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ありがとうは魔法の言葉 その②

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リペアーショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、小林正観氏の著書 「100%幸せな1%の人々」から ”ありがとうは魔法の言葉 その②”です。

医者からは、もう手の打ちようがないので、自宅で残りの目々を過ごすように言われました末期がんの
女性が10万回のありがとうで奇跡を起こした話です。


すべての人にこの方程式が当てはまるのかわかりませんが、「ありがとう」という言葉には、ものすごい力があるらしい、ということが証明された1つの事件でした。



以下、その内容です・

私は、超常現象、超能力を研究してきて、今一番おもしろいと感じているのが、
[ありがとうの不思議]というものです。


 あるところでの話なのですが、30代半ばくらいの女性と60代くらいの女性が、
講演会場の受付で私を待ち受けていたことがあります。


 若い女性は娘さんで、私を見つけるなり[この人が小林さんよ]と母親に紹介しました。

すると母親は、このように言いました。
 「ああ、小林さんですか。お初にお目にかかります。命を助けてくださいまして、ありがとうございました」

 初対面なのに[命を助けていただいて]と言われ、私は一瞬戸惑いました。

詳しく話をうかがったところ、その女性が話されたのは次のようなことでした。

 ある時期、壁や机につかまらなければ立ち上がれないほど体が弱ってしまったことがあったのだそうです。

医者に診てもらったところ、結果は末期ガン。
医者からは、もう手の打ちようがないので、自宅で残りの目々を過ごすように言われました。


その宣告を受けたときに、暗澹たる気持ちになったというのですが、1つだけ光明がありました。

その宣告を受けるー週間ほど前に、娘さんから次のような話を聞いていたのです。



 「小林正観さんという人がいて、その人から聞いた話の中に『ありがとう』の話があった。

心を込めなくてもいいから『ありがとう』を2万5000回言うと、なぜか涙が出てくる。

その涙が出た後で、再び『ありがとういを言おうとすると、心の底から感謝の念が湧いてきて、『ありがとう』の言葉が出てくる。

気持ちを込めて『あリがとう』をあと2万5000回言うと、突然、自分にとって嬉しく、楽しく、幸せな奇跡が起き始めるらしい」 という話です。

 そして母親は決意します。

「ほかに手の打ちようがないのであれば、奇跡に頼ってみよう。

1日1000回の『ありがとうを言って、100日問(合計10万回)続ければ、いくらなんでも5万回を数え問違えることはないだろう」と。


 30日ほどたって、[ありがとう]を3万回ほど言い終わったところで、自分の足で立ち、歩けるようになりました。

 2ヵ月後、「ありがとう」を6万回言っているうちに、となり近所の人から「顔色がよくなりましたね」と言われるようになりました。

 3ヵ月がたち、「ありがとう」が9万回を超えたあたりで体重が増えて、顔もふっくらしてきました。

「これはおかしい。どうも変調をきたしているようだ」ということで、その母親はさらに10日間、合計10万回の「ありがとう」を言い、それからもう一度病院の検査に行きました。

 そして、もたらされた結果は、「がん細胞が全身からすべて消えている」 というものでした。

末期ガンが治ってしまったのです。


 すべての人にこの方程式が当てはまるのかわかりませんが、「ありがとう」という言葉には、ものすごい力があるらしい、ということが証明された1つの事件でした。

 


どうですか!

信じるか信じないかはあなた次第ですが、

私は「ありがとう」には不思議な力があるのだと確信しています。

「ありがとう」の活用を意識しまし出来事でした。

ありがとうは魔法の言葉

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リペアーショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、小林正観氏の著書100%幸せな1%の人々から「ありがとうは魔法の言葉」です。

 

 

 


正観氏は自身の体験から、「ありがとう」と言う言葉を繰り返すと不思議な現象(良い出来事)が起こるので
「ありがとうは魔法の言葉」であると考えています。

もしかすると、「ありがとう」という言葉には、ものの構造を変える力、宇宙構造を変える力、呪文のような力があるのかもしれないと言っています。

我々も体験的に、ありがとうという言葉を使えば人間関係も上手くいくし、感謝の気持ちも表現できて、気運が上昇する言葉と分かっているのではないかと思います。

ただ正観さんのように、意識していないだけではないかと思います。


以下、本の内容です。


ある男性が足を骨折、全治3ヵ月と診断されました。

複雑骨折ということで体をねじることができず、天丼を見たまま同じ姿勢で過ごさねばなりませんでした。
 そんなとき、同室だった人が毎日『ありがとう』を100回言うといい」とアドバイスしてくれたのだそうです。

