勘違いしてませんか!

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、小林正観氏の著書「鳴かなくてもいいホトトギス」より、

”勘違いしてませんか!” です。

ほんとうに大事な宇宙の法則なんですが、意外と知られてない? 意外と実行されていない事だと思いますので、参考にしてみてください。

以下、その内容です。



 「言葉が現象化する」というのを聞くとヽ多くの人は、自分が言葉に出して希望したことが実現するんだ」というふうにとらえるかもしれません。

 私がこういう関連の話を講演ですると、必ず同じように聞いてくる人がいます。

 「つまり、言った言葉が現象化するということですね。自分の言った希望が叶うということですね。
強く望めば必ず叶うということですね」と。

 私が言っているのはそういうことではありません。

言葉が現象化するというのは、次のようなことです。

 「良縁に恵まれますように。いい人が現れてくれますように」と1年で1000回言ったとします。
 そうすると、翌年も同じ言葉を言いたくなるような現象が起きるということです。

 つまり、いい人が現れない。現れない状態がずっと続く、ということにほかなりません。


 「商売繁盛、もっと売り上げが上が゜てほしい。売り上げを上げたいんです」
というふうに1000回言ったとすると、その言葉をもうー度言いたくなるような現象が、
1000回起きるということです。


 言菓が現象化するというのは、「その夢や希望が実現する」という意昧ではなくて、
「その言葉をまた言いたくなるように現象化する」ということを言っています。


 これが私の発見した宇宙法則です。


 言った言葉が、念じたことが、そのまま必ず実現する。




「夢や希望が実現するんだ」という宇宙法則は、私の中にはありません。



 言った言葉がそのまま実現する。

夢や希望が叶うのであれば、世の中から倒産する人はいなくなるのではないかと思います。

 仮に、[神様、お金に困らないようにしてください]と年問5000回言ったとします。

そうすると、翌年また「お金に困らないようにしてください」と言いたくなるような現象が5000個降ってきます。
5000回その言葉を言いたくなる ように現象化します。

 つまり、お金に困っているという状態がずっと続きます。

「お金に困らないようにしてください」と言ったこと自体が、その回数分、そのままの現象として降ってくるのです。


 では、そういう因果関係が、そういう宇宙法則がわかったら、どうこの宇宙法則を使いこなせばよいか。


 答えはとても簡単です。


「嬉しい」とか、「楽しい」とか、「ああ幸せ」とか、そういう言葉を仮に1万個ずつ言ったとします。


 そうすると、その言葉を1万個言いたくなるような現象が現象化して、私のまわりを取り囲みます。

 「嬉しい」と1万回言ったとすると、翌年また、「嬉しい」と言いたくなるような現象が1万個降ってきます。

 「楽しい」と1万個言ったとすると、来年私がまた「楽しい」と言いたくなるような現象が1万個降ってきます。

 「辛せ」と言ったときに、その言菓をまた言いたくなるような現象が、来年1万個降ってきます。



 こういう因果関係ですから、この宇宙法則を使いこなすと、人生はすごくラクで楽しいものになります。


 努力や頑張りは要りません。

ただ、その自分の使っている言菓というものが現象化するということに、気がつけばよいのです。
 
私たちは、自分の中に打ち出の小づちを持っているということになります。


そのまま喜びの言葉を口にすれば、その数だけ、また来年その言葉を言いたくなるように現象が降ってくるということです。

クロマグロ完全養殖までの32年

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、国際派日本人養成講座より、 「近大マグロ ~ クロマグロ完全養殖までの32年」です。

32年かけて世界初のクロマグロ完全養殖に成功した「魚飼い」たちの執念。


 
 
■1.グランフロント大阪の「近畿大学水産研究所」

 JR大阪駅の北側は、大阪の中心街に隣接しながら、かつては巨大な、しかし人寂しい操車場だった。それが今や賑やかな巨大ショッピング・モール、「グランフロント大阪」に生まれ変わっている。

 その一角に「近畿大学水産研究所」がある。名前からすると研究オフィスかと思ってしまうが、実際はカウンター席やテーブル席で100人近くも入れそうな小洒落た居酒屋風の店である。

 午後5時ちょっと過ぎに行ってみたら、もう店内は満席で、入り口の前の通路にはロープが張ってあって、数十人が並んで待っている。ここは世界で初めて完全養殖に成功したマグロを食べさせてくれる店なのだ。

 カウンター席が空いたので、そこに座り、早速、赤身、中トロ、大トロのマグロ3種盛りを頼んだ。醤油をつけて舌の上にのせると、とろけるような旨みが広がる。

 テーブルの上にはタブレットが置いてあって、32年にわたる完全養殖に成功するまでの経過を一覧することができる。それからさらに12年を経て、独自店舗を出しても成り立つ商業化の段階に到達したということだろう。


