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奇跡​のリンゴ

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、名言セラピーより、木村秋則さんの「奇跡のリンゴ」です。

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人類のなかで誰ひとり成し遂げることができなかった

リンゴの無農薬栽培。


リンゴは、お米や野菜の無農薬栽培とは比較にならないほど難しく
不可能といわれていました。


それを見事に成し遂げたのが木村秋則さんです。





しかし、それは挫折の連続でした。

農薬の変わりに酢を薄めて散布したり、
牛乳やワサビを散布したり、ありとあらゆるものを試した。


しかし
1年目実らず
2年目実らず
3年目実らず
4年目実らず
5年目実らず


ついには、病気と害虫が蔓延して
畑は荒れはて、リンゴの木は花を咲かせることすらなくなりました……




リンゴ農家なのに
リンゴが育たない。


映画化された「奇跡のリンゴ」では
こんなセリフがでてきます。




 「ここであきらめたら
 人類があきらめることになる」




しかし、家計は火の車です。
奥様は、1個の消しゴムを3つにわけて、当時小学生だった3人の子どもたちに渡していたそうです。
そして、エンピツは、小さなエンピツをセロテープで3つつなぎあわせたものを使う。



子供の作文には


「わたしの家はリンゴ農家です。でもわたしは一度もリンゴを食べた事がありません」と書かれていた。


もうさすがにダメだ……


そして、
あきらめようとしたら、
逆に子供に叱られた。


「なんのためにわたしたち、
 ここまで貧乏してきたと思ってるの!!
 あきらめるなー!!!!」と。







しかし、それでも、
6年、7年、8年目もダメ……





さすがにこれ以上、家族に迷惑をかけるわけにはいかない……。

木村さんは絶望感とともに、首をつるロープをもって近くの岩木山に入っていきます。


そして、木の枝に向けてロープを投げた。
しかしロープは枝をはずれ地面に落ちた。

木村さんは、そのロープを取りにいきます。


月灯りのした、
ロープを地面から取り上げた瞬間、



ツーンとする、なんともいえない、いい匂いがしたそうです。





山の土の匂いです。


その瞬間に気づいたそうです。


この匂いのする土をつくればいいんだと。



リンゴを育てるのは、土だと!


畑の土は10センチも掘れば6度から8度も温度が下がりますが、
山の土は掘っても掘っても温かい。
50センチ掘っても地表面との温度差は1度から2度程度です。


このふわふわの温かい土を育てたのは、人間が与える堆肥ではない。
雑草であり、無数の微生物たちです。
(わずかひとつかみの土のなかに、1000億個といわる細菌が生息してるのだそう)


そして、ここからは、リンゴの木を生かしてくれる土と微生物の研究に明け暮れ


11年目にして……
11年目にして……
11年目にして……


ついに木村さんのリンゴ畑一面にきれいなリンゴの花が咲いたのです!






木村さんが最終的に気づかれたことは何か?








敵はいなかった、ということでです。




「敵なんてどこにもいなかったと気づくことが、私の栽培法の出発点です」木村秋則






ある虫がリンゴの葉を食べているのを見て、
この虫が害虫だと決めつけてしまったこと


それが間違いだったと木村さんはいいます。


「自然の中には善も悪も存在しないのです。
生き物はみんな、それぞれの命を必死で生きているだけなのです。
どんな生き物も、生態系のなかで与えられた自分の役割を果たしているだけなのです」


「虫や病気は原因ではなく、あくまでも結果なのです。
虫や病気が蔓延したからリンゴの木が弱ったのではなく、
リンゴの木が弱ったから虫や病気が大発生したのです。
虫や病気は、それを教えてくれていたのです」


例えば、畑にアブラムシが大量にくるような場合、
実は、そのアブラムシは肥料を与えすぎて窒素過多になっている余分な栄養を食べにきているようなのです。
ちゃんと理由があってきているのです。



命の循環を丁寧に観察し、理解すれば、そこには調和があり、
善悪はないとわかるのです。



木村さんはよく聞かれるそうです。


なんであきらめなかったのか?



諦められない理由は山ほどあったそうです。


山ほどの理由のなかで、

なんだか怒られそうで


人にこれまで言ってこなかった答えがひとつあるそうです。



それは……





「畑が面白かったから」




「今でもあの時代のことを思い出すと、気持ちが塞ぎます。
 けれど、それでも、畑には面白いことがたくさんあったのです。
 肝心のリンゴはひとつも実っていないのに」



「あの頃の私は、畑を荒らす臆病者の野ネズミみたいに全身の神経を張りつめて、
 リンゴの木と、自然と向き合っていました。
 格好つけて言うわけではありません。
 そうするしかなかったのです」


