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跳べないノミ 逃げない象

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

 今回は、「跳べないノミ、逃げない象」になってはいけないです。

清水英雄氏の著書「ありがとう戦略」より、これまでできなかったことは、これからもできないという「固定観念」に騙されてはいけないという話です。

 

 人生の本質は、現状を打破し、進歩発展を遂げることにある。

これまでできなかったことができるようになる。これまで見えなかったものが見えてくる。そこから得られる達成感や満足感にこそ、生きる喜びがあるのだ。
 だが、いざ現状打破に向かおうとするとき、そこに障害が立ちはだかる。「固定観念」という名の大きな壁だ。


 ノミを使った有名な実験がある。


 まずノミを箱に入れてガラスの蓋をする。初めのうち、ノミは箱から出ようとして跳びはねる。しかし何度挑戦してもガラスの蓋が邪魔して外に跳び出せない。

くり返しながらノミは「学習」していき、やがて蓋を外してやっても、外に跳び出そうとはしなくなっていく。ノミの中に「いくら頑張っても跳び出せない」という固定観念が身についてしまうからだ。

 

 象を使った実験もある。

象の足に頑丈な鎖を結びつげ、太い杭につなぐ。初めのうちは何とか逃げようとして鎖を結んだ足を引っ張るのだが、さすがの象も鎖と杭には歯が立たない。

そのうちあきらめの気持ちが芽生えてくる。そこで段階的により細い杭に替えていき、最後に小枝のような
細い杭にしても、もう象は杭を抜いて逃げようとはしなくなってしまう。

 

 自分の中に形づくられた固定観念の力が、いかに恐ろしいかということだ。


 この固定観念が自己否定まで進んでしまうと、さらに恐ろしいことになる。

「どうせ自分はダメな人間なんだ」「どうせ自分にはできっこない」といったように、何でも「どうせ……」で片づけるようになってしまうからである。

   

私が思うに、

「新しい事」や「初めての事」を始める時や「自分に都合の悪い事が起こる」等々、どうしても過去の経験を参考にして考えてしまいがちです。

そして、人間の脳みそは「新しい事」や「初めての事」や「自分に都合の悪い事」等々に対して、

”身勝手だったり”  ”臆病であったり” との特性がありますので、自分の都合の良い方に考えたり、出来ない理由ややらない理由を勝手に考え始めます。

その「脳みその特性」と「過去から来る固定観念」が見事なまでにマッチして、「跳べないノミ」「逃げない象」生み出しているように思われます。

そこから脱却するには、意識的にそれぞれの人の発想の転換が必要だと思います。 

 

例えば、

私が「新しい事」や「初めての事」「自分に都合の悪い事」にぶつかった場合に勝手に思うことは

 

こんなことに挑戦させてもらえるなんて、なんと有り難いことなんだ!(感謝の念を持つ)とか。

これに挑戦したら新しい自分と逢えるんだとイメージする!(ポジティブ思考)とか。

 ”ピンチはチャンス! ピンチはチャンス!” これは何かいいことがあるんじゃないのか(発想の転換)とか。

 俺にはご先祖様がついているから大丈夫!ご先祖様は俺の味方だ(先祖崇拝)とか。

 

などなど勝手に思っている次第ですが、共通することは、「絶対肯定&ありがとう」です。

 

とにかく、何でもいいから自分なりの「絶対肯定の信念と感謝の気持ち」をもって、固定観念&臆病な脳みそと対峙すれば、「跳べないノミ」「逃げない象」にならないのですむのではないかと考えています。

 

名づけて、「心の受信機を鍛える」作戦です。

 

 

 

 

           

 

 

 

 

塾の先生

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、塾の先生です。

小林正観氏の著書 「笑顔で光って 輝いて」で、塾の先生の悩、”本当の教育とは?”の問いに応え・導いていますので、拝読下さい。







最近、私も お釈迦様の教え(仏教)の本質が分かったような気がしました。(錯覚かもしれないけども?)

 私の考える本質とは、 「自分の思い通りにならないことを受け入れない」から苦しむという考えです

 自分の思い通りにならないことを 受け入ればいいだけなんですが、なかなかそれが出来ないのですね!

 そして、その受け入れることの理想形が ”感謝してすべてを受け入れることなんだ” と考えています。

 


なかなかそんな聖人君子のようにはいかないと思いますが、その「受け入れる教育」を正観氏は、下記で説いてるのではないかと思います。


以下、著書の内容です。



私塾をやっている先生という方が、次のような質問をなさいました。

「私の塾には六十人ほどの生徒がいるのだが、そのうち三十人ほどがほとんど勉強をしない。勉強をしないので、怒ったり怒鳴ったり、声を荒げたりしているけれども、全然言うことを聞かない。

 高校受験の私塾なので、合格率が悪いと父母の評判が悪く、自分の生活にもかかわる。子どもたちを勉強させて、合格率を高めたいのだが、どうすればよいか。

 無理やり勉強をさせないでいいのか。受験に合格させないでいいのか。そういうことも正観さんの本を読んで迷いが生じている。どうしたらいいのだろう」という質問でした。




私の笞えはこういうものでした。

 「その勉強しない三十人は、先生が好きじゃないのではありませんか? 先生が好きだったら子どもは勉強するようになると思います。

 たとえば、私自身の体験で言うと、

中学・高枚時代、その教科の先生を自分白身がとても好きな場合は一所懸命勉強しましたし、先生が好きじゃない場合は、まったくやる気が出ず、成績も下がる一方でした。

先生を好きになるかどうかということで、勉強するかどうかが決まったような気がします」


 そのように、お答えしました。


 三十人の生徒が勉強しないというのは、その生徒たちから先生が好かれていないのではないですか? というのが、私の話でした。
 その先生は、自ら認めて、このように言いました。

