鹿児島県人 必見

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今年一年、靴修理店 店長ブログを拝読いただき有難うございました。
皆様、良いお年をお迎えください。


今回は、国際派日本人養成講座より、鹿児島県人 必見の 「 西郷隆盛に学んだ庄内藩士たち」、 
西郷に学んだ庄内藩士たちは「新しい日本をつくる同志」となったです。


■1.庄内の人々の西郷隆盛への敬慕

 世の中には不思議な付き合いがあるものだ。西郷隆盛と庄内藩(現在の山形県庄内地方)の人々との交流である。

 明治元(1868)年の戊辰戦争では、庄内藩は西郷隆盛率いる明治政府軍に降伏したのだが、西郷の高潔な態度に感激し、その後、藩主自ら70余名の藩士を率いて、薩摩に赴き、西郷に親しく教えを請う。

 西郷は明治10(1878)年の西南の役で戦没し[a]、「逆賊(天皇への反逆者)」の汚名を着せられるが、明治22(1889)年、明治天皇が正三位を与えて汚名を晴らすや、旧庄内藩の人々は西郷の語った言葉をまとめた『南洲翁遺訓』を刊行し、風呂敷包みに背負って、全国に配布して回った。

 庄内の人びとの西郷への敬慕は現代まで続いており、昭和51(1976)年には南洲神社が創設され、「財団法人 庄内南洲会」が西郷の人徳を称える活動を続けている。

 人びとが一人の偉人をかくも純粋に敬慕した、いかにもわが国らしい美談である。今回はその経緯を辿ってみたい。


■2.庄内藩の人々を感動させた明治政府軍

 慶応3(1867)年12月、江戸の薩摩藩邸に結集していた浪人たちが、江戸の治安を乱していた。江戸の治安維持を任されていた庄内藩士千人を中心とする5藩は、薩摩藩邸攻撃を命ぜられ、邸を砲撃し、焼き払った。この事件をきっかけに、鳥羽伏見での明治政府と徳川幕府との戦いが始まり、以後1年半ほどの戊辰(ぼしん)戦争が続く。

 庄内藩は会津藩、米沢藩などとともに幕府側に立ち、新政府側に立った秋田に攻め入って連戦連勝を重ねた。庄内藩はもともと良民を手厚く保護する藩政をとってきており、藩主・家臣・領民の結束が強かった。藩政を支えてきた商人・本間家も、スナイドル銃などの最新兵器購入のために莫大な献金をした。

 米沢藩、会津藩の降伏後も、庄内藩は最後まで藩領土への新政府軍の侵入を許さなかった。しかし庄内藩以外のすべての藩が降伏したので、明治元(1868)年9月、新政府軍に恭順の意を示した。

 このように最後まで頑強に新政府軍に戦ったので、庄内藩の人々はどれほど厳しい降伏条件を突きつけられるのか、と心配していた。

 しかし、勝者として庄内藩鶴ヶ岡城に入ってきた新政府軍は刀を持たず、丸腰だった。新政府軍の兵士の中には勝ちに奢って乱暴狼藉を働くかも知れないので、それを防ぐためだった。逆に敗者の庄内藩士には帯刀を許し、武士の面目を持たせた。これには庄内藩の人々が驚いた。

 しかも、新政府軍の使者としてやってきた薩摩藩の黒田清隆が示したのは、驚くほど寛大な条件だった。11代藩主・忠篤の謹慎、弟・忠宝への代替わりと、16万7千余石から12万石への減封であった。

 さらに黒田は、藩主の上座に座って、いちおうの「言い渡し」を終えると、ただちに藩主の下座に降り、「役目のために、ご無礼をいたしましたが、お許しください」と、礼儀正しい態度をとった。武士道を弁えた黒田の態度に、庄内藩の人々は心を動かされた。


■3.「この世に、そんな素晴らしい武士がいるのか」

 明治2(1869)年、庄内藩の家老として敗戦処理を進めた菅実秀(すげ・さねひで)が東京に出てきて、黒田に寛大な処置に対するお礼を述べた。すると、黒田は「あれは私の処置ではありません。すべて西郷先生の指示でやったことです」と明かした。

