう」と言われた。

 教員人生の最後の最後に、最も困難な職場に移ることになった。「天与の使命と感じないわけにはいかない。自分にはどうしてもやらなければいけない使命がある」と鷲野氏は思った。


■3.最初の入学式■

 平成13(2001)年4月5日、入学式の前日に、鷲野氏は国立2小の全教員の前に立ち、校長から新任として紹介された。引き続き第一回目の職員会議。

 明日が入学式だというのに、「入学式(案)」が2種類配られたので鷲野氏は驚いた。

一つは「第51回入学式 校長決定事項」として、日付も元号になっていたので、校長が出したものとすぐに分かった。もう一つは組合が出したもので、日付は西暦になっていた。対立点は、もちろん国歌を入れるか、入れないかだ。

 しかし、組合側は昨年の「土下座要求事件」がマスコミで全国的に報道され、13名もの処分者を出したことで、もう戦う姿勢は半減しているように見えた。昨年の9時間半に及ぶ職員会議で国旗掲揚に反対した気力はもう見えなかった。

 しかし、校長が音楽の先生に国歌のピアノ伴奏をお願いすると「私はピアノ伴奏はやりたくありません」ときっぱり断られた。

理由は「『君が代』は本来、雅楽であるからピアノ伴奏は適当ではない」、「自分はカトリック信者なので、『君が代』に反対」というものだった。校長はそんな理由が成り立たないことを説得したが、それでも彼女は頑なに拒否した。

 次に「子供の安全についてどう考えるのか」という意見が出された。

「土下座要求事件」の時のように右翼の街宣車が60数台も押しかけてきて子供たちの安全を脅かすのが心配だと言う。校長は「心配ない」と答えたが、あまりにしつこいので、鷲野氏は「みんなが国旗・国歌に反対するから右翼が来るのでしょう」と言った。これが赴任第一声だった。

 翌日の早朝、校長、教頭により、無事、屋上に国旗が掲揚された。「子供が心配だ」と反対していたが、本当に心配して早めに来た教員はいなかった。子供たちのことを心配していたのではなく、単なる国旗掲揚反対のための理屈だったのである。

 一人、校門の外で反対派のビラを配っている中年の女性がいた。入学式が始まると、その女性は来賓席に座っていた。国立市の市議会議員の上村和子氏であった。国歌斉唱の時も、起立しなかった。

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 反体制派が学校行事にまで入り込んで、幼い子供たちの前で反国家思想を教えようとしている。なんという人間か。[3,p53]
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■4.子供より遅く出勤する教員たち■

 4月11日の職員会議では、この年度に着任した吉田健教務主任から教員の出勤時刻の問題が提起された。吉田主任は東京都教育委員会から国立2小の正常化のために送り込まれた7人のうちの一人である。

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 本校に着任して生活時程を見ると、子供たちの登校が8時15分になっていて教員の出勤が8時30分になっているが、この15分間は子供の安全はどうなっているのか。
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 組合員からは「今までそうやってきて事故が起きなかったから、今まで通りにやっていいのではないか」などと、出勤時間を早めることへの反対意見が出た。鷲野氏は「教務主任の発言は当然である」と援護射撃をした。

「これは団体交渉で決めます」という組合員に、鷲野氏は、「これは組合と校長との団体交渉で決めることではない。校長が決定すべきことだ」と一蹴した。

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 普通は子供たちよりも少しでも早く出勤して、登校の様子をみたいのが、担任の気持ちである。それが子供より遅く出勤することを認めよというのだから、もう組合教員は教師のなれの果てというほかない。

「子供の安全」を口ぐせのように言っている組合員の発言がこれだから、いかに日頃出鱈目なことをやっているか想像できる。[3,p56]
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 翌日、組合代表5人が校長室に押しかけて「団体交渉」となったが、鷲野氏も同席して事なきを得て、翌週の教員会議では、校長が「教職員の出勤時刻は児童の登校時刻と同じ8時15分にする」とした。


■5.道徳の時間をつぶそうとする「PTA学習会」■

 6月20日、「PTA学習会」が開かれた。国立市教育委員会の持田・学校指導課長が、翌年度から実施される新教育課程の説明を行った。20名ほどの保護者が参加したが、学校側からの出席は鷲野氏一人だった。

 最初に出た質問は「新教育課程においては各教科ともに時間数が減っているのに、道徳だけは週一時間必ず確保するのはなぜか」だった。

さらには「道徳教育を週1時間やらなくても、学校行事を実施しているのだから、それで補うことができるのではないか」とも言う。

この学校行事とは、毎年行っている子供祭りのようなもので、子供たちが中心となって店を出したりする。これが道徳教育の代わりになるはずがない。道徳教育を廃止させるための方便に過ぎない。