■2.「魚飼い」たちの実学

 マグロ完全養殖研究の中心人物、熊井英水(ひでみ)が近畿大学臨海実験所副手として採用されたのは、昭和33(1958)年7月1日のことだった。

 この実験所の前身は、戦後の食糧不足の中にあって、近畿大学初代総長・世耕弘一(せこう・こういち)によって、「日本人全員の食料を確保するには、陸上の作物だけでは不十分である。土地と同じように海を耕し、海産物を豊かにしよう」という志で設立されていた。

 この志から、実験所には世の中に役立つ実学を追究するという姿勢を抱き、自分たちを羊飼いならぬ「魚飼い」と考えていた。

 ちょうどその頃、ハマチの養殖に成功し、大阪の中央卸売市場に売り出した。自分たちが育てた魚の市場価値を確かめるという意味もあるが、大学本部からの乏しい研究予算を補う、という目的もあった。今でいう大学発ベンチャー企業である。

 市場では海が時化(しけ)たときに値段が上がるので、こういう時を狙って、養殖場から朝の4時に水槽車で大阪に届ける。近大のハマチは、色や形、身の付き具合もよく市場評価も上々だった。

 熊井が副手となった昭和33(1958)年には9千尾を出荷し、4百万円もの売上げがあり、これで実験施設を充実させた。昭和40(1965)年には世界初のヒラメの完全養殖に成功、その後、ヘダイ、イシダイ、ブリと完全養殖の魚種を広げていった。

 また完全養殖が可能になった魚種を、品種改良により、より養殖しやすい品種にする「選抜育種」の研究も同時に行われた。たとえば、マダイは天然のものだと1kgに成長するのに3年を要するが、成長の早い個体を選択し5、6代掛け合わせたところ、1年半ほどで成長する品種が育った。

 こうした品種は、全国の養殖業者の評価が高く、マダイの稚魚出荷量は平成元(1989)年には一千万尾に達し研究所の運営基盤を固める事に大いに貢献した。


■3.クロマグロへの挑戦

 取り上げる魚種に関して、研究所内では「最後はクロマグロだな」という思いが共有化されていた。クロマグロは、マグロの中の最高級種で、「海のダイヤ」との異名を持つ。需要が増大している一方で、漁獲量が頭打ちになっており、また規制強化の流れがあった。

 クロマグロは、地中海沿岸などを中心に、捕獲した天然マグロを直径30m~90mの巨大な生け簀(いけす)で数ヶ月飼育して、成長させてから出荷する「畜養」が行われていた。

 しかし、それ以外のマグロの生態については、ほとんど知られておらず、完全養殖のためには、産卵、孵化、仔稚魚の餌付け育成、幼魚から成魚への育成と、ほとんどのプロセスで研究開発の必要があった。

 昭和45(1970)年、水産庁は「獲る漁業から、作り育てる漁業」をマグロにも適用するために3年間の「マグロ類養殖技術開発企業化試験」を開始し、全国5ヵ所の施設に研究委託をした。近畿大学もその一つとなった。


■4.「そんなもん絶対に無理!」

 研究は、まずクロマグロの幼魚ヨコワを獲り、生け簀で育てるプロセスから始めた。太平洋におけるクロマグロは、日本南方からフィリピン沖の西太平洋で孵化した後、黒潮に乗って北上し、夏から秋にかけて10~20センチメートル程度のヨコワとなって日本沿岸にやってくる。

 熊井は黒潮に洗われる本州の最南端、和歌山県串本周辺の漁師にヨコワを獲れるか、と聞いてみたが、みな異口同音に「そんなもん絶対に無理! ヨコワは手で触っただけでもすぐに死んでしまう」と答えた。ヨコワは鱗(うろこ)が細かくて弱く、ちょっと傷ついても、そこから腐って、死んでしまう、という。

 昭和45(1970)年8月10日、近大所有の2隻の漁船で漁を行い、25尾を生け簀に収容したが、9月1日時点で生きていたのは、わずか8尾。釣り上げる際に身体を傷つけてしまったのが、原因だった。さらに生き残ったヨコワも、ある日、全滅していた。

 調べてみると、餌の食べ残しが海底に沈んで、好気性のバクテリアが発生し、そのために海中の酸素が減って、ヨコワが酸欠に陥って、死んでしまったと判明した。ハマチが酸欠で死ぬことはなかったが、ヨコワは酸欠にも非常に弱かったのである。

 再度、捕獲したが、今度は台風の大波で生け簀の網が一方に吹き寄せられ、ヨコワの身体が網で損傷して全滅という事態になった。

 こういう試行錯誤を繰り返しているうちに研究委託の3年は終わってしまい、予算は打ち切られた。委託を受けた他の研究施設も同様で、結果を残せずに撤退した。しかし近大水産研究所は、ハマチなどで稼いだ資金を投入して「完全養殖を必ず成功させる」と、諦めようとはしなかった。


