「競わない・比べない・争わない」 その③

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リペアーショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、小林正観氏の著書「100%幸せな1%の人々」から ”競わない・比べない・争わない」その③” です。




人と競い合って目的を果たす生き方しか知らなかった正観さんに、娘たちは、新しい価値観を宇宙から持ってきてくれた話です。



30歳で結婚して、3年間子どもができなかったのですが、
3年経ってやっとできた長女が知的障害児でした。
 その子が4つぐらいのときのこと。

 ひとつ下に妹がいるのですが、妹が寄ってきて、
上の娘が手に持って遊んでいるおもちやを取ってしまうのです。

上の娘は染色体の異常で、筋力が人の3分の1ぐらいしかないですから、
力が弱いのです。ものを引っぱり合うとすぐ放してしまう。

 下の娘がそれを取って遊び始めると、上の娘はおもちやの山のところに行って、
次のおもちやを持ってきてー人で遊び始めます。

そうしたら、また下の娘が近づいてきて、それをパツと取るのです。

 ここで、下の娘の名誉のために言っておきますが、
彼女は自我が芽生えはじめたころで、お姉ちやんの持っているものに興昧を示しているだけです。

 上の娘は、妹におもちやを取られても、取り返しに行ったり、「パパ、ママ何とかして」と訴えたりしない。
またおもちやの山に行って、新しいのを取ってくるだけでした。


 すると、下の娘が寄っていって、もうー回引っぱる。また取られる。

3回同じことをやって、4回目も下の娘が近づいていくのですが、
4回目には、下の娘は引っぱらなかったのです。


 そして、一緒にそのおもちゃで遊び始めたのです。

これは、私が親から教えられた価値観とはまったく違うものでした。

長女は、誰とも争っていない。
 毎回引っぱっても、全然抵抗がなくて、全部簡単に取れるというのが3回続くと、
4回目は、もう引っぱっても無意味だと下の娘は思ったのでしょう。

いくらやっても同じなのですから。
 下の娘は、それを言葉で言われなくても悟り。

最後は、2人で一緒に遊び始めた。
そういうシーンを私はずっと見てきたのです。

 つまり長女は、頑張らないのです。

ただ、取られたら取られたままで、次に自分は「何を持ってこようか」と考えるだけ。
取られたことについて、不機嫌になってもいない。


ニコニコして遊んでいるだけ。

 戦わないで、争わないでいると、ついには相手は一緒に遊ぶことになる。
この方法は簡単だし、楽しいし、敵を作らない。それどころか味方にしてしまうのです。

 彼女の生き方は「無敵」でした。


 [無敵]というのは、敵を全部なぎ倒した無敵なのか。

 いいえ、「敵が無い」ことが「無敵」の本質。

争いに来た子を全部味方にしでしまうのが「無徹」なのです。

 私たちが、小・中・高・大学で教え込まれた価値観は、人と競い合って、抜きん出ることでしたが、彼女はまったく違います。


今、私はたくさんの方から人生相談を受けますが、
「もう、頑張らなくてもいいんじゃないですか。これからは、自分にも他人にも甘く生きることにしませんか?」と言えるようになりました。

人と競い合って目的を果たす生き方しか知らなかった私に、娘たちは、新しい価値観を宇宙から持ってきてくれたのです。



「癌もロックンロールだ!」忌野 清志郎

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、ひすいこたろう氏の名言セラピーより 「癌もロックンロールだ!」忌野 清志郎です。

KING OF ROCK
忌野 清志郎

 清志郎が高校3年生のとき、
 担任の先生から
息が止まるかのような
衝撃的な発言が発せられた。

 

 「自分が本当にやりたいことがあるなら、結婚するな」

 

 先生の目は真剣だった。

その言葉が耳から離れず、
 清志郎は独身を貫くことにした。


なぜなら、本当にやりたいことがあるからだ!