 一般的な保護者ならこんな質問はしない。

主催者の面々は、国立市の共産党市政を支持する人々だった。こういう「プロ市民」保護者が組合教員と連動して、「PTA学習会」を開き、道徳教育をつぶそうとしているのである。持田課長は、その手には乗らず、終始、新教育課程の本筋を述べて、閉会となった。

■6.職員室に押しかけてきたPTA役員ら20数名■

 鷲野氏はこのような内部から見た国立2小の実態を広く世に知らせることが、自分の使命だと考え、「その後の国立2小」と題するレポートをまとめた。

これが雑誌『正論』平成13年9月号に掲載された。その中で、前述の出勤時刻の問題や、国歌のビアノ伴奏を拒否する音楽教師、さらには勤務時間中の組合活動を許す「ながら条例」などの実態を明らかにした。

『正論』が出版されるや、9月6日にPTA役員など20名が職員室に押しかけてきた。

敵対勢力は数にものを言わせて押しつぶそうという戦略である。この抗議には教頭が対応し、押し問答の末、双方から3名づつ代表を出して話し合うことになった。学校側の代表は校長、教頭、鷲野氏だった。

 PTAの代表者3人は、このような記事がマスコミに出ると、右翼の街宣車がやってきて、子供達が危険だと言い張った。鷲野氏が訴えた国立2小の問題そのものにはふれてこない。

 さらにPTA側から「この記事について保護者から説明を求められれば、応じるか」との問いに、鷲野氏は次の3点を条件に、承諾した。

・『正論』の記事を本校の全保護者に配布すること。
・全保護者を体育館に集めて鷲野氏が一人で説明にあたること。
・説明会は公開にすること。

 PTA側はこの3点を諒解したが、その後、20日経っても、説明会は開催されなかった。『正論』の記事が全保護者に配られたり、公開の説明会でマスコミの記者がやってきて学校の実態が明らかにされたら困る、と考えたのだろう。


■7.押しかけてきた組合幹部たち■

 平成14年度の卒業式では、校長はなんとしても国旗を壇上に掲げたいと思い、組合員で固められた行事委員会の案を拒否し、「みなさんからの意見がありましたら検討はしますが、最後は私が決定します」と述べた。

 2年前は9時間に及ぶ職員会議で組合員が国旗・国歌に反対し、挙げ句の果てに「校長土下座要求事件」まで引き起こしたのだが、ようやく「私が決定します」と校長が言えるようになったのである。

校内においては東京都教育委員会から送り込まれた7人の教師と鷲野氏が校長を支え、外からは一般世論の圧力で、組合の力をここまで後退させる事ができたのである。

 しかし、個別の抵抗はまだまだ続いた。

音楽担当の佐藤美和子教諭が、国歌斉唱の指導とピアノ伴奏をあくまで拒否したので、校長が「それなりの覚悟をするように」と言った所、組合幹部の5人が校長室に押しかけてきたのだった。

面会の約束もないまま、校長室に押し入ろうとする幹部たちに、校長と教頭は「出て行け」と怒鳴った。こういう人間たちが、教師と称して、組合活動に明け暮れているのだ。


■8.「新天地を開く」■

 鷲野氏は、校長の依頼を受けて、慣れないピアノ演奏で国歌指導を行うことになった。教員達は組合を恐れて誰もやろうとしないので、もう鷲野氏がやるしかなくなっていたのだ。

 3月15日の第一回目の国歌指導では、校長が国歌の大切さを話し、続いて鷲野氏がピアノのテープ演奏をバックにまず歌った。

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 爽やかな興奮と感激を覚えた。本校の誰かが、かつて「君が代」を国歌として指導したことがあったのか。

50年間に一度だってあったのか。ここは、いわば東京でも治外法権の地であるから、そこに初めて乗り込んで新天地を開くことになるのだ。子供たちはだんだん声が出てきた。[3,p101]
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 しかし、卒業式全体を通して練習する日になると、鷲野氏は緊張してピアノを弾けなくなってしまった。そこで、校長がこんな時のことも考えて依頼していた岡部ひとみ先生が、ピンチヒッターとしてピアノ伴奏をやってくれる事になった。

 平成14年3月25日、卒業式が行われた。2年前には屋上に掲揚されて「土下座要求事件」のきっかけとなった日の丸は、この日は壇上に掲げられていた。


■9.どこかに隠れた組合員たち■

 国歌斉唱では、子供たちの中からも声が聞こえてきた。

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 その中で一際大きな女性の声が響き渡ってきた。

あとで聞くと保護者の中にソプラノ歌手がいたとの話だった。確かめたわけではないが、大きなプレゼントをしてくれた。「国歌はこのように歌うんですよ」と言わんばかりの歌いぶりだった。