■5.ついに産卵、しかし、、、

 水産研究所では、ヨコワを傷つけずに釣り上げるために、擬餌針の構造、釣り上げてから生け簀に移すまでの方法、大波に襲われても網が偏らない新しい構造の生け簀など、地道な工夫を積み重ねていった。

 そのたびにヨコワの生存率が少しづつ上がっていった。研究を始めて4年目の昭和49(1974)年に捕獲したヨコワが、冬を越し、夏を越して成長を続けていった。

 これらのヨコワが、昭和54(1979)年に満5歳となり、1.5~2メートル、体重50~100キロのクロマグロに成長した。生け簀も直径16メートル、さらには30メートルと広いものに移し替えられ、その中を悠々と泳いでいた。

 その年の6月、これらのクロマグロの自然産卵が確認された。世界で初めてである。水面に浮かぶ卵を集卵ネットで注意深く捕獲し、顕微鏡で見ると、一つひとつの卵の直径は約1ミリ。メンバーは、この卵から体長数メートルのクロマグロが産まれていくのかと思うと、信じられないような気がした。

 約160万粒の卵が採集され、産卵時と同じ水温25度の孵化水槽に移された。35時間後に孵化が始まり、卵からかえった2.8ミリほどの孵化仔魚が、3、4日目になると、口が開き、目もはっきりしてきた。

 しかし、7日目には孵化仔魚たちは突然死んで水槽の底に沈み始めた。何故なのかはまったく分からない。餌を変えるなどしてみたが、効果がない。結局、47日目には全滅してしまった。

 昭和55(1980)年とその翌年年にも産卵があったが結果は同じだった。さらに昭和58(1983)年以降は、産卵そのものが止まってしまった。生け簀の場所を移動したり、成熟作用のあるビタミンEを含む餌を与えたりと、さまざまな工夫を重ねたが、産卵のない年が7年、8年と続いていった。

 おりしも「大西洋まぐろ類保存国際委員会」で大西洋マグロが激減していることを理由に、クロマグロの国際取引を禁止する提案が出された。マスコミは「もうクロマグロは食べられなくなる」と事態を煽っていた。


■6.「生き物とはそういうものですよ。簡単にいくはずがない」

 平成3(1991)年、前所長が急逝し、熊井が所長を引き継いだ。しかし、翌年も、翌々年も産卵は見られなかった。熊井は、莫大な研究費をつぎ込みながら、すでに20年近くも停滞している研究を続けてもいいものだろうか、と迷い、近畿大学の2代目総長・世耕政?(まさたか)のもとを訪ねた。

「もうやめろ」という答えも覚悟していた熊井に、世耕はこう言った。

__________
 生き物とは、そういうものですよ。簡単にいくはずがない。気を長くもって、長い目でやってください。[1,p94]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 熊井はこの言葉を聞いて、目が覚めたような気がした。すっと気が楽になり、またやってやろうという気力が湧いてきた。すると、あたかもそれを待っていたかのように、クロマグロが12年ぶりに産卵を再開したのである。

 昭和62(1987)年に捕獲した約3200尾の中から生き残って全長2メートル近く育っていた7年魚約200尾が、平成6(1994)年7月3日自然産卵を開始した。この年は約8400万粒を産卵、うち264万粒を孵化水槽に収容した。

 今回は、塩分濃度を調整したり、気泡を発生するエアレーターを置いて、沈んで死んでしまうケースや浮かび上がって死んでしまうケースを防いだ。また共食いが発生したので、6千匹の仔魚を大きさ毎に仕分けする作業までした。

 こうした努力の甲斐あって、全長5センチほどに成長した1972尾の稚魚を海面の生け簀に移した。しかし、翌朝、生け簀の中で、稚魚が大量に死んでいるのが見つかった。死んだ稚魚を調べてもその原因は分からない。1ヶ月後に生き残っていたのは、わずか43尾だった。


■7.「継続は力なり」

 そんなある日、研究所で突然、停電が起こった。ブレーカーを上げて、明かりをつけると、魚が水槽に激突する「バシッ、バシッ」という音が聞こえてきた。突然点いた明かりに驚き、パニックを起こして突進し、水槽の壁に激突していたのだ。

「もしかしたら、大量死の原因はこのパニック現象ではないか」と考えて、生け簀を観察すると、昼間は何も起きないが、夜は海岸沿いの県道を走る車のヘッドライトに驚いて、パニックを起こし、生け簀のシートに突っ込んで、衝突死していた事が分かった。