その言葉を聞いてから
20年後、その先生が
初めてライブに来てくれた。


そのときのことを伝えると、
 先生はこういったという。

 


 「君はもういいんだよ」

 

 

えええええええええええええええええええ。いいの?(笑)


それで、不遇時代より交際を続けていた彼女と晴れて結婚したといいます。


しかしそんな清志郎に
2006年
ガンが見つかる。

 予定されていたライブはすべてキャンセルとなり
清志郎は自身のホームページで
 こうメッセージを寄せた。


 「何事も人生経験と考え、
  この新しいブルースを楽しむような気持ちで治療に専念できればと思います」

 

 清志郎は

「ガン」を

「新しいブルース」と表現した。


そして
2008年
 清志郎は復活する。

 「忌野 清志郎 完全復活祭 日本武道館」を開催。


 場内が暗転すると
 そのスクリーンには
抗がん剤の副作用で丸坊主になった清志郎の姿が。
 会場騒然。

しかし、徐々に髪の毛が生えていく姿が
 スライド写真でスクリーンに映し出される。

そして、
 髪の毛をいつものように逆立てた清志郎がベッドから
 むくっと起き上がり、こう言う。


 「2年間よく寝たぜ」


ここから伝説のライブが始まる。


ところが、このあと、
ガンの転移が見つかり
清志郎は再び療養生活に入ることになります。

そのときの清志郎からのメッセージはこうだった。


 「心配はしないでくれ。
  このくらいのことは覚悟はしてたんでぜんぜんへこんでないから。
  ブルースはまだまだ続いているというわけだ。(中略)
  すぐに帰ってくるから応援してくれ!
  もう一度言おう。
  夢を忘れずに」

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=YZ-oj3DP1q4

 


やりたいことがあるなら、
それをやるんだ。
それが君が生まれてきた意味だ。

もう一度言おう。
 夢を忘れずに。

 


 「癌もロックンロールだ」忌野 清志郎

 


ひすいここたろう

「競わない・比べない・争わない」  の②

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リペアーショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、小林正観氏の著書「100%幸せな1%の人々」より 、”競わない・比べない・争わない その②” です。

 


日本人はもともと「草食動物」でした。

 「草食動物」はとてもやさしく、目の前に同種類のものがあらわれると、「お前、あっちに行け」と追い払うことはせず、すべて仲間にしていきます。

 一方、西洋の人々は「肉食動物」です。
 「肉食動物」は、同種類のものが目の前にあらわれると、必ず追い払います。
戦って争って、縄張りを守ろうとします。

 「肉食動物」の人たちの教育の基本は「競うこと」、「抜きん出ること」。

そうしなければ生きていけないという結論でした。

 

そして、その価値観を、明治政府が日本に持ち込んでしまったわけです。


 「肉食動物」の価値観が持ち込まれ、本来「草食動物」だった日本人の中に、ものすごく大きなひずみが生まれました。


 たとえば、日本人の体に、「競い今うこと」、「比べ合うこと」が組み込まれた結果、日本人の多くは、「ガン」を患うようになったらしいです。

 日本人はもともと、比べ合って生きる動物ではなくて、「和」を大事にする国民でした。

 とてもおとなしくて、同種のものを仲問にして、おだやかに生きていく性格や魂が集まる国であり、平和の「和」と書いて、それが国の名「大和(ヤマト)」でした。

数字をベースに、数字を追いかけている仕事をしている人は、ガンになりやすいといわれています。

日本人は、競い合ったり・、比べ合ったり、数字に左右される生活には向いていないので、そればかり追いかけていると、やがて体が嫌がってしまい「死ぬ方向」に動くようです。

 数宇に支配されないような「私」を創れば、病気に支配されなくなります。

 数字を気にしないで、競わず争わず、ただただ頼まれごとをやり、喜ばれるように生きていればいいらしい。        

 「100万円貯めたら幸せになれるのではないか」と思って一生懸命貯める。

でも、100万円貯めたあとに、今度は1000万円持っている人がいることに気がつきます。

 そこで、「1000万円貯めればもっと幸せになれるのではないか」と思って1000万円貯めようと努力する。

ところが、1000万円貯まっても、その上にはまた1億円特っている人がいる。そして「必死」になっていくと、「必ず、死んでしまう」わけです。

つまり、数字的な幸せはどこにもありません。幸せというのは、「私」が「感じる」以外ありません。




 

