イライラする人、させる人 その④
リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、小林正観氏の著書「100%しあわせな1%のイライラする人、させる人 その④です。
人間が腹を立てるとか、怒る、相手に対してイライラする、というのは、多くの場合、「自分の側に『正義』がある」と思うことが源のようです。
自分が正しくて、相手が間違っている。だから遠慮なく腹を立てたり、怒ったりしている、という状況が見受けられるように思います。
たとえば、ある会社で、遅刻した社員がいたとします。上司は有無を言わさず叱りつけたり、なかには感情的に怒鳴りつけたりする人もいるかもしれません。
たしかに、「その会社の規則」の中だけで考えれば、遅刻したことは悪いことかもしれません。
しかし、もしかすると、その会社の「正義」というものは、宇宙的な「正義」ではないかもしれません。
たとえば、先ほどの遅刻した社員には、次のような事情があったのかもしれない。
夜12時ごろ、そろそろ寝ようかと思っていたとき、同居していた親が心筋梗塞で倒れてしまった。
慌てて救急車を呼び、病院に付き添い、一晩中看病し、一睡もしていなかったが、大事な仕事があったので、フラフラになりながらも出社した。
そういう状況を踏まえたとき、「会社なのだから、どんな事情があっても遅刻すベきではないにというのは、会社側の論理であり、「会社の正義」であると思います。
その会社流の倫理や道徳というものは、もしかすると「宇宙的な正義」(人間としての温かさ、優しさなど)とは少し違うのかもしれません。
そのように考えると、私たちが自分の狭い価値感や常識の中で「自分が絶対正しい」と思い込んでいるために、何のためらいもなく相手を叱ったり、怒鳴ったりしているかもしれないのです。
もしかすると、「宇宙的な正義」というのはまた別のところにあり、私たちが「正義」と思っていることは「正義ではない」場合があるかもしれません。
そう考えたとき、「どうしてそうなったのか」を聞くことは、必要なことであり、かまわないことですが、
自分が「正義」だと信じ込んで怒ったり威張ったりすることは、慎むべきでしょう。
自分が怒っているのは、あくまでも「自分の中の正義」であって、「宇宙的な正義」を完全に理解しているわけではないのです。
本当「宇宙的な正義」であるかどうかは、神のみぞ知っているのではないでしょうか。
小さな枠内にとらわれている「個人の正義感」というもので、人を裁くべきではないと思います。
自分が感情的になって怒鳴ったり、人を裁いたりする必要はありません。
宇宙的な「反正義」の行動をしたのなら、それに見合った結果が返ってくるはずです。
イライラする人、させる人 その③
リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、小林正観氏の著書「100%幸せな1%の人々」から、 ”イライラする人、させる人 その③”です。
人間関係をオールマイティーに解決する方法が2つあります。
1つは、「自分のまわりの500人すべてを人格者に変えてしまうこと」。
ただ、この方法だとー人変えるのに、説得に次ぐ説得を重ねて2年くらいはかかるので、
500人を変えるには1000年かかる勘定になり、事実上これは不可能といえます。
もう1つの方法は、「自分白身が人格者になってしまうこと」です。
まわりの500人を人格者にするというのも、穏やかで、にこやかな温かい日々を得ることにはなりますが、
もう1つのこの解訣方法は、自分が人格者になってしまうということです。
人を変えるということは、大変なことです。なかなか人は変わってくれませんし、
しかも自分の思うようには変わってくれません。
仮に、変わってほしいと思われる人の立場から考えます。
その人にも500人の人間関係があります。Aさんは、その人にこう変わってほしいと思う。
そのように変わったときに、今度はBさんは違う人格になってほしいと思い、
Cさんはまた別の要求をします。
さらに、それに対して「私」は、「私」の好むような人に変わってもらいたいと思う。
しかし、そう思うところにそもそも無理が生じています。500人の要求をいちいち聞いていたのでは、その人は頭がおかしくなってしまうでしょう。
ですから、「私」の思いどおりに他人を変えることはできない、ということをまず理解する必要があります。
ただ、「私」が変わることは簡単です。なぜなら、変えるべき相手が1人だけであり、変えるべき相手が自分ですから、自分が変わりたいように変わればいいからです。
イライラしたくない、腹を立てたくない、人と争いごとをしたくない、
何かを言われたときにそれをいちいち気にするような自分でありたくない、
と思うのであれば、自分が希望するような、自分にとって好ましい自分を、自分が作り上げればいいわけです。
他人を作り変えるのは大変なことですが、自分で自分を作り変えるのは簡単です。
なぜならば、その人格でいることが、自分にとって一番心地よいのですから。
自分にとって、もっとも居心地がよいような心のあり方を作り上げること。