 これをヒントに研究を続けた所、マグロは明暗の変化にパニックを起こすことが分かり、24時間150ルックス以上の明るさを確保すれば、パニックによる衝突死が減らせることが分かった。この知見を近畿大学は特許にしている。

 また、串本の実験場では12年ぶりに再開した産卵の後も、再び途切れる年があったが、これは水温が低くなるためではないか、との推測から、平成13(2001)年には奄美大島で実験場を開設した。こちらでは産卵が毎年、安定的に続き、しかもマグロの成長スピードも早いことが分かった。

 ここから採取された受精卵から稚魚を経て、海面の生け簀にたどり着くまでの率も大幅に向上していった。


■8.「魚飼い」たちの執念

 平成7(1995)年と翌年に生まれて生き残っていた稚魚・合計20尾が6,7歳となった平成14(2002)年6月、雄が雌を追う追尾行動が確認された。そして、6月23日、5千粒の産卵を確認。実験場で生まれ育った第2世代が第3世代を生んだことで世界初のマグロの完全養殖に成功したのだった。

 この年には受精卵134万粒が採取され、それらから過去最高の1万7307尾の稚魚が海面の生け簀に移された。これらの中から2年後の平成16(2004)年8月末には939尾が体重16~30キログラム、全長90~115センチに成長し、完全養殖クロマグロとしては世界で初めての出荷が行われた。

 3尾が大阪や奈良の百貨店に出荷されたが、天然マグロに比べても「脂がのっていてうまい」と評価され、本物の高級マグロが天然ものよりも5割程度安い価格で買えると好評だった。

 研究を始めた昭和45(1970)年から完全養殖成功まで32年、初出荷まで34年の歳月が流れていた。まさに「魚飼い」たちの執念が生んだ成果であった。

 現在は初出荷から10年経った。完全養殖の技術はさらに磨きをかけられて、今やグランフロント大阪に独自の店を出すまでになった。

 世界的にマグロの需要増大と捕獲制限強化の中で、完全養殖、すなわち養殖場の中での産卵と育成という無限サイクルが成立している以上、天然マグロが完全に捕獲禁止となっても日本人だけはマグロを食べ続けることができる。

 さらに養殖マグロの輸出や技術の輸出で水産業が日本経済を支える柱の一つにもなろう。

 そんな事を思いながら、養殖マグロをいただくと、近畿大学水産研究所の「魚飼い」たちの30年以上の苦労が有り難くも、誇らしく思えて、おいしいマグロがよりいっそう美味しくなった。

(文責:伊勢雅臣)

焦点を定めて生きる

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リペアショプ鹿児島店の坂元です。

今回は、致知出版社の人間力メルマガより「焦点を定めて生きる」です。


塚原卜伝(つかはら・ぼくでん)という
剣術家をご存じでしょうか。


NHKドラマ『BS時代劇』で取り上げられ、
人気俳優・堺雅人さんが演じた人物です。


戦国時代に剣の聖地・常陸国鹿島に生まれ、
幼少より鹿島中古流の太刀を学び、
17歳で武者修行の旅に。


生涯数多の真剣勝負や合戦に臨み、
一度も負傷しなかったという伝説の剣豪。


その塚原卜伝が剣の極意を会得するに至ったという
ある石工との出会いとは――。


その逸話はそのまま、私たちが生きていく上での
「人生の極意」を示唆してくれています。


┌───────今日の注目の人─────────┐



  「剣豪・塚原卜伝の逸話が教える人生の極意」
      ~焦点を定めて生きる~



   ※『致知』2014年5月号
    特集「焦点を定めて生きる」総リードより


└───────────────────────┘


子供の頃、虫メガネに太陽の光を集めて
紙を燃やした経験は多くの人が持っているに違いない。


太陽の光を一点に集中させてじっと固定していると
焦げ目の点ができ、かすかな煙を上げて広がり、
紙がにわかに燃え出す。


焦点をふらふらさせていてはこうはならない。


単純な遊びだが、この現象はそのまま、
人生のあり方を示唆しているように思える。


焦点を定めて生きないと人生は拡散し、
何の結晶も得ぬままに終わってしまう、ということである。


剣豪塚原卜伝にこんな逸話がある。


武者修行で全国を旅していた頃である。
大きな石が道を塞いでいた。


数人がかりでのけようとしたが、
びくともするものではない。


そこに石工がやってきて、
石の一点に槌を打ち込んだ。


大きな石はたちどころに割れた。


どうしてそういうことができるのか、と卜伝は聞いた。


「石には目があります。
 そこに槌を当てるとたやすく割れます。
 目でないところをいくら打っても
 割れるものではありません」


それが石工の答えだった。


卜伝は大いに感じ入り、
剣の極意を会得したという。


焦点を定めることの大事さを教えてくれる話である。


二宮尊徳はまさに焦点を定めて人生を生きた人である。


尊徳は天明7(1787)年に生まれ、
70歳で生を終えた。


それは幕末の国家的動乱期で、
内憂外患の時代であった。


その時期に尊徳は貧困にあえぐ農民救済に焦点を定め、
国事を一切論じず、一滴の血も流さず、一発の銃弾も撃たず、
荒廃した全国600余村を復興し、
疲弊した藩の財政を再建した。