「リンゴの葉を食べる害虫は平和な優しい顔をしているのに、
 その害虫を食べてくれる益虫が怪獣みたいに怖い顔をしているのを知ったのも、あの頃のことです」



朝から晩までてんとう虫を観察していたこともあったそう。



木村さんは、いま、
自然栽培の普及に全国を駆け巡っています。

「太陽系のなかにきれいな地球があるよ」と、

そういう言葉がでてくるような世界にしていきたいからと。


とはいえ、畑にいるときが一番幸せだそうですけど。





僕がこれまで読んだ木村さんの本、

講演DVD

何を見ても、木村さんが何度も何度も言う同じ言葉があります。





「わたしが頑張ったんじゃない。
 わたしの家族が頑張ったんだ。

 わたしが頑張ったんじゃない。
 リンゴの樹が頑張ったんだ」




リンゴを生かしてくれたいたのは土だったように

木村さんという役割を生かしてくれたのは、家族であり、


そして、リンゴの樹だったんです。










「活かされながら、活かして生きる」木村秋則




日本人の美質に立脚した経営

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Common Sence: 未来工業 ~ 日本人の美質に立脚した経営

「日本一労働時間が短い会社」がなぜ、高収益を実現しているのか?
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■1.「あんたいつの間にクビになったの」

 岐阜県大垣市に「日本一労働時間が短い会社」と呼ばれる企業がある。電気設備資材などの製造販売を行っている未来工業株式会社である。

 休日の多さは日本一、残業ゼロ、給料は地域でトップレベル、それでいて利益率も驚異的だ。平成25年度は売上高314億円で営業利益38億円、営業利益率はなんと12%超。日本企業の平均的な利益率は3%程度というから、その4倍である。

 同社が沖縄に営業所を開いたときのこと。[1,p58]

__________
 ところで、後日、正式の社員になったその女の子から、経理に「給料をもらったけれども、数字が間違っています」と電話がかかってきたという。
 よくよく聞いてみると、「今までの給料の倍はあります。ぜったい計算違いです」と怒っていたというのだ。

 経理はびっくりして、「いや、これは未来工業の規定だから」と返事をしたらしいが、それだけではなかった。またまた騒動がもちあがった。

 正月休みで休んでいたら、その子のおっかさんが、「あんたいつの間にクビになったの。なぜ正直に言わないの」と、さんざん怒ったというのだ。・・・
 沖縄の正月休みはふつう3日程度だ。それが、20日近くも休みなのだから、おっかさんにはとても信じられなかったのだろう。
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■2.「社員を低賃金で長時間こき使ったほうがトク」か?

 休日が多いからと言って、一日の就業時間が長いわけではない。朝8時30分から夕方4時45分までで、5時には会社の中はガラーンとなる。なぜ、こんなに労働時間を短くするのか。創業者の山田昭男氏はこう語る。[1,p98]

__________
 そもそも、日本の中小企業をみると、「社員を低賃金で長時間こき使ったほうがトクだ」と考えている経営者が少なくない。だが、本当にそうだろうか。

 中小企業には凡人が集まっている。ズバ抜けた能力を持っている者が多いわけでもない。その社員に不満をもたれたら、ただ給料をもらうために会社に来ているだけという状態になり、目も当てられない結果を招くことになってしまう。

 せいぜい、社員に不満をもたれないようにして、それなりにがんばってもらうしかないのではないか。
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 日本の会社員の代表的な不満の一つが、自分で使える時間の少なさだろう。山田氏はこう社員に語る。[1,p97]

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 ふつうの会社の場合、朝7時に家を出て、夜7時にはうちに帰る。つまり、通勤時間も含めて12時間を会社のために使っている。そうすると、残りは12時間や。そのなかで8時間は寝てる。すると、残りは4時間や。

 その4時間ぐらいは自分の時間だろう。せっかく生まれてきてや、残りの4時間まで会社のために働いてどうするんじゃ。せめてその4時間の自分の時間くらい大事にして自分の好きなように使えや。それを残業で全部潰して、何がおまえ人生の価値があるんや。
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 冒頭に登場した女性社員なども、今までの給料の2倍も貰い、そのうえ正月休みを19日も貰ったら、「自分なりに頑張らないと申し訳ない」と思うだろう。社員全員がそういう気持ちになれば、会社全体では「社員を低賃金で長時間こきつかう」会社よりも、何倍もの業績をあげる事ができる、ということを未来工業は実証している。

■3.「16日間も休んでお客さんに迷惑がかかってもいいのか」

 しかし、普通の企業で、こんなに長い休みをとったら、お客さんに迷惑がかかるのではないか、と心配になる。

 未来工業でも平成2(1990)年に会社設立25周年を迎えた年末に、上海、台北、ソウル、サイパンなどへの3泊4日の社員旅行に招待する、という企画をたてた。前後の休みも入れると16日間の休みとなる。