 新政府軍の指揮官だった西郷は、庄内藩が降伏した翌日にはすぐに帰ろうとした。まだ降伏したばかりで、後で何が起きるのか分からないので、黒田は西郷を止めた。

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 けれども西郷先生は、『戦いは……勝てば、もうそれでいいよ。あとは、同じ日本人……。新しい日本をつくる同志じゃないか。もう敵でも味方でもないよ』と、おっしゃったのです。[1,32]
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 菅は「この世に、そんな素晴らしい武士がいるのか」と感動した。そして菅から西郷の話を聞いた庄内藩の人々の感動も察して余りある。

 翌明治3(1870)年、18歳だった前藩主・酒井忠篤は70余名の家臣を引き連れて、西郷に学ぶために鹿児島を訪れた。西郷は彼らを歓迎し、いろいろ話を聞かせてやった。

 忠篤は西郷の教えに感激し、大名気分を捨て去り、家臣たちと寝食を共にして過ごした。これら庄内藩の人々が西郷の言葉を記録に残したのが、後に『西郷南洲翁遺訓』としてまとめられたのである。


■4.西郷の涙

『遺訓』の中には、西郷が庄内藩士たちに語った肉声がまざまざと感じられる一幕がある。こんな一節である。

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 ある時、西郷先生が、こうおっしゃった。

「国民の上に立って、政治にたずさわる者は、つねに慎みの心をもって、どこにいても品行正しく、贅沢をしないように心がけ、自分の仕事に一生懸命に取り組むような……、つまり人の手本になるような人でなければならないね。・・・

 ところが、近ごろの政府はどうだい。今は、これから何もかもはじめなければならないという、いわば時代の出発点に立っている大事な時期なのに、豪邸に暮らし、高価な服に身をつつみ、美しい女性を愛人にし、そして関心があることといったら、個人の財産を築くことばかり……。こんなことでは、何のために明治維新をなしとげたのか……、その本来の理想を達成することなど、とてもおぼつかないよ。

 あの鳥羽伏見の戦いにはじまって、五稜郭の戦いで終わった戊辰戦争は、日本を再生するための“義”の戦いだったはずだよね。けれど、その戦いの結果できあがった新政府が、そんなありさまさ!

 今のままなら、どうなる? 結果的に、あの戦争は今の政府の高官たちの“利”のための戦いだった、ということになってしまうよ。

 こんなことでは、世の中の人々に対して、そして何より、あの戦いで戦場に散っていった戦没者たちに対しても、私は……本当に申しわけなくて……」

 そうおっしゃると西郷先生は、こみあげてくる思いを抑えきれずに、しきりに涙を流されていました。[1,781]
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 戊辰戦争を西郷の相手側として戦った当の庄内藩士たちも、この西郷の言葉には、涙をこらえきれなかったのではないか。


■5.「日本を再生するための“義”の戦い」

 西郷は「戊辰戦争は、日本を再生するための“義”の戦いだったはず」と言ったが、その「義」に関して次のように語っている。

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「節操や道義……恥を知る心、こういうものを国民が失ったら、国は、とても持たないね。これは、西洋でも同じことだよ。

 たとえば、政治家や官僚や公務員などの上に立つ者が、国民から利益を得ることばかりを求めて、社会正義を忘れてしまったならば、どうなる?

 国民もその真似をして、その心は、どんどん拝金主義に向かい、いやらしい貪欲な心が、日を追うごとに国民の間に広がっていくよ。 ・・・

 そうなってしまったら……、いったい、どうやって国を維持すればいいんだい?[1,1245]
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 道義を国民が失ったら、国は持たない。明治政府の高官たちが私利私欲にふけっている姿は、自ら国を壊している。それでは「日本再生のための義の戦い」と信じて、命を捧げていった戦没者たちに申し訳ない。その思いが西郷の涙となっていた。

 西郷が戊辰戦争を「日本再生のための義の戦い」と捉えていたことを知れば、『戦いは……勝てば、もうそれでいいよ。あとは、同じ日本人……。新しい日本をつくる同志じゃないか』と、庄内藩の人々に寛大に接した理由も理解できる。

 西郷は庄内藩士を「最後の最後まで徳川家に忠義を尽くした立派な武士」と称えていた。今後は日本の再生のために、ともに忠義を尽くして欲しい、というのが、西郷の願いだった。