その根本は4つの教えに尽きる。


「至誠を本とし、
 勤労を主とし、
 分度を体とし、
 推譲を用とす」


まごころを根本に置き、懸命に働き、
自分の分限に応じて暮らし、今年得たものは来年のために譲る。


子孫に譲り、社会に譲る――
この報徳思想の普及と実践が、偉大な成果を生んだのだ。


尊徳にはこういう言葉もある。


「それ我道は人々の心の荒蕪を開くを本意とす。
 心の荒蕪一人開くる時は、
 地の荒蕪は何万町あるも憂るにたらざるが故なり」


我が道は人々の心の荒蕪を開拓するのが本意である。
一人の心の荒地を開拓すれば、
土地の荒地が何ヘクタールあろうが心配することはない。
必ず開拓できる、というのである。


人心の荒蕪を開拓する――
この一点に焦点を定めて生きたのが尊徳の人生であった。

トラブル発生です。

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、かめおか ゆみこさんの ★今日のフォーカスチェンジ♪より、「トラブル発生」です。



想定外のことも、それ
が、うれしいことなら
問題はありません。

誕生日のサプライズ
プレゼント、とかね。


問題は、起きてほしく
ない、想定外。(笑)

思わぬハプニング。
トラブル発生です。


ここでパニックになっ
てしまうと、脳は、

あ、とてもまずいこと
が起きた、らしい

と、認識します。


脳は、基本的に、
起きてくることに
善悪の判断をつけません。

それを、私たちが
どう受け止めるかで、
脳の反応が変わるんです。

だから、同じできごとが
起きても、平静でいる
ひとと、あわてちゃう
ひとに分かれるんです。


というわけで。

ハプニング、トラブル
発生において、

もしも、あなたが、
あわてたり落ちこんだり
したいのなら別ですが、

冷静に対処したいなら、
いきなり感情に走らず、
ジャッジをせずに、

まずは、いったんその
できごとを、受け止める
ことをおすすめします。


で、そのときに、
大切なのは、
息を吐くことです。

ひとは緊張すると、
息が止まります。

すると、からだがかたく
なって、気持ちの切り替
えもしにくくなるんです。


だからまず、呼吸する。

実はそのときに、一緒に
声をだしちゃうと、
効果的だったりします。

ひょえええ、とか、
うぎゃああ、とか、
まじかよおお、とかね。(笑)

できたら、からだも
一緒に動かしてください。

手足をばたばたさせたり、
オーバーアクションで、
「おーまいがー」とか
やるのもいいです。(爆)


そうすると、脳が、
「大変なことが起きた」
と認識しつつも、

声を出したり動けたり
する程度の、大変なこと
だと認識するんです。

本当に本当に大変なとき
には、人間、硬直して、
声も出なくなりますからね♪


そしたら、次は、

その1。
じたばたして、
声を出して、からだが
ゆるんだすきに、

「なんとかなる!」と
自分に言う。

ポイントは、ゆるんだ
瞬間です。

脳に、するっと、その
ことばが入っちゃうの
ですね。

そしたら、脳は、
忠実に、その方法を
考えはじめるんです。


その2。
あえて、サイアクの
事態を考えてみる。

人間は、わからない
とか、知らない状態で
いるときが、一番
こわくて、不安なんです。

だとしたら、あえて、
起きうる本当にサイアク
のことを、

できるだけ具体的に
想像してみる。


すると、たとえそれが
サイアクのことだとして
も、想像できたことで、

脳は安心するんです。

そう。その瞬間、
「知らない」ことが、
「知ってる」ことに
変わってますからね。

脳は、知ってることに
たいしては、対応
できちゃうのです。


また実際に、サイアクの
状態が起きたとしても、

なんとかなっちゃうもの
なんですね。

なんとかならない事態が
起きていたら、あなたは
いまここにはいないはず
ですし。

そして、サイアクの事態
というのは、そうそう
起こらないものなんです。

だって、しょっちゅう
起きてたら、サイアクと
はいいませんものね。


なので、実際には、
たいてい、その手前で
なんとかなることしか
起きないんです。

サイアクでないのなら、
なんとか方法は
あるってことです。

わざわざ、あわてたり
落ちこんだりする必要
はありませんね。


その3。
それでも、気持ちが
切り替えにくいと
思ったら、

とりあえず、
「あとでネタになる」
と言ってみてください。

これ、納得しなくても
かまいません。

とりあえず、口に出して
言うことが大切です。

これも、脳を安心させる
ひとつの方法ですから。

で、実際あとになって、
たいていのことは、ネタ
になります。


その4。
天に向かって、
「こんなことしてる
 ひまないんだから、
 なんとかしてよ!」
と、文句を垂れてみる。

意外ですが、これも
効果があります。

脳が、「あ、自分の責任
じゃないんだな」と
安心するんです。(爆)