 お客さんからどんどん注文が入る年末のいちばん忙しい時期に、16日間も休んで、迷惑がかかるのでは、と心配する社員に、山田さんはこう答えた。

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 誰も迷惑をかけていいとは言うてない。ピタッと休んで、残りの日でお客さんに迷惑をかけずにすむ方法を考えろ。ただし、ローテーションを組んで、交代で休む、なんてことはやるな。そんな平凡なことはどこでもやってるぞ。[1,p109]
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 社員の考え出した「方法」の一つは、お客さんに倉庫の鍵を預けることだった。もし急に商品が必要になったら、倉庫を開けて持って行ってください、というわけである。

 そのほかにも社員はいろいろな工夫をして、その月に創業以来、最高の売上げを達成したのには、さすがの山田さんも驚いたという。


■4.「女の子に代わってくれ」

 実際に未来工業の社員たちが、日頃、どのように頑張っているのか、もう少し現場を見てみよう。お客さんから営業部への電話は、担当の女性社員が12人いる部屋に入るようになっていて、彼女らが用件を聞いて、対応している。

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 そしてそのために、女性社員たちは一生懸命、努力している。たとえば、次々とつくられる新製品をその部屋に運び込んでは、実際に手に触れながら、どんな製品なのかをいち早く説明できるように勉強している。

 また、自社製品のパンフレットだけではなく、他社製品のパンフレットも揃えてあるし、他社の製品ポスターが貼ってあったこともあった。メーカーによって製品名が違うことがあるが、他社の商品名を言われても、すぐに対応できるようにするためだ。

 その成果もあって、いまでは、女性社員が出られずに男性社員が出ようものなら、お客さんから「女の子に代わってくれ」と言われるほどだ。それだけ信頼されているし、お客さんを待たせない。[1,p192]
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 多くの企業では男性営業マンが外回りしている間に、お客から電話がかかってくると、女性社員は伝言をメモするだけで、あとは男性社員が帰社してから対応する、という職場が多い。これでは女性社員に、いくら低賃金、長時間労働をさせても、事業成果には繋がらない。

 これに比べれば、未来工業の女性社員のような仕事をしてくれれば、2倍の給料を払い、労働時間を大幅短縮してもお釣りがくるだろう。

 そして、女性社員たちが新製品を手にとって勉強したり、競合先の商品名まで覚えようとするのは、彼女たち自身で「こんなに給料と休みを貰ったら、それだけ頑張らなければ」という気持ちがあればこそである。


■5.「ほかにあるものはつくらん。ほかにないものをつくる」

 製品開発部門の頑張りもすごい。現在、1万6千点ほどの商品があるが、「ほかにあるものはつくらん。ほかにないものをつくる」を鉄則として、全商品、なんらかの差別化がされている。

 とは言っても、電気設備資材は寸法や材料まで規格が法律で細かく定められているものが多く、技術的にも成熟した分野なので、革新的な商品の出る余地は少ない。

 その中での差別化の好例に、創業当初に出したスイッチボックスがある。スイッチを木ねじで柱などに固定する器具だが、当時は木ねじを通すための穴が、底の部分に対角線上に二つ空いているのが常識だった。

 だが、未来工業では同じものは作らないと決めていたから、なんとか工夫できるネタはないかと調べてみると、規格で縦横寸法は決まっていても、穴の場所や数については規格がない事が分かった。

 そこで箱の四隅に穴を開けた商品を考え出し、スライドボックスと名付けて売り出した。穴が対角線上に二つしか空いていないと、柱が細い場合、一カ所でしか止められない。しかし、4つ空いていれば、縦横斜めのいずれか2カ所で、しっかり固定できる。これが電気工事業者に受けて、ヒット商品になった。

 こんな小さな工夫を積み重ねてやっているうちに、スライドボックスのシェアは70~80%に伸びていった。

 このように差別化された商品が1万6千点も生まれたのも、開発部門、製造部門、そして営業部門の担当者が、それぞれやる気を出して、自分の仕事に取り組んでいるからだろう。12%もの利益率はその当然の結果なのである。


■6.「社員はノルマなんかで縛られたくない」

 とはいえ、能力や個性は人それぞれである。結果を出す人と出せない人を、どう評価し、どう処遇するのか。多くの企業では目標管理と称して、社員一人ひとりにノルマを与え、その達成状況で、給与やボーナスを上げ下げする。

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 日本の会社はノルマがあるのが当たり前になっている。だが、社員はノルマなんかで縛られたくない。それが偽らざる本心だ。
 実際、私だって、そんなもんに縛られるのはイヤだ。だから未来工業はノルマを課さない。これも差別化だ。

「ノルマなしだぞ、だからやる気を起こして精一杯働きなさい」という論理なのだ。[1,p100]
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 そもそもノルマを与えて、それを達成したらエサをやるぞ、という発想は、会社が社員を信用していないからだ、と山田さんは指摘する。

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 未来工業はノルマもないから、売上げを伸ばしても、伸ばさなくても、同じ給料を払いますということになっている。そうすると、売上げを伸ばしている社員から不満が出るだろうという話になる。事実、不満も出てくることもある。[1,p102]
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■7.「これだけもらっているのだから、これだけやらなけりゃいけない」