国歌斉唱のときは本校の教職員席は空席が目立った。組合員は歌うことはできないし、歌わないと意思表示する勇気もないし、ただ、どこかに隠れるより方法がなかったのだろう。日本人からの逃避である。

 あの二年前の「土下座要求事件」はいったい何だったのか。

純粋な子供たちの中に自己のイデオロギーを植え付けてきた組合員たちよ。壇上に掲げられた国旗を見上げてどう思っているのか。・・・反対ならばどうしてそれを一貫して押し通さないのか。職を賭してもやるべきだったのではないか。[3,p104]
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 こうして組合教員とプロ市民PTAに密室支配されていた国立2小に日の丸が掲げられ、日の光が差し込んだ。

その光を恐れて、今まで暗黒の密室の中に巣くっていた組合教員やプロ市民たちは、姿をくらましてしまったのである。
(文責:伊勢雅臣)

民間人校長の教育改革、奮闘記

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、「民間人校長の教育改革、奮闘記」です。

前回、国際派日本人養成講座の伊勢雅臣が、おやじたちの教育改革を紹介しましたが、今回はその続編で民間人校長の教育改革、奮闘記を紹介します。



国際派日本人養成講座の伊勢雅臣です。

 前号は異常な教育を正そうと学校の外から働きかけたオヤジたちの活動を紹介しましたが、今回は、民間人校長として、学校に入り込んだ方の奮闘記です。そこは一般社会人の常識がまったく通じない「異界」でした。

■■ Japan On the Globe ■■ 国際派日本人養成講座 ■■

教育再生 第2部 密室の中の独裁者

(6)民間人校長、「異界」に挑戦

 民間人校長の熱意が、「異界」の教師たちを変えていった。
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■1.「異界」での第一声■

 ボストンで投資ファンド会社の社長を勤めていた国際派ビジネスマンの大島謙氏が、三重県立白子高校の校長として赴任したのは、平成15(2003)年4月1日だった。はじめての職員会議に出席する。

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 しかし、その姿たるや、十年一日のごときもので、まるでセピア色の映画を見ているような感じだった。議長がいて、それがみんな各先生たちの輪番である。会議の進め方も、今まで何年もやってきたから、十年一日ほとんど同じなのだろう。

「この件についてお諮(はかり)りください」と言って、意見を聞く、「これに対して表決をいたします、賛成の方は挙手を願います」と言う。しかし、発言する教師はだいたい決まっている。ほとんどの教師たちは黙って下を向き、言われれば挙手をする。中には居眠りをしている者もいる。

 ・・・このような古びたやり方では、物事を新しくつくりだしていくことなど絶対にできないと私は思った。私は思わず、「そんな場じゃないでしょう?」と言った。
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 これが学校という「異界」に乗り込んだ民間人校長の第一声だった。


■2.新しいタイプの日本人を育てる■

 大島氏はボストンで東芝系の投資ファンド会社の社長だった。そして日本で新たなベンチャー企業投資の事業を展開しようと準備していた。アメリカのパートナー会社や東芝の了解を得て、二百億円くらいのファンドを作ろうという構想が固まりつつあった。

 しかし、いよいよ最終合意のために日本に行こうとしていた矢先に、9・11事件が起こったのだった。会議はキャンセルされ、アメリカから一歩も出られなくなった。日米で不況感が急速に広がり、挽回しようと半年間かけたが、だめだった。

 日本での転職先を探している時に、知人からのメールで知ったのが、「民間人校長」公募の話だった。大島氏は常々、海外から日本を見て感じていた事に取り組むチャンスだと思った。ちょうど三重県からの募集を見つけ、応募した。

「失敗をしない優等生ばかり育てようとした戦後教育から、リスクへの挑戦もできる新しいタイプの日本人を育てることが急務」と「応募の動機」を書いた。65人の応募者で合格者はわずか2名。その一人が大島氏だった。


■3.「これでは共産主義国家と同じではないか」■

 次に驚いたのが、組合の職場委員会である。ご挨拶に伺いたいという申し入れがあり、いつでもどうぞと答えると、4、5人がぞろぞろとやってきた。なにやら団体交渉の雰囲気である。

 彼らは組合としていくつかの要求を提示した。その一つに民間校長が臨む初の入学式で、テレビ局が取材に来る事になっていたのだが、国旗・国歌の時に立たない教師がいても、そこを撮らないようにテレビ局に申し入れしてくれ、と言うのがあった。これでは共産主義国家と同じではないか、とあきれた大島校長は言った。

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 それは希望としては言えますが、私のほうから、取材規制みたいなことは言えません。それとも、みなさん取材されたら困るのですか。困るような事をしているんですか。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 しばらくの沈黙の後、今度は、一人が別の要求を切り出した。「組合として勝ち取った権利は、組合員の権利だから、非組合員には渡したくない」と言うのである。

