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日本人の”察しと思いやり”

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 リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、会田雄二氏の著書「日本人として言い残しておきたいこと」から、日本人の”察しと思いやり”です。

 会田氏はその著書で、

「日本の社会では、自己主張は共同体の和を乱しかねない危険なものであり、個々は身のほどをわきまえ、慎み深く控え目にしていてこそ、穏やかに平和に生きて行くことができるのだ」と共同体の和を述べて、「その共体同の中で『個は存在』は、”相手のことを察し、思いやる” ことで、個は保たれ、尊重されるのだ」と結んでいます。

日本人の ”相手のことを察し、思いやる心” は日本人の最大の美徳ではないかと思います。

 

 

 

 

以下、著書の内容です。

日本人の個の意識は欧米のとは違う


察しと思いやり。これこそ日本人の心を色濃く染めている特徴である。

照葉樹林帯に根ざしたワンルーム的家屋構造が、日本人のこの心を育てたのだ。

 濃密な共同体意識は、ともすれば個の意識をその中に埋没させがちである。日本人の集団主義をこの共同体意識と結びつけて説く議論がある。その結論は、日本人の個の意識の希薄さ、自我意識の低さに落ち着いて行くのがオチである。


 しかし、日本人は共同体的な集団の中に埋没してしまって、個の意識が希薄か、それともないのだろうか。

そんなことはない。家庭内を無礼講状態において、個我の意識を自由にさせた知恵には欧米以上のものがある。子供たちは、その世界で激しい競争の訓練を受けているのである。

そのような個が育っていかない限り、明治維新後の近代社会を構築できるはずがない。

 日本人の個の意識は、欧米のそれとは現れ方が違うのである。

欧米における個の意識は強烈な自己主張に向かわせる。他に対して攻撃的なスタンスをとることによって、個を際立だせる。前にも述べたが、欧米はそうしなければ生きて行けない社会なのだ。

 そこから、個の意識は攻撃的自己主張と同義語のようにとられている趣がある。だが、それは誤解と言うものだろう。自己主張は、個の意識が強ければ必ずでてくるというものではない。

攻撃的な自己主張をしなくとも、個の意識が保たれるという社会の在り方もあるのだ。

照葉樹林帯の在り方がそうである。

 すでに述べたように確か照葉樹林帯における社会の在り方は自己主張をマイナスとする。

ごく小さな共同体でも、自給自足的に充足している照葉樹林社会では、自己主張は共同の和を乱しかねない危険なものである。人間個々は身のほどをわきまえ、慎み深く控え目にしていてこそ、穏やかに平和に生きて行くことができるのだ。


 照葉樹林帯の文化とヨーロッパやアメリカの基盤となっている乾燥落葉樹林の大平原地帯から生れ成長したそれぞれの文化の違いを無視した議論は、とんでもない間違いをおかしかねない。

 だが、身のほどをわきまえ、自分の分を知り、控え目に慎み深くしている生き方が照葉樹林文化では望ましいものだとすると、強烈な自我は共同体の浸食を受け、個は存在しなくなってしまうのではないか、という懸念はもっともである。

そこを微妙な心の働きによって、個を保ち、保障していくのが、日本の在り方なのである。
 その微妙な心の動きが、察しと思いやりである。相手のことを察し、思いやる。これこそが個を保つ日本人の無比なる知恵といってよい。

 欧米の個と日本の個は、在り方のベクトルがまったく反対なのだ。欧米は自己主張し、外に向かって行くことによって個が保たれ、保障される。

だが日本では、個は外に向かっては行かない。

その必要がないのである。お互いに察し、思いやることによって、個は保たれ、尊重されるのだ。
このこまやかさによって、日本人は集団と個のバランスをとっているのである。
 