「競わない・比べない・争わない」  その①

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リペアーショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、小林正観氏の著書「100%幸せな1%の人々」から ”競わない・比べない・争わない”その① です。

 


私たちは戦後教育の中で、「幸せとは、競うこと・比べること・争うことではじめて手に入るのだ。
人よリ抜きん出て、勝ち続けることが、幸せを手に入れる唯一の道である」と信じ込まされてきました。

日本に生まれた私たちは、「戦わないこと、争わないこと、そして笑顔で「和」の心を持って生きることを実践するために生まれてきた存在らしいと正観氏は述べています。

私は、強欲資本主義が行き詰っている今こそ、日本古来の幸せとは何なのか問うべき時期ではないかと考えています。



以下、本の内容です。

「き・く・あ」という言葉は聞き儒れないものだと思います。
私が作った造語ですから、一般的には知られていないでしょう。

 「き・く・あ」とは、「競わない・比べない・争わない」の略です。

 私たちはこれまで、「競うこと・比べること・争うこと」を前提として生きることを教え込まれてきました。

人と「競うこと・比べること・争うこと」で人より抜きん出て、はじめて「えらい」とか[立派だ]とか[素晴らしい]と評価をされる、という価値観で生きる目々を送ってきました。


 もともと学校教育がそうでした。

「相対評価」というものでクラスの中の上位何%かにいる人の通知票を「5」、下位何%にいる人を「1」とランクづけし、そのランクづけの競い合いの中で人材を育成するという教育方法を、日本の教育界はとってきたわけです。

 その結果、私たちは「幸せとは、競うこと・比べること・争うことではじめて手に入るのだ。
人よリ抜きん出て、勝ち続けることが、幸せを手に入れる唯一の道である」と信じ込まされてきたのです。

勝つことが正しく、勝つために努力をしない人間はダメな人間であり、競争から落ちこぼれると、社会の中でも価値がない存在であるかのように錯覚してきました。


 しかし、人問の価値というのは、勉強や仕事ができるとか、何か数字で判断できるような単純なものではなく、あらゆるところにその人の素績らしい個性や存在価値を見つけることができるのです。

 人と争うことが好きな人はそのような生き方でもよいと思いますが、競争にはきりがありません。

仮に勝ち抜いても、本人が満足しなければ永久に心が満たされることはなく、人を蹴落として優位に立っても孤独なだけかもしれません。

 人と競い合って自分の目標を達成し、自分のためだけに生きるよりも、

人に何かをしてあげることで喜ばれ、自分も人の好意に素直に甘えてそれに感謝して生きる方が、ストレスもなく、心温まる豊かな人生になるのではないでしょうか。


 世の中の現象というのは、実は、「分けられない」のかもしれません。

とくに「勝ち・負け」「幸・不幸」「善し・悪し」「成功・失敗」「敵・味方」の5つは、常に分けられるように教育されてきましたが、実は、分けられないものではないでしょうか。


 ものや現象は、ある方向から見れば「不幸」や「成功」に見え、また違う方向から見れば「不幸」であり「失敗」になります。見方が変わればまったく違ったものに映るのです。

ですから、すべてのことをそのように分けることに意味はないといえます。


日本人のよさのひとつは、「勝ち・負け」「善し・悪し」「正義・不正義」などをはっきりさせないところにあるのかもしれません。

正しいか正しくないかを問いかけるより、ただ笑顔で穏やかに折り合い、わかり合って生きていくことを宇宙は望んでいるようです。

日本をつくった宇宙の意志はは、日本の建国の礎になった精神的支柱である「和」の心をとても大切にしていると思えます。

それで、「和」の文字をとって、日本を「大和(ヤマト)」と名付けたようです。

日本に生まれた私たちは、「選ばれた」人間ではなく、戦わないこと、争わないこと、そして笑顔で「和」の心を持って生きることを実践するために生まれてきた存在らしいのです。


















 邦人拉致事件!