人間、自分の責任じゃ
ないと思うと、案外、
気軽に行動できます。

使えるものは親でも…
ならぬ、神でも使う…
ということですね♪(*^_^*)

あ、たぶん、やっても
バチはあたりませんよ。

こんなことくらいで
いちいち腹を立ててから、
神サマはつとまりません
からね。(笑)


その5。
それでも、どうしても
どうしてもどうしても、

気持ちが落ちてくる
ような場合は、

「いま起きていること
 は、自分の人生に
 とって、どんな
 意味があるんだろう」
と、考えてみる。

わくわくはしないかも
しれませんが、

少なくとも、
そんなふうに哲学的に
考えてみるほど、

自分の人生は意味のある
ものなのだということに
気づくでしょう。


以上、1から5は、

すべてやらなくては
いけない、というもの
ではありませんし、

順番もこのとおりで
なくてかまいません。

好きな方法、
できそうと思ったこと
を、チョイスしちゃっ
てください。

もっと楽しくなる方法
を思いついたら、
アレンジしちゃっても
いいです。


要は、あなた次第って
ことです。

お楽しみあれ♪(*^_^*)

硫黄島は祖国を甦らせる手がかりだ!

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、国際派日本人養成講座 より「硫黄島は祖国を甦らせる手がかりだ!」です。



 ■1.「奇跡の島」

  日米の最大の激戦が行われた硫黄島(いおうとう)は、アメリカでは「奇跡の島」と呼ばれている。戦後、日米の生き残った戦士やその子、孫、ひ孫が集まって、毎年早春に合同慰霊祭をやっているからだ。

  青山繁晴さんは、硫黄島で生き残った一人、金井啓さん(当時82歳)と会った時、この合同慰霊祭について、こう語った。

 __________
  それなのにそこにやってくるアメリカ軍の生き残りは、自分だけでなくて子や孫、ひ孫に至るまですべてアメリカ国民が支えて、つまりみんなみんな、税金で来ますね。アメリカ国民の支えによって、アメリカの政府とアメリカ軍の支えによってやってくる。

そして亡くなった方々は、ぼくが調べたらケンタッキーに帰った人も、ニューヨークに帰った人も、カンザスシティーに帰った人も、サンフランシスコに帰った人も、みなヒーローになって、そこで褒め称えられて祖国を守った英雄として扱われています。

  ところが日本では生き残った金井さん、あなたは政府が決めた、あんな小さい場所で、そこだけで戦友の遺骨を探し、お金も自分たちで出さなければいけない。そういう扱いを受け、国民からも忘れられ、そして亡くなった方はいまだに滑走路の下や岩の下に閉じ込められたままになっています。[1,p209]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


■2.「この違いは何ですか。日米の違いは何ですか」

  日本から遺骨収容に行く人々は自費で硫黄島に渡り、政府に許されたごく一部の地域でしか、活動を許されていない。そして、米軍が作り、今は自衛隊が使っている滑走路の下には無数の遺骨が、今も眠っている。およそ2万人の戦没者のうち、遺骨として収容されたのは、いまだ8千数百柱に過ぎない。

 __________
  金井さん、この違いは何ですか。日米の違いは何ですか。ほんとうは、日本は戦後教育で日本兵は悪者だったと教えてきたから、英霊は英霊ではなくて悪者だと教えてきたから、悪者だから忘れて良かった、悪者だから放っておいてよかった、悪者だから滑走路の下に閉じ込めて滑走路を便利に使ってよかった、これが戦後日本の本当の真実なんですね。
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  金井さんはそのとき突然、大きな声を出した。

 「その通りっ。俺たちのどこが悪者なんだ。おまえたちのためにみんな戦ったんだ」

  そのたった一言を叫んで、金井さんはまた静まった。


■3.擂り鉢山

  青山さんは金井さんに会う前日、硫黄島に行っていた。硫黄島は東京都の小笠原村に属する昔からの日本の国土である。青山さんはFNN(フジ・ニュース・ネットワーク)の社有ジェット機に乗せて貰ったのだが、羽田からわずか2時間半、沖縄より近い。