個と全体のバランスは、攻撃的個人主義の欧米では相互に主張し、衝突し、妥協に到達するということで保たれる。

日本では言葉に出せば、必ず要求は過剰になる。それのみか、その主張には偽り、不正な自己正当化を必然的に内在させる。

 そういう言葉、言挙げ、いいつのりではなく、より自己の心を拡大する訓練を行うことで解決する。

察し、思いやり、慎み、控え目といった心情を養うことがそれであるとする。

ここに日本人の品性、優美さ、精密さ、織細さといったものが生まれる。


 そして、この点も重大な要因なのだが、

そういう察し、思いやり、包容力というものをまったく欠いた人間によって自分の個が無視、否定されたとき、

私たちはそれを最大の恥と思い、そういう侮辱を与えた人間は、自分の名誉を侵略した、許し得ない人間として、それに戦いを挑むことを悔いたりしないのだ

戦国時代、日本にやってきた宣教師が、日本人は慎み深く、もの静かな人間だが、なによりも名誉を重んじ、それを傷つけられたと思ったら、死をもって対処することにいささかのためらいもない、と口をそろえるのは、そのことをいっているのである。 


今年も靴修理店・店長ブログを応援頂き有難うございました。

皆さま、良いお年をお迎えください。

 

 

「どん底の淵から私を救った母の一言」

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、「どん底の淵から私を救った母の一言」です。

 『致知』1998年8月号特集「命の呼応」より、奥野 博(オークスグループ会長)を救ってくれた母親の一言です。
 以下、致知メルマガの内容です。


【記者:昭和42年、40歳のときに経験された倒産が、今日の奥野会長の土台になっているようですね】

  倒産が土台とは、
  自分の至らなさをさらけ出すようなものですが、
  認めないわけにはいきません。

  戦後軍隊から復員し、商社勤務などを経て、
  兄弟親戚に金を出してもらい、
  事業を興したのは30歳のときでした。

  室内設計の会社です。
  仕事は順風満帆でした。
  私は全国展開を考えて飛び回っていました。

  だが、いつか有頂天になっていたのですね。
  足元に忍び寄っている破綻に気づかずにいたのです。
  それが一挙に口を開いて。


【記者:倒産の原因は?】


「滅びる者は、滅びるようにして滅びる」


  これは今度出した本の書き出しの一行です。

  倒産の原因はいろいろありますが、
  つまるところはこれに尽きるというのが実感です。
  私が滅びるような生き方をしていたのです。

  出資者、債権者、取引先、従業員と、
  倒産が社会に及ぼす迷惑は大きい。
  倒産は経営に携わる者の最大の悪です。

  世間に顔向けができず、私は妻がやっている
  美容院の2階に閉じこもり、
  なぜこういうことになったのか、考え続けました。

  すると、浮かんでくるのは、
  あいつがもう少し金を貸してくれたら、
  あの取引先が手形の期日を延ばしてくれたら、
  あの部長がヘマをやりやがって、
  あの下請けが不渡りを出しやがって、
  といった恨みつらみばかり。

  つまり、私はすべてを他人のせいにして、
  自分で引き受けようとしない
  生き方をしていたのです。

  だが、人間の迷妄の深さは底知れませんね。
  そこにこそ倒産の真因があるのに、
  気づこうとしない。

築き上げた社会的地位、評価、人格が倒産によって
  全否定された悔しさがこみあげてくる。

  すると、他人への恨みつらみで
  血管がはち切れそうになる。
  その渦のなかで堂々めぐりを繰り返す毎日でした。


【記者:しかし、会長はその堂々めぐりの渦から抜け出されましたね】


  いや、何かのきっかけで一気に目覚めたのなら、
  悟りと言えるのでしょうが、凡夫の悲しさで、
  徐々に這い出すしかありませんでした。


【記者:徐々にしろ、這い出すきっかけとなったものは何ですか?】


  やはり母親の言葉ですね。

  父は私が幼いころに死んだのですが、
  その33回忌法要の案内を受けたのは、
  奈落の底に沈んでいるときでした。

  倒産後、実家には顔を出さずにいたのですが、
  法事では行かないわけにいかない。
  行きました。

  案の定、しらじらとした空気が寄せてきました。
  無理もありません。

  そこにいる兄弟や親族は、
  私の頼みに応じて金を用立て、
  迷惑を被った人ばかりなのですから。


【記者:針の莚(むしろ)ですね】


  視線に耐えて隅のほうで小さくなっていたのですが、
  とうとう母のいる仏間に逃げ出してしまいました。


【記者:そのとき、お母さんはおいくつでした?】


  84歳です。

  母が「いまどうしているのか」と聞くので、
「これから絶対失敗しないように、
  なんで失敗したのか徹底的に考えているところなんだ」
  と答えました。

  すると、母が言うのです。


「そんなこと、考えんでもわかる」


 私は聞き返しました。


「何がわかるんだ」


「聞きたいか」


「聞きたい」


「なら、正座せっしゃい」


  威厳に満ちた迫力のある声でした。


(八十四歳のお母さんが)