■6.「西洋は野蛮じゃ!」

 明治維新という「日本再生のための義の戦い」は、黒船の来航に象徴される欧米諸国の脅威の下で行われた。その欧米諸国について、西郷は省内藩士たちにこう語っている。

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 ある時、西郷先生が、こうおっしゃった。

「“文明”というのは、どういうことかわかるかい? それは、道徳心が人々に広くゆきわたって、それが実践されている国のようすを、称えて言う言葉なんだ。けっして宮廷が大きくて立派だとか、人々の服装が美しくて綺麗だとか、そういう外から見た、フワフワした華やかさを言うのではないよ。 ・・・

 私は昔、ある人と議論したことがあるんだよ。その時、私は、こう言ったのさ。 『西洋は野蛮じゃ!』

 するとその人は、こう言った。 『いや、西洋は文明です』

 そこで私は、 『いいや、いいや……、野蛮じゃ!』と、たたみかけた。

 すると、その人はあきれて、 『どうして西洋のことを、それほどまでに悪くおっしゃるのですか?』と、不満そうに言い返してきた。

 そこで私は、こう言ってやったのさ。

『ほんとうに文明の国々なら、遅れた国には、やさしい心で、親切に説得し、その国の人々に納得してもらった上で、その国を発展させる方向に導いてやるんじゃないかな?

 けれど西洋は、そうではない。時代に遅れて、ものを知らない国であればあるほど、むごくて残忍なことをしてきたし、結局のところ、そうして自分たちの私利私欲を満たしてきたじゃないか。これを“野蛮”と言わないで、何を“野蛮”と言うんだい?』

 私がそう言ったら、その人は口をつぐんで、もう何も言わなくなったよ」

 そう言って、西郷先生はお笑いになりました。[1,1069]
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 当時、欧米諸国はアジア・アフリカの諸国を植民地化し、搾取していた。支配者がその様では、国民全体が植民地根性を抱いて、私利私欲のために働くようになる。西洋の「野蛮」がアジア・アフリカに「野蛮」を生み出す。

 西郷は「文明」とは「道徳心が人々に広くゆきわたって、それが実践されている国のようす」と考えた。西洋諸国に植民地化されてしまえば、そんな文明国にはなりえない。

 そうした西洋諸国の「野蛮」から、国を守ろうとすることが「攘夷」なのであった。[1]の著者・松浦光修・皇學館大学教授は次のように喝破している。

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「攘夷」によって先人たちが護ろうとしていたものは、単なる“国益”ではありません。ここが大切なところなのですが、最終的に護ろうとしていたのは、“道義”なのです。[1,1106]
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■7.『後世への最大遺物』

 西郷から「最後の最後まで徳川家に忠義を尽くした立派な武士」と称えていた、そんな忠義の武士たちであったからこそ、西郷の道義あふれる振る舞いに感じ入り、前藩主が70余名もの藩士を引き連れて、西郷のもとに学びに来たのである。

 庄内藩士たちは、西郷の言葉に学んで「新しい日本をつくる同志」となったのであろう。西南戦争の12年後、明治天皇が西郷に正三位を追贈して名誉を回復されるや、『南洲翁遺訓』をまとめ、全国に広めようとしたのも、「新しい日本をつくる同志」としての志に違いない。

 西郷隆盛を『代表的日本人』の一人として描いた内村鑑三は、『後世への最大遺物』と題した講演で次のように語っている。

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「誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば、勇ましい高尚なる生涯であると思います。[1,2992]
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 西郷隆盛と庄内藩士たちの「高尚なる生涯」は、現代の我々に贈られた「後世への最大遺物」そのものである。それをどう活かすかは、我々の生き方にかかっている。
(文責:伊勢雅臣)

慰安婦問題に思う

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 リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、”ねずさんのひとりごと” より「慰安婦問題に思う」です。

 

 

 

慰安婦問題について、韓国や国内でそれに同調する左翼や在日コリアンに、腹を立てておいでの方は多いと思います。私もそのひとりです。
強制的に慰安婦にしただの、性奴隷にしただの、そういう主張をしている者たちのただの欲望でしかないのでは、とさえ思います。
所詮は、ねつ造、でっちあげのとんでも主張であり、千年経っても恨みを忘れないどころか、千年経ってもでっちあげはでっちあげ、嘘は嘘です。あたりまえのことです。