 この問題に対する山田さんの答えは明快だ。

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 だが、自主性と自覚のある社員は努力してでも、自分が任せられていることを果たそうとする。そして、そこまでやっていると、やってない社員は非常に気が引けてくる。

 それに、社員のなかにも新しい価値観が生まれてきて、やってない社員はこう言われるようになる。
「おまえはやっているやつの働きから給料もらうんだから、やってるやつのほうに足向けて寝るなよ」

 つまり、これだけもらっているのだから、これだけやらなけりゃいけないという思いを自然に持てるようにしなければならないということだ。[1,p103]
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「こんな処遇をして欲しいなら、これだけ成果を出せ」と言われるよりも、「こんなに処遇されているのだから、これぐらいやらなくては」と思う方が、人間の素直な感謝と報恩の感情に根ざしているだけに、はるかにやる気も出る。

 同様に、充分な働きができない社員も、自分なりにできることは頑張ろうとすれば、できる社員の不満も和らぐ。そこからチームワークが生まれ、互いの得手不得手をカバーしながら、会社全体としての業績を達成しようというやる気が生まれる。

 社員一人ひとりが「オレがオレが」と競争意識を持ち、足の引っ張り合いをする企業に比べれば、段違いの業績につながってくる。


■8.日本人の美質を最大限に生かした経営

 未来工業の経営はどこででも実現できるものではない。社員の一人ひとりが「こんなに処遇されているのだから、これぐらいやらなくては」と感謝と報恩の気持ちを持っている事、そして力のない同僚に対しても、「あいつなりに頑張っているのだから」と思いやりを持っている事を前提として成り立っている。

 これに対して「自分はこれだけ成果を出しているのだから、もっと給料を貰って当然」と欲の皮を突っ張らせたり、「あいつは成果を出してないのに、なぜオレと同じ給料を貰っているのか」などと不平不満を抱くような社員が多かったら、うまく行かないだろう。

 日本の社会には、感謝、報恩、思いやりの気持ちを持つ人々が多い。未来工業はその日本人の美質を最大限に発揮させる経営によって、従業員の満足と業績を両立させている。

「オレがオレが」と他を押しのけることを当然とするような国民が多い国で、未来工業の経営を真似したら、目も当てられない結果となろう。

 未来工業のような経営が可能であるという事は、他国には真似が困難な、我が国独自の強みなのだ。このような企業がさらに増えていけば、我が国はさらに経済的豊かさと国民の幸福の両立する国になっていくだろう。そうした日本のあるべき「未来」を未来工業は指し示しているのである。

(文責:伊勢雅臣)

日本ってホントにスゴイところ

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

ライブドアニュースより、日本ってホントにスゴイところ(3/3)=「涙が出そうだった」です。日本人の民度の高さとおもてなしの心が中国人の心を揺り動かしたのだと思います。

 


2015年3月5日、中国のインターネット掲示板に、日本人に関するさまざまな書き込みが掲載された。

 

日中の政治的な緊張とは相反するように、日本を訪れる中国人観光客が増加している。

「反日が日本を訪れると親日になって帰ってくる」と言われるほど、日本のソフトパワーは中国人の心を揺り動かしている。

もちろん、日本を訪れるすべての人がこのような体験をしているわけではないだろうが、中国のインターネット上には「日本で感動した」「日本人に驚いた」という体験談が多数存在する。

以下は、掲示板に掲載された中国人の声。

「福岡のデパートの中の書店で数十冊の漫画を買ったら、レジのお姉さんが『カバーをかけますか?』と聞いてきた。

無料だそうだ。私がお願いすると、お姉さんは笑顔で1冊1冊カバーをかけ始めた。それに比べて、香港人は本土人とそれ以外の人に対する態度がまったくの別物!」

 

「日本人は確かに礼儀正しい。

この前、休暇をハワイで過ごしたとき、同じホテルにたくさんのアジア系の人が泊まっていた。大声を張り上げるのは中国人か、そうでなければ韓国人。

言葉を発していなくても見分けることは簡単だ。エレベーターに乗るとき、日本人は基本的に全員、会釈をするが、中国人や韓国人は大手を振って乗り込む」

「日本で自転車を借りるときに保証金を請求されたことは一度もない。それどころか、ガレージのカギまで手渡してくれて、『帰りが遅くなったらこれで開けて』と言われた。日本は安心して暮らせる都市だと実感した」

「日本から北京首都国際空港に戻ってくるたびに、格差を感じる」

「京都のある酒蔵へ行こうとしたが、道がわからなくなってしまった。

空はもう暗くなり始めていたので、私たちは日本語が満足に話せないのも気にしていられず、交番で道を尋ねることにした。交番で見せられたのは大きな地図。

あれこれとやり取りをした結果、ようやく方向がわかった。

しかし、思いもよらぬ落とし穴が待っていた。その酒蔵では商品の販売は行っていなかったのだ。

酒蔵の女性は私たちが観光客だと知ると、商品が買えるデパートの地図をパソコンでプリントアウトしてくれ、行き方まで教えてくれた。私たちは涙が出そうだった」(翻訳・編集/北田) 