「倒産したのは会社に愛情がなかったからだ」

  と母は言います。

  心外でした。

  自分のつくった会社です。

  だれよりも愛情を持っていたつもりです。


 母は言いました。


「あんたはみんなにお金を用立ててもらって、
  やすやすと会社をつくった。

  やすやすとできたものに愛情など持てるわけがない。

  母親が子どもを産むには、死ぬほどの苦しみがある。

  だから、子どもが可愛いのだ。

  あんたは逆子で、私を一番苦しめた。
  だから、あんたが一番可愛い」


  母の目に涙が溢れていました。

「あんたは逆子で、私を一番苦しめた。
  だから、あんたが一番可愛い」


  母の言葉が胸に響きました。

  母は私の失態を自分のことのように引き受けて、
  私に身を寄せて悩み苦しんでくれる。
  愛情とはどういうものかが、痛いようにしみてきました。

  このような愛情を私は会社に抱いていただろうか。
  いやなこと、苦しいことはすべて人のせいにしていた
  自分の姿が浮き彫りになってくるようでした。


「わかった。お袋、俺が悪かった」


  私は両手をつきました。

  ついた両手の間に涙がぽとぽととこぼれ落ちました。
  涙を流すなんて、何年ぶりだったでしょうか。
  あの涙は自分というものに
  気づかせてくれるきっかけでした。

脳とのつきあいかた

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、「脳とのつきあいかた」です。

私も脳に興味が有って、取り上げてみました。
私が脳に求めるものは、「上手く脳を騙すには?」というテーマです。



★今日のフォーカスチェンジ♪
----------------------------
脳とのつきあいかた。


獅子は千尋の谷に
我が子を突き落とす

…ということわざが
あるけれど、

もちろんこれは、
実際の話ではないし、

仮にそうだとしても、
いわば通過儀礼と
しての意味でしょう。

つまり、産まれたてで
生存能力の低い状態の
ときには、そんなこと
はしないってこと!


また、泳ぎを教えたかっ
たら、水に放りこめば、

生きようとして
もがいているうちに、
自然におぼえる…

なんてのも、そういう
ケースもまれにあると
いうだけであって、

すべてのひとが
そうはいきません。


何が言いたいかと
いうと、ものごとには
順番があるということ。

ときと場合によって
ショック療法が功を奏す
ることもあるけれど、

基本は、
スモールステップ。


これは、基本的に、
脳のしくみにかなって
いることなんです。

つまり、脳は、知ら
ないことが苦手です。

そう、かなりのビビリ
だと思って、まちがい
ないです。(笑)


だから、脳がこわがら
ないように、少しずつ、
情報を伝えます。

何かを達成したいと
思ったら、その工程を、

できるだけ細かく分割
していくのです。

どこまで分割すればいい
かというと、脳が
「あ、これならできる」
と思えるところまで。


このときに、
「ほかのひとはもっと
 先までいってる」
とか、

「こんなちょっとで
 進歩はあるのかな」
なんて
思わないことです。

脳は、一人ひとり、
そのひと用に
カスタマイズ(笑)され
ているんですから、

ほかのひとの脳と
比較しないことです。


それよりもその
スモールステップに、

しっかりマルを
あげていくんです。

「よし!」
「よっしゃあ!」
「今度もできた!」
「じゃあ、次!」

というふうに、
いっこいっこ、
全部マルです!!


仮にうまくいかなかっ
たと感じたときでも、

「どんまい♪」
「大丈夫だよ~」
「まずは、トライした
 自分にマル!」

そんなふうに、はげま
してあげるんです。

そしてもしも、トライ
する内容がおおきいよう
なら、さらに細分化すれ
ばいいだけなんです。


できない自分をジャッジ
すると、脳は、その

ジャッジを、強い印象で
受け止めて、インプット
してしまいます。

脳は、頭はいいけど、
ちょっとおばかさんな
ところがあって、(笑)

強くインプットした
ものをとりこんでしま
うくせがあるんです。


だから、うまく
いかないことを責めたり
批判したりすると、

その傾向がますます強く
なっちゃうのです。

よくしようとして、
結果的に、逆効果の
ことをやってしまって
いるのです。


だから、どんなことも、
オールOK!