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 組合員だろうと非組合員だろうと同じ教師でしょう。組合員じゃないから与えないなんて言ったら、それこそ差別ですよ。
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 そこで、また沈黙だった。「異界」の住人から見れば、この「侵入者」の言うことは理解を超えていたのだろう。


■4.トイレ・ロックアウト事件■

 一学期が始まって、まもなくの事である。放課後、学校の中を見回っていると、校舎の一角の洋式トイレの方だけ、中から鍵がかかっていた。おかしいな、と思って、そこの掃除監督の女の先生を呼び出した。トイレの掃除は近くのクラスに割り振られて、毎日の掃除当番が決まっているのだが、それを監督する先生である。

 聞いてみると、ロックアウトしたのは、その先生だと言う。なぜそんな事をしたのか、と大島校長が聞くと、憤懣やる方のない表情で「生徒がいつも煙草を吸ったり、ある時は汚物がつまってあふれていました。そういう苦労を校長先生は分からないでしょう。校長先生もこれから見張りに立ってください」と言う。

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 何ですか、それは。じゃあ、校長がやらなきゃ、あなたたちはやらないのですか。第一あそこをロックアウトしたのはあなたがやったのですか。あなたが中に入って鍵をかけて、上から這い出したんですか。
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「いいえ」と言うので、「じゃあ生徒にやらせたんですか。女子トイレは女子生徒にやらせたんですね」。答えはない。

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 そういうこと自体がおかしいんじゃない? ここの施設の管理者は校長なのだから、少なくともそういう事をやる前に報告をしてください。
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 その先生は憤慨して、席を立ち、部屋を出て行ってしまった。生徒たちがトイレを汚すので、女生徒にロックアウトさせ、管理者に報告もしない。それをおかしいと指摘すると、怒って席を立ってしまう。学校という「異界」の常識がいかに世間とかけ離れているか、大島校長は実感した。


■5.トイレ修理でも議論■

 それからしばらくして、技術員(昔でいう用務員)から突然、電話がきた。校舎のあるブロックだけ耐震工事がされ、トイレも綺麗にされていたのだが、そこがひどく汚されているという。煙草の吸い殻が捨ててあったり、床には煙草の火をもみ消した焼けこげがあり、さらには壁も蹴飛ばされて破れている所があるという。

 大島校長は、これは一度きっちり直さないといけないと思った。1週間ほどトイレを封鎖して、技術員さんを中心に専門業者も入れて修理して貰うことにした。このプロジェクトを職員室の朝礼で説明すると、こんな事にも反対する教師が出てきた。トイレをロックアウトした女教師である。

「膀胱炎の生徒がいます。そういう生徒は困るでしょう。封鎖はしなくとも、通常の掃除を頑張ればできます」と言う。

__________
 通常の掃除は今までやっていたでしょう。それであの状態になったんです、だからわれわれは、これではまずいと思って、やるんです。膀胱炎の生徒も一人や二人はいるかもしれない。事前に生徒にもきちんと説明します。もし生徒の中で反論があったら、それも聞きます。その時の個別の対応も考えます。
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 これでも納得してもらえなかった。そのあとも、この教師はメールでいろいろな事を言ってきたが、毎回説明しながら、大島校長は絶望的な気分になった。なんて常識が通用しない世界なんだろう。自分が担当のトイレが汚されると、怒って勝手にロックアウトしてしまい、全校方針として根本的に解決しようとすると、一人二人の事情を持ち出して反対する。


■6.汚れた環境は人間の心を暗くし荒(すさ)ませる■

 最後には、これは他の全員が納得したことだから、あなただけが反対でもやります、と言った。技術員さんは張り切って、費用を節約しようと床や壁の貼り替えまで自分で行って、ピカピカに仕上げてくれた。

「汚れた環境は人間の心を暗くし荒(すさ)ませる。継続的な美化活動に取り組むことにより、物を大事にする心を生徒たちに示す」と大島校長は方針の中で述べていた。

 アメリカに「破れ窓理論」というのがある。破れた窓を放っておくと、また次の窓が破られ、それが徐々に拡大し、ついに荒廃の極みに達するというものである。

 大島校長は着任当初、学校が本当に汚いと思った。建物は古くとも、きちんと掃除をし、メンテナンスをすれば、それなりの美しさを保てる。しかし、白子高校はゴミが散らかり、荒廃した感じが漂っていた。だからこそ、大島校長は、まずトイレの徹底的な美化に、こだわったのである。

 この方針は少しずつ、生徒たちを変えていった。その後、サッカー部員が他校に行って練習試合をした時に、ロッカーだけでなくトイレまで掃除して、その様子を見た他校の保護者から「立派な生徒たちですね」と感激のメールが寄せられるまでになった。