 

降りかかる逆境と試練が 私の人生の花を咲かせた

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、『致知』2014年7月号 特集「自分の花を咲かせる」より、
”降りかかる逆境と試練が 私の人生の花を咲かせた”です。


愛媛県西条市に「のらねこ学かん」という
知的障碍者のための通所施設があります。


ここを自費で運営し、ハンディのある人たちの
人生の花を開かせている塩見志満子さん。


そんな塩見さんの人生は、
まさに試練に次ぐ試練の連続でした。


壮絶かつ感動的な人生体験、
そこから掴まれた信条を学ぼうと、
いま全国各地から講演の依頼が舞い込んでいます。


塩見さんが語った
「降りかかる逆境と試練が私の人生の花を咲かせた」とは――。



――そこから学かんの立ち上げまでは
  どのように進むのですか。


一つのきっかけとなったのは私が38歳の時に、
小学2年生の長男を白血病で失ったことです。


白血病というのは大変な痛みが伴うんですよ。
「痛い、痛い」と叫ぶと脊髄から髄液を抜く。


そうすると痛みが少し和らぐ。
それを繰り返すわけですよ。


ある時、長男はあまりの痛さに耐えかねて、
そんなこと言う子じゃないんですが
「痛いが(痛いぞ)、ボロ医者」と大声で叫んだんです。


主治医の先生は30代のとても立派な方で
「ごめんよ、ボク、ごめんよ」と手を震わせておられた。


長男はその2か月半後に亡くなりました。
49日が済んだ後、主人と2人、
お世話をかけたその主治医の先生に
御礼を言うために病院に行きました。


ところが、いらっしゃらないんです。


聞いてみたら、長男が死んだ後、
「僕は小児がんの研究をするためにアメリカに渡る」と
すぐにその病院を辞められたと。


私たちは「ボロ医者」という長男の一言が、
この先生をいたく傷つけたかもしれないと思うと
申し訳なさでいっぱいでした。


後で知ったのには、その先生は10年間
アメリカで小児がんの研究をした後、
小児がんの権威となり日本の国立小児病院に帰ってこられたそうです。


いま思い出しても本当に素敵な先生でしたね。


――そうでしたか。


長男が小学2年生で亡くなりましたので、
4人兄弟姉妹の末っ子の二男が3年生になった時、
私たちは


「ああこの子は大丈夫じゃ。
 お兄ちゃんのように死んだりはしない」


と喜んでいたんです。


ところが、その二男もその年の夏にプールの時間に
沈んで亡くなってしまった。


長男が亡くなって8年後の同じ7月でした。


――プールの事故で突然……。


近くの高校に勤めていた私のもとに
「はよう来てください」と連絡があって、
タクシーで駆けつけたらもう亡くなっていました。


子供たちが集まってきて
「ごめんよ、おばちゃん、ごめんよ」と。


「どうしたんや」と聞いたら10分の休み時間に
誰かに背中を押されてコンクリートに頭をぶつけて、
沈んでしまったと話してくれました。


母親は馬鹿ですね。


「押したのは誰だ。犯人を見つけるまでは、
 学校も友達も絶対に許さんぞ」


という怒りが込み上げてくるんです。


新聞社が来て、テレビ局が来て大騒ぎになった時、
同じく高校の教師だった主人が
大泣きしながら駆けつけてきました。


そして、私を裏の倉庫に連れていって、こう話したんです。


「これは辛く悲しいことや。だけど見方を変えてみろ。
 犯人を見つけたら、その子の両親はこれから、
 過ちとはいえ自分の子は友達を殺してしまった、
 という罪を背負って生きてかないかん。

 わしらは死んだ子をいつかは忘れることがあるけん、
 わしら2人が我慢しようや。
 うちの子が心臓麻痺で死んだことにして、
 校医の先生に心臓麻痺で死んだという診断書さえ書いてもろうたら、
 学校も友達も許してやれるやないか。
 そうしようや。そうしようや」


私はビックリしてしもうて、
この人は何を言うんやろかと。


だけど、主人が何度も強くそう言うものだから、
仕方がないと思いました。


それで許したんです。友達も学校も……。


――普通の人にはできないことだと思います。


こんな時、男性は強いと思いましたね。


でも、いま考えたらお父さんの言うとおりでした。


争うてお金をもろうたり、
裁判して勝ってそれが何になる……。


許してあげてよかったなぁと思うのは、
命日の7月2日に墓前に花がない年が1年もないんです。


30年も前の話なのに、毎年友達が
花を手向けてタワシで墓を磨いてくれている。


もし、私があの時学校を訴えていたら、
お金はもらえてもこんな優しい人を育てることはできなかった。


そういう人が生活する町にはできなかった。
心からそう思います。


――宝物のような我が子を2人も失うという大変な逆境を、
  よくぞ乗り越えてこられましたね。


でも、この苦しみは抜け出そうと思っても
なかなか抜け出せるものではありませんでした。


  * * *


その後、人生のパートナーであった
ご主人も交通事故で他界。

自分を一番近くで支え続けてきた最愛の人を失います。

ネパールを救った現代の二宮尊徳

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、国際派日本人養成講座 の人物探訪より、 近藤亨 ~ ネパールを救った現代の二宮尊徳です。