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、国際派日本人養成講座 より、「キルギス邦人拉致事件はいかに解決されたのか!」です。

 

 

 

 

 1999(平成11)年8月23日、アフガニスタンの東北に位置するキルギスでJICA(国際協力機構)が派遣していた日本人鉱山技師4人と、キルギス人通訳、キルギス軍関係者2人の計7人が、反政府ゲリラに拉致されました。

外務省はキルギスの首都ビシュケクに現地対策本部を設置したが、「この事件の解決は事件が起きた国キルギス政府に全てお任せする」という、まるで他人事のような方針を打ち出しました。

がしかし、現地大使及び大使館員の懸命なサポートで、無事人質は解放されたのです。

 解決の鍵は、ウズベキスタン大使として着任したばかりの中山恭子氏の決断力と現地を良く理解し、現地の人々と信頼関係を築いていた国際派日本人の大使館次席の高橋博史参事官の活躍でした。

 現地を良く知り、現地との信頼関係を築いていた高橋参事官がいたからこそ、ウズベキスタン、タジキスタンの両大統領やヌリ党首の全面的な協力を得られ、それが事件解決につながったのでした。

 

「キルギス邦人拉致事件はいかに解決されたのか!」の記事を読んでもらえば理解頂けると思うのですが、

今回の後藤健二と湯川遥菜の拉致・殺害に関して、

中山恭子大使や高橋博史参事官達のような方々が現地に駐在していれば、日本政府として ”もう少し手の打ちようが有ったのではないか!” と思わずにはおれません。

残念でなりません。

また、山本太郎参議院議員のテロリスト集団ISIS(イスラム国)が日本人二人を誘拐し、身代金2億ドル(約236億円)を要求してきた件に関して、山本太郎参議院議員が「2億ドルの支援を中止し、人質を救出して下さい」と安倍首相宛にツイートした行動に怒りを覚えます。

 

以下、キルギス邦人拉致事件はいかに解決されたのか! 読んでみて下さい。


 ■1.「2億ドルの支援を中止し、人質を救出して下さい」

  テロリスト集団ISIS(イスラム国)が日本人二人を誘拐し、身代金2億ドル(約236億円)を要求してきた。これに関して、山本太郎参議院議員が「2億ドルの支援を中止し、人質を救出して下さい」と安倍首相宛にツイートし、それをISISが拡散して宣伝に利用している。

 本来なら、日本国民が一丸となってテロリストに怒りをぶつけなければならない場面である。

そうあってこそ、テロリストに日本国民全体を敵に回したと悟らせ、今後のテロ活動への抑止とすることができる。それをテロリストの要求がさも正当であるかのように一国会議員が首相に要求するとは、彼らから見れば、百万の援軍を得た心地だろう。

  山本太郎が、この程度の事にも気がつかずにこの発言をしていたとした、その無定見ぶりは国会議員としてあるまじきものだ。また、もしそうと知りながら売名行為としてやったのなら、卑劣きわまりない。

  こんな発言が出回るのも、こういうテロ行為にいかに立ち向かうべきか、についての国際社会の常識を我々がまだ備えていないからであろう。幸

い、我が国には、テロリスト集団に拉致された邦人を無事に救出した成功例がある。今回はその成功例を辿って、こういう事態にいかに処すべきかを考えてみよう。


■2.「この事件の解決はキルギス政府に全てお任せする」

  1999(平成11)年8月23日、アフガニスタンの東北に位置するキルギスでJICA(国際協力機構)が派遣していた日本人鉱山技師4人と、キルギス人通訳、キルギス軍関係者2人の計7人が、反政府ゲリラに拉致された。