「勉強しないからといって、怒鳴ったり、怒ったり、声を荒げたり、そんなことをずっと繰り返しています。

そういうことをやっている自分を好きではないのだけれども、それをやらないと生徒は勉強しない。

親の方からもいろいろ圧力がかかるので、仕方なしにやっています」



 そこで私は、「これからは、こういうふうにしたらどうですか?」という提案をしました。


 「受験に成功すること、高校に合格させることを、塾の目的としない」
 「えっ」と彼は、不思議そうな顔をしました。

 勉強させるためにやっている私塾で、勉強をしないこと、合格させることを狙いとしないこと、それを目標にしようというのです。

ありとあらゆる人が、「えっ」と言い、不思議そうな、怪訝な顔をするのはあたりまえのことです。



 私ははさらに言葉を続けてこう言いました。

 「勉強や合格というものを先生が数え込むのではなくて、あなたの塾で、こういうことを教えたらどうですか。


それは、世の中には、思うようにいかないことがたくさんある。挫折とか失敗とか、一般に言われる現象はたくさんある。そういうものが、これからの人生に待ち構えている。

高枚受験に成功する場合もあるし、失敗する場合もある。

 その先に、今度は何かの運動部で県大会に出られる、出られないとか、予選で敗退するとか、そういうことも多々ある。
大学受験で、思うようにいかないで挫折することもある。好きな人から嫌われて失恋することもある。
希望していた会社に勤めることができなくて、挫折を味わうということだってある。


人生にはいろいろなことがたくさん待ち受けている。

 そういうことを教え込み、そういうときになってもいちいちめげる必要はない。

たくさんの道が残されていて、それを自分が不運だ、不運だと嘆くのではなく、そういうシナリオであり、そういう出来事もあるのだから、それに一喜一憂せず、強く、たくましく、打たれ強く、挫折にめげないで生きていくことも人生なんだ。

むしろ「受験を一所懸命がんばって合格をめざす、そのための勉強を教える塾」というより、『挫折を味わっても絶対にめげない生徒を作る塾』というほうが、本当は重要なのではないか」

 そういうふうに、私はその先生に申し上げました。


 学校の先生も、勉強することや、成績を上げること、受験に成功することばかりを教え込むのではなくて、「人生には挫折が待ち受けている。人生は挫折の連続である。

人生は、思い通りにいかないことが多い。そういう場合にいちいち落ち込まず、たくましい神経と精神力をもって笑顔で淡々と生きていく。それが重要なんだ」ということを教えてみてはどうでしょうか。


 学校教育が、常に勉強を教えるのではなく、挫折をしたり、思い通りにいかなくなったときに、そこでめげないことを教える。

それも、学校、教師、先生の役割かもしれません。

 塾の先生の場合、勉強を一所懸命教え、その通りにならないからといって、怒鳴ったり、怒ったり、声を荒げた結果として、受かった人も受からなかった人も、もうニ度とその塾を訪れて、「先生、最近こんなことがあってね」と、話に来るようなことがないかもしれません。

勉強や受験を必死にやれと教え込んだけれども、卒業生は誰一人として寄り付かないような先生で楽しいでしょうか。

 それとも、勉強や受験に必死にはなっていなかったけれども、

人生には挫折や、思うようにいかないことがたくさんあるのだから、自分の思い通りにならないことがあっても落ち込まないこと。

それが重要なんだと教え込んだ結果、自分の思うようにいかないとき、挫折したときに、「先生、こんな失敗をしちゃって…・」「いま、こんな辛い思いをしているんだよねと言いながら、寄り集ってくる生徒が存在することのほうが、人間として、塾の先生として、楽しいことではないのでしょうか。


 徹底的に教え込んで、誰も寄り付かない先生と、勉強を必死にやれと数え込みはしなかったけれど、挫折や、いちいち一喜一憂しないということを教え込み、温かい目、温かい声で生徒を見守って塾から送り出してあげた先生がいたなら、後者の先生は、一生涯の相談に乗ってくれる人になっているかもしれません。

困ったときや、悲しいときに、先生のところに生徒たちが来てくれるかもしれません。
 教育をするとは、あるいは教育者とは、いったいどちらのことを言うのでしょうか。


 いまのようなことを考えたとき、私塾の先生だけではなく、学校の先生の未来像というのも少し見えてくるような気がします。
 それは、勉強を教え、成績をよくしろというだけの先生ではなくて、人生には挫折があり、思うようにいかないことがたくさんある、ということを教えてあげる先生です。


 学校教育の中で、「よい大学に入ることが人生のすべてなんだぞ、だから大学受験を一所懸命にやれ」と尻を叩く先生よりも、

「思うような大学に入れないこともある。あるいは大学受験に受からないこともある。

そういう場合も、ほかにたくさん生き方があり、あるいはもっと広いものの考え方があり、いくつか受けた中で採ってくれた大学が、自分が行くべきシナリオを書いていた大学かもしれない」というようなことを、教えてあげる。

 そういうことを教えてあげるというよりは、そういうことだけを教えてあげる先生のほうが、実は、先生として、人生の本質的なことを教えているのかもしれません。

 「受験をがんばれ」「希望の大学に入らなければ道は開けないんだぞ」「なんでもっと勉強しないんだ」「なんでもっと努力をしないんだ」そればかりを言い続ける先生より、

「挫析をすることがある。思うようにいかないこともある。

いや、思うようにいかないことが人生の大半なのだから、それにいちいちめげないで、地道に淡々と積み重ねていく。そういう人生のほうが重要なのかもしれない」ということを教え込むことが、本当の教育なのかもしれません。











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