 「どうせすることがない。何もできない状態なんだから、やってみるか」という気になり、「ヒマつぶしに、心を込めない状態」でやり始めたそうです。

 そうしたら、不思議なことに、足がどんどんよくなってきたのだとか。

 「はじめは馬鹿にしていた」のが、ついには「治りたいて一心で」心を込めて「祈るような気持ちで」口にするようになりました。

 結果としては「全治3ヵ月」が、なんと3分の1の1カ月で治ったというのです。

事故や病気で体が傷んだとき、あるいは故障したとき「心を込めなくてもいい」から「あリがとう」を毎日何百回も言っていると、その治リが早くなるらしい。

 もしかすると、「ありがとう」という言葉には、ものの構造を変える力、宇宙構造を変える力、呪文のような力があるのかもしれません。

 「心を込める必要がない。言葉それだけで、ものすごいパワーがある」らしい。

 そう考えたら、この「ありがとう」は、ものすごい広がりを持ってくるのです。

 たとえば、「風邪をひかないでいてくれて、ありがとう」と何百回も口にしてみる。
そうすることによって、風邪をひきにくい体ができるのかもしれません。

 たまたま風邪をひいてしまったら「治ってくれてありがとう」を何百回も言う。本当に治りが早くなるかもしれないのです。             ・ゝ

 「なぜ」という質問には、私も上手に答えることができません。

ただ、いくつかの実例によって、「ありがとう」という言葉は魔法の言葉なのかもしれないと思うように

なりました。


何か解決したい間題ができたら、ぜひ「ありがとう」をたくさん言ってみてください。




神様から与えられた「権利と義務」

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、小林正観氏の著書「鳴かなくてもいいホトトギ」より、神様から与えられた「権利と義務」です。


抜粋して紹介します。


 喜ぱれるというのも、感謝をして喜ばれるというのが、人間にとっての一番の喜びです。

 喜ばれると嬉しいということは、言葉を変えて言うと、感謝をされると、これ以上ない喜びである、ということに置き換えることができます。


 人間は、神によってたった1つの義務を与えられました。
 それは生まれ変わること。これが唯一の義務。

これに対して唯一の権利、ほかの動物には与えられていないたった1つの権利。

これは感謝ができることでした。

 ですからヽせっかく動物として、生物として、1種類だけ、神によって「感謝」をいただいたのですから、感謝というアイテムを、道具をたくさん使いこなしたほうが、人生をより豊かなものにしてくれると思います。

感謝することは、実は権利なのです。

 義務の話に戻ると、

私たちは、いろんなものを自分の意志として、自分のシナリオに書き込みました。


 ですから、それらいろんな出来事が起きていることを一喜一憂せず、ああだこうだ言わず、評価評論せず、淡々と笑顔でこなしていく。

これに尽きます。

 ああじや、こうじゃと言わないこと。

不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句を言わないで、ただ淡々と黙々とこなしていくこと。

それに尽きるのです。
 
努力や頑張りはいりません。

努力や頑張りをする人ほど、もしかすると愚痴や泣き言が多いのかもしれません。

 つべこべ言わず、 ああじゃ、こうじゃ言わず、

 努力も頑張りも言わず、それと同時にあれこれを言わない。
 愚痴や泣き言を言わない。
 評価評論をしないで笑顔で淡々と生きてゆく。

 これは人間にとって、とても重要な生き方のようです。

「母との葛藤」

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、「母との葛藤」です。


致知メルマガ配信、『致知』2007年2月号致知随想より、藤原咲子(高校教師・エッセイスト)さんの「母との葛藤」です。


以下、その内容です。
              



私は昭和二十年、終戦の一か月前に
満州国新京市(現在の中国長春市)で生まれました。

終戦後、父が捕虜収容所に送られたため、
母は数多くの死体が横たわる中、
一人で幼い二人の兄の手を引き、
生まれたばかりの私をリュックの中に隠して、
命からがら引き揚げ船に乗り込んだといいます。