  キルギスの南側にはタジキスタン、西側にはウズベキスタンが隣接している。フェルガナ盆地はこの3国の国境線が複雑に入り交じっているが、ゲリラたちは、そこでイスラム国家の設立を目指していた。

  この地域が危険なことは各国政府および日本政府から再三警告が出されていたが、この鉱山技師たちはそれを無視して人里離れた山中に地質調査に出かけ、そこでゲリラに遭遇して拉致されたのだった。

  今回のISISの件もそうだが、政府の警告を無視して危険な地域に行き、誘拐されたら自己責任と言う他ない。政府は全力で人命救助にあたるべきだが、今後の誘拐再発を防ぐためにも犯人側の要求に応えてはならない、というのが大原則である。

上記の山本太郎をはじめ、ここの処が判っていない人が少なくないようだ。

 

  ゲリラたちは首領のナマンガニー以下、ウズベキスタン出身者が中心で、タジキスタンで活動していた。

たまたまキルギスの領地を通りかかった時に、7人を誘拐したのだった。彼らは人質を連れて、タジキスタンの4千メートル級の山岳地帯に戻った。

  外務省はキルギスの首都ビシュケクに現地対策本部を設置したが、「この事件の解決は事件が起きた国キルギス政府に全てお任せする」という、まるで他人事のような方針を打ち出した。

  しかし、ゲリラたちはキルギス領を通過中に際に邦人を誘拐しただけで、ゲリラたちと何の関係もないキルギス政府に任せても解決できるはずがない事は、現地では自明だった。 

実際にキルギス政府の使者がゲリラ・グループと接触しようとしたが、全く信頼されず、相手にされなかった。


■3.「拉致されている人のことを思えば、頑張らねば」

  ちょうど事件発生の2週間ほど前に、ウズベキスタン大使として着任したのが中山恭子氏だった。こののち内閣官房参与として、北朝鮮から帰国した拉致被害者5人の受け入れに活躍した方である。

  

 

ゲリラたちはウズベキスタン出身で、今はタジキスタンで活動している。タジキスタンもウズベキスタン大使館の管轄だった。中山大使は自分たちが動かなければ人質救出はできないと判断した。

しかし、外務省からウズベキスタン大使館に出された指示は「情報の収集のみ」だった。

  その指示を逸脱して動く事に対して、中山氏は大使としての責任をとる覚悟は出来ていたが、心配したのは、大使館員たちの身の上だった。

人質解放に成功したとしても、本省からは全く評価されないだろう。

  中山大使は何度か、館員たちに「それでも良いのか」と確かめたが、彼らはそのたびに「やりましょう」と答えた。

ウズベキスタン大使館がこの事件に関連して動いていることを表立って知られてはならないので、昼間は普通の大使館業務を行い、その後、明け方まで連絡をとったり、次の作業の打合せをする毎日が始まった。

  土曜も日曜もない。「拉致されている人のことを思えば、頑張らねば」と励まし合った。

そうした館員の筆頭が、大使館次席の高橋博史参事官だった。アフガニスタンの大学を出た、この地域の専門家である。現地語を話し、現地の様々な人々とネットワークを築いていた。

  事件発生時、高橋参事官は、ちょうどタジキスタンの首都ドウシャンベに来ていた。

その一年前に国連タジキスタン監視団の政務官として活動中に現地でゲリラに殺害された秋野豊・筑波大学助教授の一周忌に参加するためだった。

  高橋参事官はタジキスタンに張り付いて、様々なネットワークから情報を収集しつつ、ゲリラ側との交渉も続けていた。

「キルギス政府にすべてお任せする」という日本政府の態度に、ゲリラ側が怒って「日本政府が直接交渉に応じないなら、人質を一人ずつ撃ち殺していく」とまで言い出した時も、必死で止めたのが高橋参事官だった。