ただただみとめて、
あとは、
反復練習あるのみ!

これが
脳とのつきあいかた。

それは、もう私の確信
であり、結論です。


そのうえで、脳が
「できる」「やれる」
と思いはじめたら、

そのときは、ちょっと
上の課題にもトライ
してみていいんです。

「できるんだろうか」
という目標にだって、
チャレンジしてみて
いいんです。

脳が、そこまで前向き
(前頭葉活性!)に
なってるときなら、

軽いプレッシャーは、
かえって、意欲にも
つながるんです。


今日のメッセージは、
フォーカスチェンジの
基本中の基本。

でも、このことが
なかなか理解されない
なあと思うので、

あらためて
書いてみました。


あなたのスモール
ステップを大切に!

あなたらしく、
すすんでいってみて
ください。

応援してますよ!

君がそのままで輝く場所がある!

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、ひすいこたろうの名言セラピーより「ひすい式伝え方講座」、

君がそのままで輝く場所があるんだ!です。

 人は誰でもピンチの時もあればチャンスの時もあり、短所もあり長所もあります。

考える視点を少し変えるだけでピンチがチャンスになったり、短所が長所になったりしますが、そのことに気づいてない場合やそんな発想をもってない場合が多々あるんじゃないかと思う今日この頃です。

そんなことを気付かせてくれるエピソードです。

 

 

 

まったく売れなかった暖房機が

 キャチコピーを変えたら

 なんと爆発的な大ヒット商品に!


さて、そのキャチコピーとは?

 


いまや人気の暖房機デロンギヒーターですが、

 構造的にあまり温かくならないヒーターなので、

 日本では発売当初まったく売れませんでした。


もともとヨーロッパで補助暖房として使われていたのですが
日本には、主力の暖房で温めてから補助暖房にバトンタッチするという考え方が
80年代当時、まだまだ浸透してなかったからです。

 

 通販会社の「通販生活」でも展開してみたものの
 まったく売れなかったそうです。

 

 暖房機デロンギヒーターが売れなかった
致命的な欠点は

温風を出さないので、あまり温かくならない。

 

でも、この致命的な欠点をある角度から見たら……

爆発的なヒット商品に育ったのです。


 以来、27年不動の人気商品になっているので、売上げはおそらく数百億でしょう。

とにかく爆発的な稼ぎ頭の商品になってしまったわけです。

 

 温風を出さないので、あまり温かくならない。

この致命的な欠点が長所になる場所を探し当てたのです。

 

その場所
わかった?

 


そう。

 

 寝室用暖房機として、

 「寝室に置いておくと、ひと晩中ホテルに泊まっているような快適さ」としてキャッチを変えたら、

すべての短所が長所に切り替わったのです。

あまり温かくならないという暖房機としては致命的な短所は
寝室で使う場合は、「ひと晩中、おだやかな暖かさで眠れる」という長所に切り替わったのです。

 「温風が出ない」は、
 「寝ていてものどがいたくならない」という長所に切り替わったのです。

エアコンは温風で喉がいたくなるし、
 石油ヒータやガスヒーターは
換気の必要性やにおいの面で寝室用としてアウトだからです。

 


 暖房機デロンギヒーターが変わったわけじゃない。
 使う場所を変えただけです。

 

 

 


そうなんだ。

そういうことなんだ。


 君の短所はね


場所を変えたら、


すべて長所に反転する!

 

ある講演会で、僕の弟が子どもの頃の僕のことをこう話してくれました。


 「にいちゃん(弟は僕をこうよびます)は、
  子どもの頃、ほんと神経質な男でした。
  にいちゃんの部屋にあるマンガを勝手に読んだら、
  翌日、『お前よんだだろ?』ってめちゃめちゃ叱られたことがあるんです。
なんで読んだのがバレたんだろう?
って思ったら、
にいちゃんはマンガを置いておく場所にうっすら線をひいてあって、
そこからちょっとでも移動したらわかるように仕掛けがしてあったんです」


こんな神経質な男イヤでしょ?(笑)
キモいでしょ?
 絶対、嫌われるでしょ?