■7.「十分間読書」開始への苦闘■

 もう一つ、大島校長が始めようとしたのが、「朝の十分間読書」、通称、朝読(あさどく)である。生徒への教育効果がめざましく、「朝の読書が奇跡を呼んだ」という実践記録書も出版されているのに、三重県74校の高校で実践していたのは、わずか10校程度であるという。たかだか10分の読書を生徒にさせるのに、「異界」ではどれほどの覚悟がいるかを、大島校長は体験することになる。

 1学期が始まってまもない5月の職員会議で、国語科の教師たちによる朝読委員会から、「朝の十分間読書」が提案された。しかし、「大変なことはやりたくない」という一部の「抵抗勢力」の声に押し切られてしまった。その後、朝読委員会のメンバーを他校の成功事例の調査に行かせたり、ねばり強く説得してやる気を保持させ、何度目かの職員会議でやっと「試行」にこぎつけたのが、初年度も終わりに近い2月だった。

 一週間後に、教師たちの意見が寄せられた。「先週、一年生のクラスに参加。一人を除いて他の全員が一生懸命読書をしているのに大変嬉しくなった」など、効果を実感する声がいくつも寄せられた。しかし朝読のために昼休みが5分短くなったのに不満を寄せてくる教師もまだいた。

 それでも、最初の一年が過ぎようとする頃には、「最近、自分も含めて教師たちが変わってきたと感じます」というメールを寄越したり、「生徒指導は全教師一丸とならなければ!」などと職員会議で発言する教師が出てきた。サイレント・マジョリティが変わり始めたのである。


■8.改革のための音楽科新設■

 教師たちに改革意欲を持たせ、生徒たちに目的意識を持たせるにはどうしたら良いか、そのために白子高校が持っている潜在力は何だろうか、と考えていて、大島校長が行き着いたのがブラスバンド部だった。県大会や東海大会で常に活躍し、マナーの良さにも定評があった。彼らに学校を代表しているという意識を持たせれば、他の生徒たちにも良い影響があるだろう。

 そこで音楽系の新学科を作れないか、と考えた。普通の音楽科ではピアノとかバイオリンと言った単一楽器を教える。そういうプロ養成のための個人英才教育ではなく、様々な楽器を皆で一緒に演奏する吹奏楽なら、音楽を通じた情操教育が図れるのではないか、というのである。

 この案を職員会議に持ち出すと、反応はひどく冷たいものだった。三重県には「音楽」と名のつく学科もコースもなかった。そんな学科が認可されるとしたら、まずは有名進学校であって、「白子高校でできるわけがない」という意識があった。

 それでも7人の教師を選んで根気よく検討して貰い、年度末には提案書をまとめて、県教育委員会に上申した。県教委内の審議の過程で、「進学対策は十分か?」「定員四十名確保できる保証は?」などと矢継ぎ早の質問が来る。

 なかには「校舎改修の見積もりを数日中に」という要求まで来て、事務方を総動員し、懇意の建設業者に無理矢理頼み込んで200ページを超える工事見積書を作成し、県教委を驚かせた事もあった。


■9.職員朝礼での拍手■

 県教委での審議の過程で、大島校長も堪忍袋の緒が切れかかって、喧嘩腰でねじ込んだ事もあった。そこまで強硬に思いを伝えないと、彼らも本気にならない、という計算もあった。

 5月末には、再作成した提案書を県教委に提出した。この頃には、大島校長は内心ではあきらめかけていた。県議会がとっくに終わっても、県教委からは何の連絡もなかった。もはや運を天に任せるしかないと、毎朝、家を出る前に神様に祈るのが日課となった。

 ある日の夕方、県教委から電話が来た。認可内示の知らせだった。翌朝一番に県教委にお礼回りに行くと、出会う人がみな笑顔で祝福の声をかけてくれた。

 さらに職員朝礼で認可がおりた事を伝えると、思いがけず拍手が起こった。意外ではあったが、とても嬉しいことであった。

__________
 われわれは、この新コースだけをよくすればいいとは、もともと思っていない。あくまで・・・普通科全体を含めた学校全体の活性化が目標である。そして、新たな「白子高校ブランド」を創生し、「仲間づくりと夢の語り場」にすることが最終ゴールだ。そのために、新たに全校で取り組める行事を、ということで、新コース生が2年生の時、全校生徒による共同制作の「創作ミュージカル」をやろうと、夢はさらに広がっている。[1,p132]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 大島校長の挑戦はまだまだ続く。その改革への熱意こそが、人間教育の原点なのではないか。教育とは、大人が次世代の青少年たちの心に志の火を灯すことだろう。とすれば、まず教育者自身の心に、火が灯っていなければならない。

 そして、志の火は一人の教師から他の教師たちへと、燃え移るものである。それはさらに何百人の生徒の心を燃え立たせ、その一生を実り豊かな、幸福なものに変えていく。教育再建とは、結局、これを地道に続けていく事でしか、実現しないだろう。「民間人校長」に限らず、既存の学校教師の中からでも、一人でも多くの教育者の奮起を望みたい。
(文責:伊勢雅臣)