当然私にその時の記憶があるわけではありませんが、
ほどけかけたリュックの隙間から見えた北極星と、
引き揚げの異様な空気はなぜか鮮明に覚えています。

壮絶な引き揚げで衰弱した母は、帰国後病の床に臥しました。
死病と恐れられた肺結核でしたから、
子どもたちは近寄ることを許されません。

事情のわからない私は、
ただただ母の温かい愛情が欲しくて、
窓越しに母の様子を見ていました。

幼稚園から帰った私に「咲子、おいで」と言って、
木綿の布団をそっと開けてくれる母の姿を
どれだけ夢見たでしょうか。

病との闘いに奇跡的に打ち勝った母は、
やがてその壮絶な引き揚げ体験記
『流れる星は生きている』を書き上げ、
作家藤原ていとして一歩を踏み出しました。

だがそこにいたのは私がずっと待ち続けてきた
温かくて優しい母ではありませんでした。

幼子三人の命を失うことなく
引き揚げという苦境を乗り越え、
成功者として社会から讃えられる母だったのです。


私は兄たちよりずっと厳しく育てられました。

少しでも甘えようものなら


「あんなに苦労して連れて帰ったのに、
いつまでもわがまま言うんじゃないの」


という言葉が返ってきました。


お母さん、どうしてそんなに怒るの、私が嫌いなの?
引き揚げ時の栄養失調で多少の言葉の遅れがあり、
友達とうまく話すこともできず、
学力でも兄たちに追いつけない私は、
いつの間にかすべてに自信を失っていました。

と同時に、私が生まれたことが母には
不満だったのではないかと、
様々な憶測が頭の中をよぎるようになりました。


子どもの頃の私の楽しみは何よりも読書でした。

図書室や家庭の書棚にあるいろいろな本を引っ張り出しては、
本の世界に浸りました。

しかし、母の『流れる星は生きている』だけは、
どうしても手に取る勇気がありませんでした。
幼い頃、一体何があったのか。
その疑問が解かれるのが恐かったからです。


しかし、中学受験が間近に迫った十二歳の頃、
そのストレスから逃げるように
『流れる星は生きている』を読んでいる自分に気付きました。

そしてその本の中で私のことを描写している
数行を発見したのです。


「咲子が生きていることが、必ずしも幸福とは限らない」


「咲子はまだ生きていた」


ああ、お母さんはやっぱり私を愛していなかった……。
一人の赤ん坊を犠牲にし、
二人の兄を生かそうとしていたのです。

これを読んだ時はしばらく声を失い、
呻き声をあげていました。

たった数行が母の私への不信を生み出し、
それから五十年もの間、母への反抗が続きました。


私は火がついたように母に食ってかかり、
母を責めるようになりました。

母が涙を流し、


「あんたなんか連れてこなきゃよかった」


と言うまで諍いは終わりませんでした。


三年前の平成十五年、私は整理をしていた書庫から
偶然にも『流れる……』の初版本を見つけました。

約五十年ぶりに茶色の木皮の紋様のカバーを開くと、
そこには「咲子へ」という見慣れた母の字体がありました。



「お前はほんとうに赤ちゃんでした。
 早く大きくなってこの本を読んで頂戴、
 ほんとうによく大きくなってくれました。母」



現在と変わらぬ美しい字体で書かれたこの一行は、
強く閉ざした私の心をひと突きにし、
私の中の何かが崩れ落ちるのを感じました。


十二歳の時に目に留まった
「まだ咲子は生きていた」の一文は
母の落胆ではなく、劣悪な状況下で
健気に生きていた私への感動だったのだと
この時ようやく気付いたのです。