うん。だからね、僕、まったくモテませんでした。

でも、裏をかえせば、僕はそれほど本を大切にしてたってことです。
 本のことなら、どこまでも神経質になれるんです。
だって本はめちゃめちゃ好きだから。
めちゃめちゃ大切だから。


だから、本に関わる仕事をする場所に立ててから
僕の短所はぐるんぐるん長所に反転したんです。

 

================================
というわけで……3秒セラピー

短所に悩むなんて時間の無駄だぜ。

 短所が生きる場所に
自ら飛び込めばいい。
================================


君がそのままで輝く場所があるんだ。
 世界は君が考えてるほど小さくないんだぜ。


ひすいこたろうでした(^^♪

「お日和(ひより)もらい」

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、ひすいこたろうの名言セラピーより、「お日和(ひより)もらい」です。

 新潟湊には「お日和(ひより)もらい」という習わしがありました。

「お日和もらい」とは、相手の幸せを祈ることです。

坂本龍馬が成し遂げたかったことを100年も前に実現した男がいる……。

その名は、涌井藤四郎(わくいとうしろう)という男です。

この新潟湊騒動で涌井藤四郎(わくいとうしろう)は、わずか2ヵ月とはいえ、一般の町民が長岡藩の支配を排除し、みずらの手で町の自治を整然とおこなった。

これは、江戸時代を通じてわが国唯一の例であり、しかも、パリコミューンの百年も前に、 市民による自治政府が誕生していたことになります。


 世界に先駆けること100年、 日本人はすでに レボリューションの旗を掲げていたんです!

 

以下、その内容です。

 


江戸時代、

 新潟湊(みなと)は
大阪と北海道を結ぶ寄港地としてにぎわい
北国第一の湊町としてにぎわっていました。

しかし、8代将軍徳川吉宗が主導する
享保の改革(1716年~1745年)による新田開発に伴い
阿賀川に河川工事をすることになります。
これに対して、新潟湊の商人たちは大反対。
 新潟湊に注ぎ込む川の水が減り、大きな船が入りにくくなることを恐れたからです。
この恐れは、現実のものとなってしまいます。
それまで活気に溢れていた新潟湊は、次第にさびれていくことになるのです。

 新潟湊は出口のない不況に苦しむようになりました。

そして、明和5年(1768年)
 前年の不作により米価も高騰し、このままでは餓死する者も現れるという状況になっていました。

ところが、藩はそんな状況にも容赦をせずに、
さらなる臨時税、多額の御用金を納めるよう要求してきたのです。
 無茶にもほどがある。

でも、これが封建時代です。

 当時、殿様は絶対なんです。
どこの国だって、王様がルールブックで、
 絶対的な存在だったのです。
 市民が政治に口をだすなんて、まだ世界中どこにもない時代。

 

 呉服屋を営む当時47歳の
涌井藤四郎(わくいとうしろう)は、
そんな状況を憂いていました。


 彼が学問を習った竹内式部先生はこう言っていた。

 

 「今の世にできぬことだと言い捨て置いたならば、
  やがて天運によき時を得たとして正道がおこなわれることがあろうか。
  いや、あるはずがない。
  たとえ、それがどんなに難しくとも、
  人たる者のすべきをせねばならぬ。
  それが義の心というもの。
  世の中が悪くなっていくのを、
  手をこまねいて見過ごしにしてよいものかッ」


これは、
その信念を一切曲げずに幕府と戦い
非業の死を遂げた竹内先生の言葉です。


 涌井藤四郎はずっと問うていた。

 

どう生きればいいのか……

いま、何をすべきなのか……


藤四郎は、ひとまず
景気がよくなるまで、臨時税を待ってもらえるよう連判状をつくりました。
それに賛同してくれる仲間がひとりふたり、あらわれだし
最終的に71名の血判署名をした連判状ができあがりました。

さらに、藤四郎は、町民すべてが納得して町政を任せられる町役人をみんなで選ぶべきだと発想します。


 役人の公選です。


これは、封建時代ではありえない発想です。
 後に、坂本龍馬が船中八策の第二条目に、「万機宜しく公議に決すべき事」
を掲げますが、その約100年前の
1768年の時点でやろうとしたのです。