オヤジたちの教育改革、奮闘記

テーマ:ブログ
リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、「オヤジたちの教育改革、奮闘記」です。
国際派日本人養成講座の伊勢雅臣が紹介する日教組体制を打破し、教育改革をすすめる地元の方々の取り組みです。


以下、原文そのままの内容です。

国際派日本人養成講座の伊勢雅臣です。

 第1部では戦後教育の惨状を、それをもたらした思想的混迷、第2部4号までで、それをもたらした日教組体制をご紹介してきましたが、いよいよ、それを打破し、教育再生を図りつつある人々が登場します。

 まずは、教育関係者が相次いで自殺した「恐怖と無法の広島公教育界」で立ち上がった「オヤジの会」の皆さんの登場です。


■■ Japan On the Globe ■■ 国際派日本人養成講座 ■■

教育再生 第2部 密室の中の独裁者

(5)オヤジたちの教育改革

 オヤジたちが教育の正常化のために、連帯して立ち上がった。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 転送歓迎 ■■


 今回は、広島県で教育改革に取り組んでいる各地域の「オヤジの会」会長3名に放談の形で、これまでの活動ぶりを語ってもらった。広島・尾道市では平成15(2003)3月に民間出身の校長が自殺、そして7月には教育次長の自殺と続き、4年前に世羅高校校長が自殺に追い込まれた異常事態[a]は今も残っているようだ。

 しかし、多くの地域ではオヤジたちによる教育改革への奮闘が続き、成果も出始めている。そのアプローチは、地域の父兄の関与が、偏向教育の是正のためだけではなく、学校や家庭での教育をより良いものにするうえで、不可欠の要素であることを示している。全国のオヤジたちの参考に供したい。


■1.「学校の教育現場をなんも知らんかった」■

A: 僕が始めてPTAの会長になって痛感したのは、今まで父親として、学校の教育現場をなんも知らんかったということです。

B: ワシもそう思った。卒業式でも君が代どころか、校歌すら歌わん、などとは思いもよらんかった。以前、校歌の作曲者が来賓で来とったが、「こりゃ、どこの国の卒業式じゃ」ちゅうて怒って帰ってしまったそうじゃ。

C: うちの学校では、国際教育と言って、朝鮮の服を着せてみたり、家庭科でキムチの作り方を教えてました。東京から転勤してきて、向こうではそんな事は教えてなかったので、はじめは国際的でいいじゃないか、と思ってましたが、しばらくすると、なんで北朝鮮のことばっかり教えるのか、他の国のことはなぜ教えないのか、と思うようになりました。別にうちの地域は在日の人が多いというわけでもないのに。

B: 運動会でも、万国旗が飾られとったが、そのなかに日の丸がない。所々、豚や猫の旗があったが、わざわざ日の丸をはずして、豚や猫の絵にしとったんじゃね。それに遊技とか集団演技ばかりで競争種目がほとんどないから、父兄が見ていてもぜんぜん面白うない。徒競走だけはあったが、ゴールしても順番もつけん。なんじゃ、これは、と思うたわ。

A: クラスを参観しても、混合名簿で男子女子がごちゃまぜになっとりました。男の子もわざわざ「さん」づけで呼んどって気色悪い。先生も時々間違えて「田中君」とか呼んで、あわてて直しとりました。まあ、学校のことは先生と母親に任しておけば、ちゃんとやってくれとると思っとりましたが、自分で学校に行って見てみると、こりゃ放っとけんなと思いましたね。


■2.「子供を人質にとられとる」■

A: 私がPTAの会長になった時、ちょうど商売仲間のBさんが会長経験者だったんで、軽い気持ちでどんなもんか、聞いてみたんです。そしたらうちの地域の偏向教育がひどいちゅう事を聞いて、初めは半信半疑だったんで、まず事実を調べてみよう、っていうんで、両方の学校の卒業式の式次第やアルバムを並べて、比較をしてみた。

 そしたら、ものすごい違いがあることがわかったんです。卒業アルバムを見ても、うちはフロアでの対面形式でやっとる。こりゃぁ校長を高い位置に置かせんためのもんらしい。こういう比較情報は、僕だけでなくPTAの間でも、うちの学校はずいぶん変な事をやっとる、っていう事を認識するんに大きな効果がありました。

B: ワシの友人にもPTA会長経験者がおって、こんな事を言うとった。その会長が学校にいろいろ文句をつけた所、その子供は、教室でのプリント配布の時でも、担任から「ああ、○○君のお父さんはPTA会長さんじゃけぇ、こういうプリントは渡さんでいい」と言われて、のけ者にされたそうじゃ。子供は家で泣きながら「PTAの会長をやめて」いうて頼んだそうじゃ。