こうした言いがかりに対して戦うには、相手の主張に対して証拠を挙げて反論したり、あるいは相手の主張に対して、その信憑性の嘘を暴くといった対応は、もちろん不可欠です。
あるいは裁判をするといった対応も、必要であろうと思います。

ただし、この問題は、すでに韓国にとっては、国家的糾弾です。単に韓国の一部のメディアや学者たちがそのように言っているという問題ではありません。
彼らは、国をあげて、国家の広報や諜報部隊の総力をあげて、慰安婦問題をあげつらい、日本を貶めることに、まさに血眼になっているわけです。

ですからこの問題は、両国が話し合って解決がつく問題ではありません。
そもそも韓国の大統領が先頭に立って、日本を貶めるための告げ口外交を展開しているのです。
今さら、真実がわかったところで、彼らがその主張を取り下げることなど、絶対にあり得ないと知るべきですし、今後彼らは、ますますその主張をエスカレートさせていくことと思います。

 

 

 

 

 

こうした韓国に対して、「韓国が政府資金をふんだんに使って慰安婦問題はあったとするプロパガンタを展開している以上、我が国もこれに対抗的に反論を英語その他他言語で世界に向けて堂々と情報発信すべし、という議論もあります。私もそれは必要だと思います。

ただし、それをやったら、問題が解決するかというと、それは疑問です。
日本の反論が激しくなればなるほど、逆に彼らはますますその政治活動をエスカレートしてくるであろうことは自明の理だからです。

では、日本はいったいどうしたら良いのでしょう。
韓国と話し合いますか?

話し合いは、当事者双方に、話し合って解決しようという具体的に意思がなければ、いくら話し合っても問題は解決しません。
証拠を出せば、と思われる方がいるかもしれませんが、いかなる決定的な証拠が出されても、それを無視して言い張る相手に、話し合いなど通用しません。

では、話し合って解決しないのなら、次にどうしますか?
国際司法裁判所に訴えますか?
米国の裁判所に訴えますか?

国際司法裁判所は、ご存知の通り、当事者を出頭させる強制権がありません。
国内の裁判所なら、出頭しなければその瞬間に敗訴が確定しますが、国際司法裁判所は、そもそも呼び出しに応じる必要さえありません。
「あったことをなかったという裁判など請ける必要もない!」と強弁していれば済んでしまうのです。

米国の裁判所に訴えても、個別案件には勝訴できたとしても、他の案件にまで強制力はありません。
それにそもそも相手は国家プロジェクトなのです。
向こうはありとあらゆる政治資金を使って、こちら側の弁護しさえ巨額の資金で買収することさえ平気な連中なのです。

では、どうしますか?
話し合って解決しないなら、戦争しますか?

戦争は、武力だけではありません。
経済封鎖や貿易のボイコット、国内に住む当外国人の財産の差し押さえ等々、方法は様々です。
そしてそもそも、この問題は、情報戦争という立派な戦争なのです。
つまり、現時点で、すでに戦争は始まっているのです。

ところが日本はどうでしょう。
武力を用いた戦争は、憲法でこれを禁じています。
国際紛争を解決するための武力行使は、永遠にこれを放棄すると、最初から歌っています。
向こうにしれみれば、いくら殴っても、絶対に殴り返さないという保証書付きの相手なのです。
もし殴り返してきたら、それこそ「国内法さえも破って暴力を振るってきた」と、よりナンクセをエスカレートさせることができる。つまり、思うつぼになるわけです。

では、武力を用いない戦争はどうでしょうか。
経済封鎖を日本国政府は行うでしょうか。

日本国政府というのは、その本質は日本国民のための政府ではなく、「日本国内に置かれた米国の占領統治のための傀儡政権」です。
これは、安倍総理のご努力や、歴代総理、あるいは代々の国会議員さんのご努力や資質のことを言っているのではなく、そういったおひとりおひとりのご努力や資質以前の問題として、そういう性格のものだということを申し上げています。
同じようなディスプレイとCPUを持つパソコンでも、OSがWindowsなのかmacなのかによって、その性格はまるで違います。
どんなにできの良いアプリや、凄腕のユーザーであっても、OSが違えば、そのOSの範囲でしか動けないのです。