これをひとことで言ってしまうと「自分にとって楽しいと恵える人格を作ること」であり、「私」が人格者になってしまうことです。
「私」が人格者になるということは、誰に何を言われても、目の前にどんな現象や出来事が起きても、それについて怒らない、腹を立てない、怒鳴らない、イライラしない、声を荒げない、ということにほかなりません。
そうしていくことで一番得をするのは、自分です。
まわりの人が得をするというのは、あくまでも二次的な効果にすぎません。
世のため人のため、まわりのために「あなたは人格者になるべきだ」
と精神論や観念論として言っているわけではありません。
まわりの現象や出来事にいちいち過剰反応せず、いつも同じ笑顔と穏やかさで、
ニコニコしながらすべての現象をとらえられるということが、自分にとって一番ラクであリ得なのだから、そうするといいのではありませんか、と提案しています。
イライラする人、させる人 その②
リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、100%幸せな1%の人々」から、”イライラする人、させる人 その②” です。
一般社会の中で、一般的に、上下関係が存在すると認められている人間関係が3種類あるように思います。
1つは、親子、1つは上司と部下、1つは先生と生徒、の関係です。
いずれの関係も、「ある概念」があれば行き詰まることもなく、スムーズに流れていきます。その「ある概念」とは、「尊敬」というものです。
基本的に、親は子に、上司は部下に、そして先生は生徒に対して、指導的で優位な立場にあり、それを社会全体が認めています。
しかし、それだけでは、人問関係はスムーズに流れていきません。そこに(上下関係の)上に立つ方の人間が、下の人間から「尊敬される」という概念が存在すれば、その人開関係は、非常にスムーズに進んでいくのです。
ところが上に立つ人が、尊敬されるような人格を持っていない場合、その人間関係はかなりの確率で行き詰まっていきます。
たとえば、親は、親というだけで、子どもに対して威張ってはいないでしょうか。
上司は、上司というだけで、部下に対して偉そうにしていないでしょうか。先生は、生徒に対して、むやみに威張ったり怒鳴ったりしていないでしょうか。
ある会社の社長さんが、部下を激しく怒鳴り続けていたことがあるそうです。
私はその話を聞き、「怒鳴られたり、怒られたりすることに対して手当が出るのですか?」と聞きました。もちろん「そのようなものはありません」という答えだったのですが、そこで私は言いました。
「給料というのは、当然、『労働』の代価として支払われるもので、その中には「怒鳴られる』ことに対する報酬は含まれていないのですよね」と。
その社長さんは、しばらく黙っていました。誰が考えても、そのような報酬が入っているわけがありません。そこでまた私は言いました。
「上司という人は、下の人よりも忍耐強く、寛容だから『長』なのですよね。
では、社長がどういうものかといえば、『社』の中で、もっとも忍耐強く、度量が広くて寛容である、そのような人を、『社』の『長』(社長)と言うのだと思います」と。
この話を聞いて、社長さんが・ポツリと言いました、「社長の給料の中には、その『忍耐料』も含まれているのですね」と。私はそのひとことに思わずニッコリしてしまい、「それは素敢な言葉ですね」と言いました。 `
一方、上下関係が「下」の立場の人にも同じことが言えます。
ある大学生が、私に相談をしてきました。「自分のやることに親がいちいち口を出すので、家を出たい」と言うのです。
私は、「あなたよりも人生経験の豊かな親御さんが、いつまでも細かいことを言い続けるのは、必ずわけがあるのです」と言いました。
私はその大学生に質問をしました。「大学時代に何か資格を取りましたか?」 「『この分野のことなら誰よりも詳しい』と言えるものがありますか?」と。
その答えはすべて「NO」でした。私は苦笑いをして「それでは、親御さんが心配するのも当然でしょうね」と言いました。
もちろん、口出しをする親の人格にも問題があるのかもしれませんが、それと同時に「親からそのように言われてしまう自分にという存在も、やはり考えなくてはいけません。
「上下関係」の間に、「お互いを尊敬する気持ち」があれば、あるいは「尊敬される存在になろう」との気持ちがあれば、多くの問題が解決する気がします。
イライラする人、させる人 その①
今回は、小林正観氏の著書「100%幸せな1%の人々」から、 ”イライラする人、させる人 その②” です。
「私」の心の広さを仮に「扇に」にたとえます。その扇の広さが90度の平均的寛容度だと思ってください。
そして、その90度の外側に、自分にとって許せない、あるいは我慢できない人が存在するとしましょう。
その外側にいる人を、自分の90度の枠内に連れて来ようとします。
その人が自分の価値観や許容範囲の中に入ってきてくれれば何の問題もないのですが、
そうそう簡単には入ってきてくれません。
そこで悩み、苦しみ、ストレスを感じるわけです。
もし、自分の90度の許容度・寛容度を広げることができ、相手を受け入れることができたならば、
そこで問題は消滅します。