 PTAの役員になって、この学校はおかしいと気がつく人は多いけど、こうして子供を人質にとられとるけぇね、言いたいこともなかなか言えん。特にお母さん方じゃね。卒業式でのPTA会長の挨拶の時に、こうした事をあらいざらいぶちまけて、今日で会長を辞任するとやった人もいたそうじゃ。しかし、そうまでしても学校は全然変わらん。


■3.「まずは校庭の草とりから」■

A: この話を聞いて、僕も広島の男じゃけん、こういう卑怯な輩とは徹底的に戦っちゃろうじゃないか、と思いました。しかし、一人で立ち向こぉてもダメじゃ、父兄の中で仲間を作っていかんにゃぁいけん、とBさんからアドバイスをもらいました。

 そこで、私は地域のソフトボール仲間に声をかけて、PTAとは別に「オヤジの会」を作りました。オヤジの会の会員を集めようと、勧誘文を学校から配布して欲しいと頼んだら、初めは拒否されました。広教組(広島県教職員組合)の活動家の先生たちは、我々父兄が口出しするのを迷惑がっとりました。

 オヤジの会でまずやった事は、学校の草取りでした。父兄が集まって、校庭の草取りをする。これにも広教組の先生は、草取りをしたら昆虫の住む場所がなくなる、なんて、見え透いた反対をしましたがね。

 それから、学校の横を流れとる川のゴミさらいもしました。男親が集まると、電動の草刈り機を持ち込んだり、川に沈んどる自転車をクレーンで引き揚げたりと、いろいろ道具立ても揃いますけぇ、子供らも面白がって参加してきました。今では、父兄の寄付で草刈り機が4台もあります。

 また「とんど祭り」なんかも、オヤジの会が中心となって学校でやりました。1月15日の小正月に門松やら注連縄(しめなわ)やらを山のように積み上げて校庭で焼くお祭りですから、オヤジたちが何人も揃わにゃできません。子供たちもそりゃ、面白がっておりました。

 作業が終わったら、皆でビールを飲みながら、バーベキュー・パーティーです。子供たちはジュースでね。これも初めは学校で飲み食いせんでくれ、っていう邪魔が入ったんで、駐輪場でやりました。

 こういう具体的な作業を作って、なるべく多くの父兄に参加してもらったのが良かったですね。座って学校の批判ばかりしとるよりも、わいわい言いながら一緒に作業をして、校庭や川がきれいになったのを見る方が達成感がありますけえね。オヤジの会は、別に子供がいない人でも、その地域の有志が参加できるようにしとったんで、お年寄りたちも清掃作業に喜んで参加してくれるようになりました。

■4.職員室の異様な雰囲気■

A: こうして父兄でいろいろなボランティア作業をやりながら、学校にどんどん出入りするようにしていったんです。たとえば校長に会いに行く時は、わざわざ職員室を通って、先生方に挨拶していく。

 いや、しかし、最初に職員室に入った時は、異様な雰囲気にびっくりしましたね。こんちわっ~、と大きな声で挨拶しもって職員室に入っても、誰も返事をせんのです。余計なよそ者が来た、という目つきで我々の方をにらんどる。

 ある先生の机の上には、解放同盟(部落解放同盟広島連合会)の新聞が広げてあって、どこかの校長を吊し上げた、なんていう記事が一面に出とる。そういう新聞を、我々が通ると、さっと隠したりしとりました。

 しかし、我々オヤジの会が校庭や川の掃除といったボランティア活動をして、先生方にも呼びかけとると、参加してくれる先生方も、少しずつですが出てきました。先生方の中にも、今の広島の教育はおかしい、なんとかしたい、と思うとる人も結構おるんです。

 その一人、道徳の女の先生が私に話があるとこっそり言うてきたので会うたんですが、その先生は、道徳の時間は同和教育や人権教育ばかりで、まるで道徳の教育をやらせてくれない、と私に悩みを打ち明けてきたんです。それでも私と二人で話している事がばれると吊し上げされる恐れがあるので、部屋に入るときも出るときも、誰かに見つからんようにえろう警戒しとりました。学校じゃあ自由にものを言えん事がよう分かりました。

 オヤジの会では、このように本当に生徒の事を思っている、やる気のある先生を励まして、サポートしてきました。昨年は、ついにこの先生が、道徳の公開授業をやる所までこぎ着けました。退職した前の校長先生からも、「ついにやったね」と電話がありました。

 組合活動の中核となっている問題教師は一部なんです。その一部が事ある毎に外部の勢力を引き込んで吊し上げやらするんで、校長先生も大勢の普通の先生方も口出しできないような状態になっとる。だから、我々オヤジたちが学校に乗り込んでいって、世間の常識からものを申す。そういう事で初めて、やる気のある先生方に不当な圧力をはねのけて、子供のやる気を引き出す授業をして貰えるんです。