  しかし、硫黄島は海上自衛隊の基地となっており、特別な許可がないかぎり上陸できない。青山さんは防衛庁と半ばケンカ混じりの交渉をして、「行くなら勝手に行け。ただし自衛隊は協力しない」とまで言われて、個人的にFNNのツテを辿って、ようやくやってきたのだった。

  ジェット機が島の上空に到達すると、慰霊のためにぐるりと一周して貰った。南端の擂鉢山は、その名の通り、擂り鉢(すりばち)の形をした火山であるが、その南側の火口が崩れている。アメリカ軍の艦砲射撃と爆撃により、火口が吹き飛んでいるのだ。この山にも張り付いていた日本軍将兵は、山の形が変わるまで砲撃されて、どうやって生きていられただろう。

  この擂り鉢山の頂を、激しい戦闘の末に占領した米兵のうちの6人が力を合わせて、星条旗を結んだ一本のポールを立てた。従軍カメラマンのローゼンタール記者がその光景を撮った写真は、ピュリツァー賞を受賞し、世界的に有名になった。

  アメリカはその写真を第二次大戦中最大の激戦の勝利を記念するものとして、そのまま立体の巨大な彫刻にして、首都ワシントンDCの広場に据え、自国のヒーローたちを称えている。

  わが国の観光客が、ワシントンDCを訪てその像の記念写真をとったりしているが、その陰に2万余もの同胞が犠牲になっていることをどれだけ知っているだろうか。ここでも、硫黄島のアメリカ軍将兵と、日本軍将兵とのそれぞれの国の処遇の違いは残酷なまでに明らかである。


■4.滑走路での土下座

  1944年12月、米軍はサイパン島などマリアナ諸島から爆撃機を飛ばして、日本本土の爆撃を開始したが、マリアナ諸島から東京までは往復5千キロもある。戦闘機は航続距離が足りなくて護衛できない。また爆撃機も被弾したり、故障したりすると、途中で海に落ちるしかない。

  マリアナ諸島と東京のちょうど中間にあるのが、硫黄島だった。米軍からしてみれば、硫黄島に滑走路を作れば、日本の本土爆撃をより効率的に、より少ない損害でできる。

  だから、米軍は硫黄島の戦いが終わる前から、必要な土地を制圧するや滑走路を作り始めたのだ。日本兵の亡骸を収容することもなく、その上からコンクリートを流し込んで、滑走路を作った。

  硫黄島が返還された後も、滑走路のごく一部が遺骨収容のために掘り返されたが、大部分は今もその下に日本兵の遺骨を下敷きにしている。

  ジョット機が滑走路に着陸し、倉庫の隅に機体を寄せた。小さな飛行機で、滑走路に降り立つステップは3段ほどしかない。しかし、青山さんの両足は凍りついたように動かない。

  その理由は青山さんには分かっていた。自分が滑走路に足を下ろしたならば、自分たちのために命を捧げた先人の頭や胸や腰を踏みつけることになるからだ。

  しかし、硫黄島に滞在できる時間は限られている。クルーは帰りに備えて機体の点検もしなければならない。青山さんは足を無理に動かして、地面に降りると、そのまま土下座をした。滑走路のコンクリートに手のひらを当て、その下にいるはずの英霊たちに語りかけた。

 __________
  これから硫黄島の中を見せていただいて、それをぼくが生きている限りは必ず国民のみんなにありのままお伝えしますから、今から島の中を見せてください。どうかお許しください。[1,p180]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


■5.「これは実質的な敗戦ではないか」

  硫黄島の日本側の司令官、栗林忠通・陸軍中将は、武官として米国駐在経験もあり、米軍の物量作戦や戦略を見抜いていた。そして本土空襲を一日でも遅らせるために、硫黄島での戦闘を一日でも長く引き延ばすことを決心した。

  そのためには波打ち際で華々しく玉砕するのではなく、島内に地下壕陣地を作り、砲撃・空爆を凌ぎつつゲリラ戦にでる、という戦術をとった。

  中将は「自決をしてはならぬ」「万歳突撃をしてはならぬ」と命じた。どうせここで死ぬなら、最後は華々しく散りたいと願うのは人情で、この命令には反発もあったが、中将は各部隊を回って、自身の考えを説いた。

  結果から見れば、中将の作戦は成功した。2万余の日本将兵のほとんどが戦死したが、米軍も総員7万5千のうち2万6千近くの死傷者を出し、当初、島を5日間で占領する計画だったのが、36日間もかかった。

 「これは実質的な敗戦ではないか」という一大論争が米国内に沸き起こった。小さな島一つ取るのにこれほどの被害が出るなら、ルーズベルト大統領の主張する無条件降伏を要求し続けて、日本本土決戦まで行ったら、どれだけの米兵の命が失われるのか、という疑問がつきつけられた。