  ネパールの飢えと寒さに泣いている大勢の子供たちを救うために、家族の反対を押し切り、活動費を捻出するため先祖伝来の家屋敷や山林まで手放した。 そして、近藤亨さんは70歳の誕生日に単身ネパールの秘境に旅立たいました。 

近藤さんが秘境の貧しい村人を救うため、70歳からの挑戦が克明に書かれていますのでお読みください。

 


 ■1.70歳、単身でネパールへ出発

  ネパールで10数年も国際協力事業団(JICA)の果樹栽培専門家として現地指導をしてきた近藤亨(とおる)さんが定年を迎え、無事に帰国をしたのを祝って、東京で盛大な帰国祝賀会が開かれた。平成3(1991)年のことである。

  ブラジルから駆けつけた学友の佐藤隆・元農相はじめ、各界の名士の祝辞が続いた後、近藤さんが答辞に立った。激励に感謝し、JICA時代の悲喜こもごもの思い出を語った後、最後に威儀を正して、こう言った。

 __________
  皆様、私はこれから再び、今度は一個人の奉仕活動としてネパール中でも秘境中の秘境ムスタンへ間もなく旅立ちます。今後はJICAを離れて全く個人の支援活動ですから、何卒(なにとぞ)一層の熱いご支援を賜りたく切に切にお願い申し上げます。

 秘境ムスタンでは、この一瞬でも飢えと寒さに泣いている大勢の子供たちが私どもの温かい援助の手を必死で待ち望んでいるのです。どうぞ宜しくお願い申し上げます。[1,p18]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  思いがけない決意表明に、会場は一瞬シーンとなり、やがて満場の拍手が湧き起こったが、それが静まると今度は騒然となった。近藤さんの奥さんと娘さんたちは詰め寄って、これまで何も聞かされていなかった、と憤り、佐藤氏も友人として「家庭を守り頑張ってこられた奥さん娘さんと一緒に人並みな家族生活を営んだらどうか」と切々と苦言を呈した。

  近藤さんは、こうした猛反対を予想して、あえてこの公の場で自らの決心を公表して、退路を断ったのである。家に帰ってから、近藤さんは家族を集めて、声涙下る思いで堅い決意を伝えた。

 __________
  このたびの親父の我が儘をどうか黙って許してくれ。必ず、私は秘境の貧しい村人を救うため、立派な仕事をして見せるから。[1,p19]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  決心を変える人間ではないことをよく知っている家族は、半ば諦め、半ばあきれかえった。さらに近藤さんはムスタンでの活動費を捻出するため、先祖伝来の家屋敷や山林まで手放した。

  平成3(1991)年6月18日、家族が見送る中を、近藤さんはムスタンに向けて旅立った。70歳の誕生日であった。


■2.「この一瞬でも飢えと寒さに泣いている大勢の子供たち」

  ムスタンは、ヒマラヤ山脈の北側にある。標高3千~4千5百メートルの高冷地で、毎秒10~20mの強風が一年中、昼から夕刻まで吹き荒れる。さらに年間降雨量が100~150ミリという超乾燥地帯でもある。世界でも希に見る、農業に不向きな土地であった。

  住民が畑で作り、主食としているのは、裸麦、ライ麦、ソバだけで、野菜はソバの緑の葉を茹(ゆ)でて食べる、それがなくなれば、川辺の雑草を食べる。肉や白米は冠婚葬祭の時にしか口に出来ない。これでは栄養も偏り、平均寿命は45歳でしかなかった。

  働き手は男女を問わず、カトマンズや、国境を越えてインド、タイ、シンガポールまで出稼ぎに行くが、自分の名前すら書けないので、どこへ行っても最低賃金の重労働の仕事しか得られない。

 「この一瞬でも飢えと寒さに泣いている大勢の子供たち」というのは、誇張ではなく、近藤さんが見てきた現実であった。

  ムスタン地方の貧しさを救うべく、アメリカの自然保護団体が5年の年月と巨費を投じて、植林を試みたが、失敗して3年前に引き上げていた。またネパール政府がリンゴ栽培や畜産などの農業振興に取り組んでいたが、いずれも厳しい気候条件下で失敗していた。