■4.「救出に全力を尽くす。当然のことでしょう」

  事件発生の3日後、8月26日、中山大使はウズベキスタンのカリモフ大統領に会って、人質救出の協力をお願いした。大統領はすでに事件の詳細をよく知っていた。

  そして「日本人が中央アジアで傷つく事は何としても避けなければならない。日本人人質の安全確保及び無事救出が第一と考えており、そのためあらゆることを行う用意がある」と明言し、「自分のところに入ってくる情報を直接伝えましょう」と約束した。

  中山大使はタジキスタンの首都ドゥシャンベに行き、高橋参事官と共にラフモノフ大統領にも日本人人質救出の協力をお願いした。ラフモノフ大統領は、「救出に全力を尽くす。当然のことでしょう」と答えた。

高橋参事官のこともよく知っており、彼の顔を見て「頑張っているよね」と親しみを込めて励ましてくれた。

  後で分かった事だが、カリモフ大統領からラフモノフ大統領に、次のような趣旨で、何度も電話が入っていた。


  もし、中央アジアで日本人が傷つけられたりしたら、中央アジア全体から日本が引いてしまう。それは中央アジアにとって大きな損失だ。これはタジキスタンだけの問題ではない。なんとしても無事に救出すべきだ。
 

■5.「もしナマンガニーから日本人達を取り戻せなかったら」

  カリモフ大統領の助言が効いたのか、ラフモノフ大統領の対応も真剣だった。全ての閣僚を集めて、皆の面前でミルゾー非常事態大臣に日本人人質救出を命じた。

  ミルゾー大臣はタジキスタン内戦時はラフモノフ大統領に対抗する反政府野党・イスラム統一党の統一司令官だった。

その後、両勢力の停戦協定が成立して、ミルゾー氏は内閣入りしたのだが、日本人拉致をしたゲリラ達は、首領のナマンガニー以下は元の部下だった。彼らは停戦協定に従わずに、その後もゲリラ活動を続けていたのだった。

  ラフモノフ大統領としては、昔の部下の仕業なのだから、お前が収拾しろ、という意図だったのだろう。

大統領は全閣僚の前で「貴方がもしナマンガニーから日本人達を取り戻せなかったら、貴方が国際テロリストだ、と国際社会に向けて宣言する」とまで言い放った。

  並行して、中山大使はイスラム統一党の党首ヌリ氏も訪ねて、協力を依頼した。ヌリ党首は政権には入らなかったが、今でも精神的指導者だった。

  中山大使が高橋参事官とともに、ヌリ党首の事務所がある建物の玄関の石段を上っていくと、マシンガンを小脇に抱えた兵士達が押し寄せてきた。

周りの人々は一斉に姿を隠す。中山大使は「自分たちはここの客人のはずだから」と石段を登り切ると、その兵士等の中央にムスリムの聖職者の民族衣装を着た大柄な人物がいた。ヌリ党首だった。

  客人として丁重に8畳ほどの小さな部屋に案内された。高橋参事官が通訳をする。

周囲には屈強な者たちが取り囲んでいる。「日本人が拉致されました。拉致したのはあなたの元部下だと聞きました」と中山大使が言うと、「何とかして無事に連れ戻さなければねぇ」と、静かな口調で答えた。

  ナマンガニーは元部下だが、ラフモノフ大統領との和平に反対して、ヌリ党首とは袂を分かって、戦闘を続け、今回は勝手に拉致事件を起こした人物である。ヌリ党首はどうしたら無事に人質を救出できるのか、一生懸命考えてくれた。


■6.「人質や誘拐はイスラム教徒にとって最も恥ずかしい行為」

  ミルゾー大臣は、自らナマンガニー・グループが潜んでいた山中に赴き、説得に乗り出した。

ヌリ党首もイスラム統一党の野戦指揮官たちに対し、ミルゾー大臣に従って現場に赴くよう指示した。こうして、かつてのミルゾー司令官率いる140人もの野戦将兵がマンガニー・グループを取り囲んだ。