■5.「破り年休」■

B: また以前は、組合活動の中心となっとる先生は、広教組の大会とか集会とかで月に3日も4日も出張しとって、その都度、生徒たちは自習を命ぜられとった。じゃけえ、以前は生徒たちが昼日中から、町なかをうろついとる、なんて事もようありました。活動家の先生方は、組合活動へ出るのに、年次有給休暇の届けを出しておいて、帰ってきたら破って捨てる。これを「破り年休」と言います。

 これが30年間も続けられとったんじゃが、教育委員会が約2百名の教師に総額2千万円ほどの返還請求をした。学校ぐるみの不正が行われとったわけじゃが、ワシら、オヤジの会のメンバーがしょっちゅう学校に出入りしとると、こがぁな事はあからさまにできなくなった。

 まだまだ組合の方も、いろんな活動をしとるが、以前のように不正をおおっぴらにやるという事はなくなりましたな。


■6.オヤジたちの援護射撃■

C: 私はソフトボールが好きで、Aさんのチームとはよく試合をしていました。試合後の一杯飲みで、Aさんたちがオヤジの会で活発にやっている様を聞いて、私も自分の地域のために何かしたいという気になってきました。

 Aさんたちを見習って、初めは校庭の草取りから始めましたよ。そういう作業を通じて、学校の建物とか、先生方の顔と名前を覚えると、家でも息子といろいろな話題ができたのは、嬉しかったですね。今までオヤジとして、いかに子供の教育をなおざりにしていたか、改めて感じました。息子も口には出しませんが、自分のオヤジが学校のためにいろいろやってくれるのが、誇らしい様子でした。

 それから、ちょうどこの頃、文部省の指導で、県教育委員会から、学習指導要領に則って入学式、卒業式では国旗掲揚・国歌斉唱を実施すべきとの通達が各校長に出されました。

 この通達どおり国旗掲揚・国歌斉唱を何とか実施しようとした世羅高校の石川敏浩校長が、広教組の強硬な反対にあって、自殺に追い込まれました。この事件は国会でも問題になりましたが、やはり教育委員会からの通達があっても、校長一人では組合員たちに吊し上げられたら、どうにもできません。

 日頃から、オヤジの会がいろいろな行事を通じて、校長とよく話し合っていれば、こういう時に支えてあげることができます。私の学校では、オヤジの会が中心となって、教育委員会からの通達のコピーを父兄に配布し、有志の連名で「学習指導要領通りの卒業式、入学式をしてください」という要望書を学校に出しました。

 こういうオヤジたちの援護射撃で、校長をバックアップし、また良識ある先生方を励まして、ちゃんと国旗と国歌が卒業式、入学式でできるようになりました。


■7.広がるオヤジの会■

B: ワシらの市じゃあ、20いくつかの小学校があるが、こうしてオヤジの会が広まっていって、いまではほとんどの学校で結成された。まだない所でも、立ち上げようと準備が進められとる。お互いに横の連絡をとって、進め方のノウハウを交換しながら、やっとるけえね、連帯意識もあるけど、いい意味での競争意識もあるかねえ。

 今までは、オヤジたちは家にほとんどおらんので、学校も母親任せで、日教組がどんな勝手な事をしているのかも、知らんかった。母親が多少変だなと思うても、子供を人質にとられとるから何にも言えん。

 結局、日本の学校教育がこんなになってしまったのは、我々オヤジたちが、教育を学校や母親に押しつけて知らんぷりをしとって、その隙に日教組が勝手な事をしとったということじゃろう。やはり、オヤジたちが社会の常識を学校にも持ち込み、不正とは連帯して戦こうていかにゃならん。

 また家庭教育がなっとらんのも、オヤジたちの責任じゃ。最近、うちのオヤジの会では、暴走族の少年を更生させようと取り組んどるが、父親や地域のオヤジたちが子供たちの不良行為を初めのうちからきちんと注意しとったら、暴走族なんぞになりはせん。

 ワシらの子供の頃は、学校への行き帰りは、近所の人が農作業をしている横を通って行くんで、あちこち、お早うございます、とか、挨拶をしながら学校に行った。近所の人も、「おう、賢ぼう。今日も元気だな。」とか、声を掛けてくれる。そういう中では悪さなんか、できっこない。地域全体で、子供を教育しとったんじゃね。

 オヤジの会ちゅうのは、日教組と戦うだけじゃのうて、家庭や地域の教育力を復活させて、本当の教育改革をしていこう、ちゅう動きなんじゃ。日本中にオヤジの会がでけた時には、日本はもっとまっとうな国になっとるじゃろう。(文責:伊勢雅臣)


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