  近藤さんは、そんな秘境の地に、70歳の老齢ながら、単身で乗り込んでいったのである。


■3.黄金の稲穂

  近藤さんが取り組んだプロジェクトの一つに、高地での稲作がある。日本一の水稲王国新潟で生まれ育った近藤さんは、黄金の稲穂をこの地で生み出そうと決心した。

  もともと熱帯性植物であるイネを、品種改良してきたとは言え、高地栽培は日本でも新潟や長野などでの標高1千mが限界だった。それをいきなり標高2750mの河川敷台地で栽培しようとしたのである。成功すれば、世界最高地での記録となる。

  近藤さんは、北海道や青森などの試験場を訪ねて、冷寒用品種の種子を分けて貰い、試しに植えてみた。いずれも、出穂期、穂膨(ばあら)み期までは順調の発育するのだが、最後はすべて「しいな(皮だけで実のないモミ)で終わってしまう。

  そんな時、故郷の農業試験場の専門家から、重要なアドバイスを得た。稲はどんなに立派な穂が出来ても、出穂期に15度以下に気温が下がると、「しいな」になってしまう、というのである。

  それならと、7月の初めから田んぼの上全面にビニールシートを懸けて、保温してみようと思い立った。しかし、問題は毎日吹く風速10~20mの強風である。これに吹き飛ばされないように、ビニールシートを張らなければならない。

  そこで、水田の中に、大量の竹を高さ1mほどに立て、その上に縦、横、×字に竹を指し渡して、ビニールシートをしっかりと固定した。

  3千m近い高地だが、日差しは強い。ビニールシートの下は朝でも水温20度とむっとする温度を保った。毎日、祈る思いで水田を見た。やがて見事な黄金の稲穂が立ち並んだ。どの株も丸々と太り、着粒数も申し分なかった。

  平成8(1996)年9月、苦節4年にして、ネパール人青年スタッフたちと、初めての稲刈りを喜びに沸きながら無事に済ませた。その夜、近藤さんは感激に胸が震えて、いつまでも寝付かれなかった。


■4.石垣ポリハウス

 近藤さんは、この技術を発展させて、標高3千6百mの高冷地ガミ農場で試してみる事とした。富士山頂に近い高さである。

  その矢先に、郷里の米作りのアドバイサーから再び貴重な助言が届いた。ポリエステル波板パネルを使えば、ビニールシートより高価だが、耐用年数は15年から20年に延びるという。

  さっそく調べてみると、幸運にもカトマンズで、昨年からポリエステル生産工場が操業を開始していた。すぐに透明パネル200枚を発注して、車で運べる所まで運んで貰い、そこからは一人10枚づつ背負って、人力でガミ農場まで運んだ。

  パネルは高価なので、少しでも安価に仕上げるために、側面を石垣で囲い、屋根だけポリエステルパネルで張ることにした。石垣は厚さ60センチ、屋根側は2m、裾側は1.5mとして傾斜をつけた。石と石の隙間は泥で密閉した。

  石垣作りは家造りに使われる技術で、この地方の人々にはお手の物だった。大小の岩を鉄のハンマーで打ち砕き、小さい金槌(かなづち)で手頃の大きさに形作る。それを直線に張った縄に沿って、垂直に積み上げるのである。


■5.「こんな高地でよくも素晴らしい稲を実らせたものだ」

  石垣とポリエステルパネルの組合せは威力を発揮した。日中の強烈な太陽光線による輻射熱がハウス内に籠もり、春から晩秋まで最低でも20度以上、最高は35度に達した。深夜、早朝の外気温は10度前後でも、ハウス内は常夏の熱帯~亜熱帯の気候である。

  これに自信を得て、今までの対寒冷用水稲品種ではなく、人気のあるコシヒカリを植えた。石垣ポリハウスの高い保温力で、これまでのビニールよりも稲の草丈も優り、豊かな実をつけた。

  正式な収量測定のために、国立作物試験場のシレスター博士にカトマンズからヘリコプターで来て貰った。早速、石垣ポリハウスに案内すると、博士は驚嘆の声をあげた。「ミスター近藤。こんな高地でよくも素晴らしい稲を実らせたものだ」

  正式な収量調査の結果に、博士は仰天した。「なんと素晴らしいことであろう。10アール当たり600キログラム弱、これはネパール平野部の水田地帯に比べて、50パーセント近く多い収量ですよ」

  石垣ポリハウスは、野菜を作るのにも威力を発揮した。稲の刈り取り後、あるいは通年使う専用ハウスで葉菜類やトマト、ナス、キュウリ、日本カボチャ、メロンなどが次々と見事に実った。真冬でも冬野菜を作って、新鮮な状態で食べることができるようになった。


■6.魚の養殖

  稲作と並行して進めたのが、魚の養殖である。チベット高原を源流として、雪解け水を集めながらムスタンを流れるカリ・ガンダキ川上流は、激流のため魚が住める環境ではなかった。そのため、ムスタンではこれまで魚を見たこともない人たちが大部分であった。