さらに藤四郎は、
 税金は1年おきにして、間の1年は、お金に困ってる人に貸し出して
町の再興をはかるという案を盛り込みました。

しかし、密告がいて、このことは奉行所に早々にバレてしまうのです。

 藩は慌てて藤四郎を逮捕し、牢獄に入れてしまいます。

さらに集会に参加した町民たちが次々に藩に呼び出されて
盛り上がってきた商人たちの狼煙は消えかけていったように見えました。


そんなある日、
 日和山のちかくの本明寺で打ち鳴らされた鐘の音を合図に、
 町人たちが続々と日和山へ集まってきました。
その数、ざっと五百人。


 命をかけて
皆のために立ち上がった藤四郎に続こうとした
町の人たちの一揆です。

 奉行所と一戦をはさむことになりますが
最後は、町の人たちの気迫にひるんだ役人たちは逃げ出します。

そして、一揆がこれ以上広がるのを恐れて、
 牢につながれていた涌井藤四郎は釈放されます。

 

ここから、
 新潟湊の人々は藤四郎を町民の代表とする体制を整え、
 秩序の回復をはかり、話し合いによって、町政が取り仕切られることになったのです。

なんと、藤四郎たち町民の手による自治が2ヵ月おこなわれたのです。

 

 藤四郎は、
 新潟63町すべての町から代表者2名ずつを集めて会合をひらき
藩から呼び出されても
町中一同でやむを得ずやったこと。
そして詳細は、藤四郎に聞くように答えてもらいたいと伝えました。

この騒動のすべての責任は、
 「俺が背負う」
という藤四郎の覚悟です。

そして、自警団をつくり町の治安を安定させ、
 米価の高騰で苦しんでいた者たちを救うために米問屋に米の値下げを断行。
さらに、その他の品も値下げさせます。
また、質屋を5軒新設し誰もがお金を借りやすくしました。

これで生きるか死ぬかの瀬戸際にあった町民たちを救ったのです。


 藤四郎は、
 坂本龍馬が成し遂げたかったことを
100年も前に実現したのです。

 


とはいえ、このあと、
 藤四郎は、藩から呼び出されるのですが、
みなの反対を押しきり自ら堂々と藩に出向きます。

 長い取り調べ期間を得て、
 結果は……

斬首。

 

 首を斬られてしまいます……。

 

 

 作家の火坂雅志さんはこの新潟湊騒動についてこう語っています。

 

 「新潟湊騒動は日本史上の一つの奇跡と言っても過言ではない。
 一般に、一揆というのは打ちこわしのみで終わるのだが、
この新潟湊騒動は、わずか2ヵ月とはいえ、一般の町民が長岡藩の支配を排除し、
みずらの手で町の自治を整然とおこなった。
これは、江戸時代を通じてわが国唯一の例であり、
しかも、パリコミューンの百年も前に、
 市民による自治政府が誕生していたことになる」


 世界に先駆けること100年、
 日本人はすでに
 レボリューションの旗を掲げていたんだ。

 

このとき立ち上がった人々を
明和義人(明和の時代に生きた義の人)として新潟の人々は語り継ぎ、
 藤四郎は、新潟古町の愛宕神社に祀られています。

 

 


 新潟湊には「お日和(ひより)もらい」という習わしがありました。

 「お日和もらい」とは、
 相手の幸せを祈ることです。

 海が何日も荒れたとき、神社に行き、
 「どうぞ、天気が回復し、船出ができる日和にして下さいますように」と祈願する習わしです。

 新潟湊の商人たちは、
 天気が回復しない方が潤うんです。
その分、長く新潟湊に滞在してくれるからです。
でも、相手の立場になって思いやることが
長い目で見れば町の反映になつながるとわかっているのです。

 相手の幸せが
自分の幸せにつながっている。

それが、

パリ・コミューンの百年も前に、
 世界に先駆けて、
 市民による自治政府が誕生した
奇跡の地NIIGATAに根付いていた精神です。

 

ひすいこたろうでした(^^♪
hisuikotaro@hotmail.co.jp

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