  ミルゾー大臣はナマンガニーに対して、人質や誘拐はイスラム教徒にとって最も恥ずかしい行為であり、特に聖戦兵士がなすべき行為ではない、と説得した。

そして、自分は5年に渉ってタジキスタンで聖戦に従事してきたが、一度も人質や誘拐を行ったことはなく、特に何の関わりもない日本人を人質に取るのは神の教えに反すると説諭した。

  さらに、人質に危害を加えたり身代金を取ったりしたら、ナマンガニー・グループはテロリスト集団であると国際社会から認知されることになり、それはナマンガニー・グループの運動の趣旨から全くかけ離れたものになると説得した。

  ミルゾー大臣の三日三晩の説得を、ナマンガニーはようやく聞き入れ、事件を起こした犯行グループ全員を無事にアフガニスタンまで送り届けるという約束のもとに人質を解放した。

  ナマンガニーはタジキスタンを去る時、ミルゾー大臣に別れを告げ、本当はアフガニスタンには行きたくないと涙を流していた、という。その後の行方は分からない。


■7.「当然のことをしたまで」

  人質が解放されたのは、1999(平成11)年10月25日、事件発生から64日ぶりのことだった。

  日本政府は当初から「キルギスに全てお任せする」という方針をとっていたので、それと辻褄を合わせるために、人質たちはタジキスタンから山を越えて、わざわざキルギス領内まで歩かせ、そこからヘリコプターで報道陣の待ち構える首都ビシュケクに運ばれた。

いかにも官僚的な茶番劇である

  ウズベキスタン大使館員たちは、人質がヘリコプターから降りてくる光景をテレビで見ながら、彼らが無事であったことに涙を流して喜んだ。

館員たちの必死の努力は誰にも認められなかったが。

  中山大使は、ウズベキスタンのカリモフ大統領、タジキスタンのラフマニノフ大統領、そしてイスラム統一党のヌリ党首にそれぞれお礼を述べに伺った。

  お礼訪問に際して、日本側からは「今回の件では十分に働いたからと、いろいろ要求を出してくる可能性があるが、その場では受けないようにしてください」と中山大使は釘を刺されていた。

当時、日本国内では、中央アジアの人々が日本人人質解放のために働くのはお礼を求めての事だと報道もされていた。

  しかし、カリモフ大統領は事件解決を喜びながらも「当然のことをしたまで」、ラフモノフ大統領も「いや、自分の国の関係者が起こしたことだから。まず無事で良かった」、ヌリ党首は「自分のしたことなど、あなたの感謝の言葉に値しないことです」。

  3人ともお礼を求める気持ちなど微塵もなかった。

中山大使は、日本からの注意に、一瞬でもそんな要求があるかもと考えたことを恥ずかしく思い、自分はまだまだ現地の人々のことを全く分かっていない、と自らを厳しく戒めた。


■8.現地との信頼関係こそ、問題解決の鍵

 「自分はまだまだ現地の人々のことを全く分かっていない」とは、今でも多くの日本人が自省すべき事だろう。

事件に関係のないキルギス政府に「すべてをお任せする」と外務省は机上で方針決めたが、テロリストに関係のないキルギス政府の使者は相手にもされなかった。

  逆に、現地を良く知り、現地との信頼関係を築いていた高橋参事官がいたからこそ、ウズベキスタン、タジキスタンの両大統領やヌリ党首の全面的な協力を得られ、それが事件解決につながった。

  冒頭で「2億ドルの支援を中止し、人質を救出して下さい」という山本太郎の発言を紹介したが、これは現地を知らず、知ろうともしない人間の無責任かつトンチンカンな発言である。

  仮に、高橋参事官やミルゾー大臣がゲリラを説得している最中に、背後から「身代金を払って人質を救って下さい」などと山本太郎のような人物が言ったら、ゲリラ達は日本にも自分たちに賛同する人間がいると考えて、説得もはるかに困難なものとなったろう。

  我々がすべきなのは、テロリストに荷担するような発言を徹底的に批判し、日本国民一丸となってテロリストたちに怒りを示し、現地で人質救出のための活動をしている人々をバックアップすることである。

 (文責:伊勢雅臣)

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