  近藤さんは水稲栽培のために、溜め池を作り、冷たい雪解け水をパイプで引き、そこで太陽光で水を温める事を考案していた。その溜め池で魚を養殖すれば、一石二鳥である。

  ネパールの国立養魚試験場から鯉の稚魚を入手し、ニジマスは日本の十和田湖の水産試験場から受精卵を分けて貰った。飼料は近隣でとれるソバ、ライ麦などに、カルカッタから入る養鶏用の海魚の乾燥魚骨を混ぜて団子状にして与えると上々の食いつきだった。

  稲作が成功した後は、田植えを終えた水田に鯉の稚魚を放し飼いした。ハウス内の高温で育ちも良く、9月上旬までの3ヶ月あまりの間に、2~3センチの稚魚が10センチ前後に成長した。稲刈り直前に鯉をため池に移し、食べたいときに池から捕って、食膳に供する。近所の子供たちも珍しそうに魚を見に来る。

  4年目の11月中旬、試しに食べ頃のニジマスや鯉を100キログラム、市場に出した所、あっという間に売り切れた。牛・豚・鶏の肉を忌み嫌うヒンズー教徒の多いネパールで、魚は貴重な動物性タンパク質源として歓迎されたのである。

  インド国境近くでも、鯉の養殖がJICAの協力で行われていたが、生活汚水などの影響で、味は泥臭さが抜けきれない。しかし、ムスタンの鯉は、ヒマラヤ山麓の水で養殖しているからおいしく、ニジマスも寄生虫の心配がないので刺身でも食べられるのである。


■7.「ムスタンのリンゴ」

  加藤さんはもともと果樹の専門家で、JICA時代にムスタンの状況を調べて、耐寒性の強いリンゴ、アンズ、ブドウ等の果樹栽培を提案していた。その提言に従って、ネパール政府がリンゴ栽培に乗り出したが、失敗していた。指導すべき技師たちが、ムスタンのあまりにも厳しい気候に耐えきれず、定住を拒んだのである。

  近藤さんは、自分の提言は決して間違ってはおらず、失敗の原因は、何がなんでもやり通すという意欲の欠如と、ムスタンの厳しい気象条件を無視した技術指導にある、と考えた。

  おりしも、リンゴ栽培に失敗したドンバ村の人々が、助けて欲しいと依頼してきた。そのリンゴ園を実際に見て、近藤さんは驚いた。8ヘクタールの園地を立派な高い石垣で囲み、一番高い所に大きな貯水池が設けられ、通水路も立派に作られている。

  しかし、葉は未だ9月中旬なのに黄色がかって小さく、所々実がついている木は鈴なりに小さいリンゴが成り放題だった。近藤さんは、2,3年のうちに、立派なリンゴ園に蘇らせてやろうと決心した。近藤さんは村の優秀な若者数人を集めて貰い、手取り足取りの指導を始めた。

 __________
  うまい大きなリンゴを栽培するには絶対にこんなに鈴なりにならせてはいけません。一つの花群に一つ、それも一番真ん中の果実のじっくり太った中心の実を一つだけ残し、後は全部間引いて捨てるのです。
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  さらに丈の高い幹を切って、低い位置で実を成らせ、風にやられないようにする、どの枝にも日光が良く当たるように剪定する事などと教えた。若者たちは理解も早く、近藤さんの手足となって良く働いた。

  数年を経て、立派なリンゴがたくさんとれるようになった。「ムスタンのリンゴ」としてブランド化され、ネパールの高級スーパーでも取り扱われるようになった。[2]


 ■8.「日本人の根性」

  近藤さんはさらに、松や檜の植林、乳牛の飼育とミルクやバターの生産、小中学校や病院の建設など、八面六臂の活躍を続けている。今も91歳の老齢をものともせず、標高3600mの高冷地の一室に暮らしながら、ムスタンの人々のために尽くしている。

  こうした功績が高く評価されて、2013年にネパール民主政府から最高栄誉となる「スプラバル・ジャナセワスリー1等勲章」を外国人としては初めて受賞した。

  ムスタンでは近藤さんを知らない人はいない。近藤さんがどこに行っても、子どもからお年寄りまで「近藤バジェ(おじいさん)ナマステ(こんにちは)」と笑顔で挨拶してくる。

 「真の国際協力は深い人間愛であり、決して物資、金品の一方的供給ではない。支援を受ける人々が心から感謝し、自らが立ち上がる努力をはらう時、初めてその真価が現われるのである」と言い、「ボランティアやNPOもこういう日本人の根性を勉強しなければいけない」と笑う。[2]

 近藤さんの言う「日本人の根性」とは、江戸時代に多くの農村の復興を指導した二宮尊徳を思わせる。その土地の自然に随順しながら、自らの工夫と努力で豊かな生活を作り上げていく。それは自然を守りながら、豊かな生活を作り上げるわが国伝来の道である。

 (文責:伊勢雅臣)

 

 

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