母に対する気持ちが和らぎ始めたのはそれからです。

そんな母もいま米寿を迎え、
数年前から認知症に侵されています。
病状が進むにつれて母は穏やかになり、
反発していた私にも優しく接するようになりました。

病が進み始めた頃、伊豆の別荘に母と何度も行きました。
駿河湾と富士山が見渡せる場所に車を停め、
漁船の走る海を母と眺めました。


私は一歩後ろへ下がり、母の病状を観察するかのように


「ほら、イカ釣り漁船が行くねぇ」


と話しかけました。すると母は、


「バカだねぇ、お前は。あれは引き揚げ船だよ」


と力強い眼差しで海を見ているのです。

この時の母の横顔に思わず私は息をのみこんで、
涙を抑えることができませんでした。

たった一人で幼子三人と日本に引き揚げた時の母の孤独感、
人に言えない苦労が刻まれた横顔に強い寂寥感を感じたのです。

その寂寥感は私の中のそれと重なり合い、
気がつくと私は母をこの上なく
いとおしく思うようになっていました。


人が人を許し、人に優しくすることを知った時、
初めて人は心の静まりの中に真実が見えてくる――。

母はそれを身をもって私に伝えてくれた気がします。
認知症は私にじっくり母と向き合うきっかけを
与えてくれました。

私を一人前にするために厳しく育ててくれた母に、
いま心から感謝しています。

  「努力の上に辛抱という棒を立てろ」

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、致知メルマガより 「努力の上に辛抱という棒を立てろ」です。

桂小金治さん88歳、逝去。


 落語家、俳優、タレントと様々な顔を持ち、ワイドショーの司会や映画、テレビドラマなど お茶の間の人気者として幅広く活躍されました。


 生前、桂小金治さんが『致知』に登場され、そこで語った「人生を支えた言葉」とは――。

 


この頃(10歳頃)、
 僕にとって忘れられない出来事があります。


ある日、友達の家に行ったらハーモニカがあって、
 吹いてみたらすごく上手に演奏できたんです。


 無理だと知りつつも、家に帰って
 ハーモニカを買ってくれと親父にせがんでみた。


すると親父は、「いい音ならこれで出せ」と
神棚の榊(さかき)の葉を1枚取って、
それで「ふるさと」を吹いたんです。


あまりの音色のよさに
僕は思わず聞き惚れてしまった。


もちろん、親父は
吹き方など教えてはくれません。


 「俺にできておまえにできないわけがない」


そう言われて学校の行き帰り、
 葉っぱをむしっては
一人で草笛を練習しました。


だけど、どんなに頑張ってみても
一向に音は出ない。


 諦めて数日でやめてしまいました。


これを知った親父がある日、


 「おまえ悔しくないのか。
  俺は吹けるがおまえは吹けない。
  おまえは俺に負けたんだぞ」


と僕を一喝しました。
 続けて、


 「一念発起は誰でもする。
  実行、努力までならみんなする。
  そこでやめたらドングリの背比べで終わりなんだ。

  一歩抜きん出るには
 努力の上に辛抱という棒を立てるんだよ。
  この棒に花が咲くんだ」


と。その言葉に触発されて
僕は来る日も来る日も練習を続けました。


そうやって何とかメロディーが
奏でられるようになったんです。


 草笛が吹けるようになった日、
さっそく親父の前で披露しました。


 得意満面の僕を見て
親父は言いました。


 「偉そうな顔するなよ。
  何か一つのことができるようになった時、
  自分一人の手柄と思うな。

  世間の皆様のお力添えと感謝しなさい。
  錐(きり)だってそうじゃないか。
  片手で錐は揉めぬ」


 努力することに加えて、
 人様への感謝の気持ちが生きていく上で
 どれだけ大切かということを、
この時、親父に気づかせてもらったんです。


 翌朝、目を覚ましたら
枕元に新聞紙に包んだ
細長いものがある。


 開けて見たらハーモニカでした。


 喜び勇んで親父のところに駆けつけると、


 「努力の上の辛抱を立てたんだろう。
  花が咲くのは当たりめえだよ」


 子ども心にこんなに嬉しい言葉はありません。
あまりに嬉しいものだから、お袋にも話したんです。


するとお袋は、


 「ハーモニカは3日も前に買ってあったんだよ。
  お父ちゃんが言っていた。
  あの子はきっと草笛が吹けるようになるからってね」


 僕の目から大粒の涙が流れ落ちました。


いまでもこの時の心の震えるような感動は、
 色あせることなく心に鮮明に焼きついています。

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