  硫黄島戦の直後、ルーズベルト大統領が急死した事もあって、ポツダム宣言での有条件降伏に変更され、ようやく日本が降伏を受け入れられる余地が生じた。硫黄島2万余の英霊は、その死闘によって、和平への道を切り開いたとも言えるのである。[a]


 ■6.地下壕

  青山さんは同行した海上自衛官らとともに地下壕の一つに入った。掘った道具は今も、そのまま転がっている。青山さんが見たのは、子どものおもちゃのようなトンカチだけだった。それだけでも手にできた人は幸運で、道具のない人は、生爪をはがしながら手で掘った。しかも、硫黄島は地獄のように暑い。掘っていったら、気温が70度にもなったと、わずかに生き残った兵は証言している。

  青山さんが入った地下壕は、草藪の中に、小さな縦に掘った穴が口を開いていた。両手を広げ、体をこすりながら、ストーンと真っ直ぐに下まで落ちる。底には、毛細血管のような細いトンネルが、横に続いている。灯りで照らすと、壁は全部、焦げている。米軍の火炎放射器に焼かれたのだ。

  横穴を、両腕を縮めて匍匐(ほふく)前進すると、突然、天井が高くなって、背が立つようになる。さらに進むと、びっくりするくらい広い部屋が突然、現れた。そこはまったく焦げていない。栗林中将は、米軍が火炎放射器を使う事を知っていて、この迷路のようなトンネルを作ったのだ。

  日本軍の将兵は、こういう地下壕から出没して、米軍に果敢なゲリラ戦を挑んだ。


■7.英霊の方々が本当に聞きたいこと

 青山さんは、我慢できなくなって、後ろについてきた海上自衛官たちに絞り出すような声で語りかけた。

 __________
  みなさん、これを見ましたか。

  生半可な努力でこんなものは掘れないよ。そして一番大事なことは、これを掘った2万1千人の日本の方々のうち、一人でも自分の利益のために、自分が助かりたいとか、自分の利益になるからといって掘った人はいるんですか?

  ひとり残らず、ただ人のために、公のために、子々孫々のために、祖国のために、それだけが目的で掘ったんですね。

  そしてこの掘った人たちを、私たちは戦後ずっと日本兵というひと固まりで呼んできました。ほんとうは大半が普通の庶民なんです。・・・

 ここにいらっしゃる、間違いなくこの部屋にいらっしゃる、この英霊の方々が本当に聞きたいのは戦争は悲惨でしたという話だけではなくて、今、自分たちが助けた女性と子供を手がかりにして甦っていった日本民族が、祖国をどんなよい国にしているのか、その話を聞きたいんだ。

  その英霊の方々にぼくたちは、日本はこんな国になりましたと言えるんですか。

  経済は繁栄したけれども、いまだ国軍すらないから隣国に国民を拉致されて、されたまま救えず、憲法はアメリカが原案を英語でつくったまま、そして子が親をあやめ、親が子をあやめ、さらにいじめられた子が自殺する。

  そういう国に成り果ててしまいましたと、この英霊に言えるのか。 ぼくたちの一番の責任はそこでしょう。[1,p204]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■8.「祖国を蘇らせる手がかり」

  地下壕を出ると、若い海上自衛官が、青山さんの目をまっすぐに見て、話しかけてきた。

 __________
  青山さん、私たち昼ご飯を食べていると、帝国海軍の方が横で昼飯を食べているんです。今まではただの幽霊だと思っていました。しかし本当は、おい、おまえたち、祖国はどんなよい国になった、今、話してくれ、祖国はいい国になったんだろうなと、それを聞いていらっしゃるんですね。

  初めて今日、わかりましたよ。[1,p206]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  この硫黄島の話をインターネットの動画で視聴した琉球大学の学生から、青山さんはEメールを貰った。彼は「思春期のころから、夢のない無気力人間」だったが、硫黄島の話に触れて、こう考えるようになったという。

 __________
  自分の欲求、私利私欲だけを追求し続けて死にたくない。人のために生きたい。人のため、社会のため、公のために、生きたい。人のためになら、たった一度の人生を頑張れる、克己(こっき)できる。そう思いました。[1,p18]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  祖国とは、自分が大切に思う家族、郷里、さらに自分の血肉となっている言語、歴史、文化である。したがって祖国とは自分の心のうちにある。

  戦後教育は、その祖国を意識的にわれわれの心の中から忘れさせようとしてきた。しかし、忘れたものは、思い出せばよい。青山さんは、思った。

 __________
  あぁ、硫黄島は、ぼくらの生きるヒントだ。
  生きる手がかり、生き直す手がかり、祖国を蘇らせる手がかりだ。[1,p207]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 (文責:伊勢雅臣)

 

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