イライラも腹立ちもなく、相手を受け入れたのですから、
相手が自分の許容範囲に入っているということになります。
仮に許容範囲が120度になったとき、130度回のところに、また人が現れたとします。
その人を「私」自身が認め、受け入れてしまえば、[私]の心の領域が広がり、またイライラがなくなります。
結局、その人を受け入れること、「そういう価値観の人もたしかにいるよね」というふうに、
「私」の心の許容範囲を広げたことで、ラクになるのは向こうではありません。
「私」自身がラクになるのです。
ですから、その現れてくれた人は、常に「私」の心の許容範囲を広げてくださる方
(扇の範囲を広げてくれる方)だと思ってみたらどうでしょうか。
その人のおかげで「私」はやがて180度のきれいな扇の広がりを持つことになります。
「どんな人が現れてもまったく感じない人になってしまう」
「いちいちイライラを感じない人になってしまう」という意昧で、私はこの人を「ボーッとした人」と名付けました。
90度の広さを平均的な許容範囲とすると、その3分の1の30度や、
半分の45度の許容範囲の人は「心の狭い人」、あるいは「ピリピリした人」という言い方をします。
`
ですから、「ピリピリした人」よりは「ボーッとした人」の方が、
実は自分自身もラクであるということが言えるのです。
人のためではありません。その相手のためではなく、
自分が「つらくない」「いちいち腹を立てないですむ」という意味で、
この方法は自分にとって最良の方法です。
心の[扇(おうぎ)」を広げること。これこそがまさに、自分がラクに生きるための「奥義(おうぎ)」なのです。
「私」がボーッとし、いちいち腹を立てず、過剰反応せず、一喜一憂せず、
ありとあらゆることを笑顔で迎え入れ、自分の許容範囲を広げていくことができたら、「私」自身が一番ラク。
そしてよく考えてみると、自分の平均的な90度の扇の広さを、
その外に現れた人が広げてくださったおかげで、自分の心が広がり、
許容度・寛容度が広がったということになれば、その人に「私の心を広げてくれてありがとうございます」と言えるのではないでしょうか。
目の前に現れる人、一人ひとりが「私」の許容度・寛容度を広げてくださる人なのかもしれません。
そのことに気がついたら、「私」が嫌悪を感じる人であっても、その人が現れてくれたことに感謝できそうです。
あなたがすべて決めている
リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、小林正観氏の著書「100%幸せな1%の人々」から、 ”あなたがすべて決めている” です。
お釈迦様の言葉に、このようなものがあります。
すべてがあなたにちょうどいい。
今のあなたに今の夫がちょうどいい。
今のあなたに今の妻がちょうどいい。
今のあなたに今の子どもがちょうどいい。
今のあなたに今の親がちょうどいい。
今のあなたに今の兄弟がちょうどいい。
今のあなたに今の友人がちょうどいい。
今のあなたに今の仕事がちょうどいい。
死ぬ日もあなたにちょうどいい。
すべてがあなたにちょうどいい。
自分の思いどおりにならない社員に対して、ひどく怒ったり、
怒嗚りつけたり、威張ったりする社長がいるとします。
そのような社長が、私に「社員が自分の思いどおりにならない。
どうして思いどおりに動かないんだろう。どうしたら、自分の思いどおりに動くようになるか」
と相談に来ることがあります。
私は、そのような質問を受けたときは、今書いたようなお釈迦様の゛ちょうどいい」という言葉の話をします。
「すべてがちょうどいいのだそうですよ。
自分の思いどおりにならない社員に対して、怒鳴ったり、怒ったり、
威張ったりしていませんか?」と聞きますと、「それは、ときにはそうしないといけない」と話されます。
でも、それは違うらしい。
怒鳴ったりヽ怒ったり、威張ったりしているのは、自分が偉いと勘遅いしているだけです。
怒鳴ったり、怒ったり、威張ったりしている人のもとには、そのような社員しか集まってこない。
反対に、どんなことに対しても笑顔で、にこやかに、温かさを持って接することができる人は「人格者」であリ、「人格者」のもとには、にこやかで楽しい人が集まってきます。
「私」がすべてを決めています。すべてが自分にちょうどいいのです。
「私は会社を辞めたいと思っている。
うちの会社はこうで、専務はこうで、社長はこうで、部長はこうで、どうしようもない。嫌になる」
と話す人が結構います。
そういうとき、私は次のように話します。
「あなたの言っている上司や会社はたしかにそうかもしれません。
100%正しいことを誇張なく言っているのかもしれませんが、あなたはその会社で給料をもらって、
それで食べているのですよね。
自分の生活を成り立たせてくれる会社や上司に対して、そういう愚痴や悪口を平気で言えるあなたは、どうしようもない社長、専務、部長と同じような、どうしようもない社員なのではありませんか?
こそう言われてショツクを感じつつも、ハツと気づく人がいます。
つまり、人の悪口、会社の悪□を言っているというのは、実は、全部自分を暴露していることにほかならないのです。