そして米国の利害は、対中戦略において、日韓は並列の位置にあります。
そして米国が率いる「United Nations(旧称:連合国、別称:国連)からすれば、日本は「敵国」であり、韓国は、まさに「United Nations」によって作られた国です。
その立ち位置は、むしろ韓国に有利であって、日本には劇的に不利なものです。
なぜなら、「敵国」である日本には、「United Nations」の安全保障理事国は、いついかなるときでも、無条件で武力を行使しても構わないことになっていて、その安全保障理事国のひとつが中華人民共和国だからです。

それこそ米国の理解を得ない韓国への経済封鎖は、日本は世界に向けて「武力を行使して攻めて下さい」とお願いするようなものです。

では、情報戦争ではどうでしょうか。
韓国は、慰安婦強制と性奴隷はあったといい、日本は、なかったと主張します。
ところが実際には、朝鮮戦争時代に韓国政府は自国民の女性に対してまさしくこれをやっていますから、韓国内では「あった」のは事実です。
ただ当事者が日本でなく、韓国政府であったというだけのことです。
その「韓国政府が」という主語を付け替えるだけで、彼らにとっては国をあげての生活実感をともなった「真実」となるわけです。
そして「あった」とする政治運動をする者たちへは、韓国政府が豊富な軍資金の援助をしています。

これに対し、日本国内はどうでしょう。
多くの国民にとっては、他人事。メディアは反日を正義とはき違え、具体的にどことは言いませんが、むしろ韓国政府の方を持つことで、なんとかして韓国政府からの資金をもらおうとする。
国会でも一部の議員は、むしろあったといって騒ぐ。
民間で必死になって防戦を張ろうと努力しても、政府の応援など一切ありません。

国家規模での経済力も、情報力も、国力も、圧倒的に日本の方が強いけれど、彼らは国をあげて言い張っているのに対し、日本側は、ごく一部の国民による団体等とわずかばかりの議員さんたちによって、手弁当での抵抗が続けらているだけです。
しかもお人好しの日本人は、分断工作に簡単にひっかかり、運動もなかなか一本化しないというていたらくです。

繰り返しになりますが、韓国は(これは中共も同じだけれど)、国をあげて対日戦争をしかけてきているのです。
なぜなら、日本は、叩けば叩くほど、いくらでもお金が出てくる、まさに「打出の小槌」だからです。

では、どうしろというのか、とお叱りを被りそうです。
私は、彼らのいい分に対して、もちろん存分に反論していかなければならないと思っています。
でなければ、日本はもっと追いつめられます。

けれども、それだけでは、おそらく何も解決しないと思います。
なぜなら、彼らは「あった」と言い続け、我々は「なかった」と言い続ける。
その言い合いに終止符を打つ方法は、ただひとつ、日本が、彼らに鉄の制裁を加えることだけだからです。

けれども日本は、決してそういう選択をしないし、おそらく日本国民の誰一人、韓国との戦争を望んでいる人などいないと思います。
むしろ、多くの国民は、韓国と、どうやったら、隣人として仲良く暮らすことができるのだろうかということしか、頭にないからです。

では、どうしたら良いのでしょう。
話し合いもだめ。戦争もだめ。
さりとて、このまま放置することもできない。
第三の道はないのでしょうか。

私は「ある」と思います。
この問題の本質にあるのは、シラス国とウシハク国の対立です。

ウシハクは、「主人(ウシ)が佩く」で、「佩く」は、大刀を腰に穿くというときの言葉で、身につける、転じて、私有物にするということです。
つまり、主人が国民を私物化し、利用して自分の利財を図る。それがウシハク国です。
こうした治世にあっては、主人となったものは、国民の利益を独占しますから、そこに富が集中します。
重ねて主人(権力者)は、その権力の行使を絶対的なものとしますから、国民は言いなりになるしかありません。つまり国民は、ただの奴隷とされるわけです。

韓国の旅客船の沈没事故に際して、多数の犠牲者となった方々は、船長などの「その場を動くな」という指示を守って、室内に残り、結果、尊い命をなくされました。
日頃、うるさ型の多い韓国人が、どうして沈没まで1時間もかかったのに、船長の指示を守ったのか、そのところは、不思議に思われた方も多いかと思います。

けれど、これは韓国社会では、あたりまえのことなのです。
彼らは上下社会です。
船においては、船長や船員の指示が絶対のものとなります。
ですからもし指示に逆らって、自身の身の安泰を図る、つまり船室から出て海上に避難できる位置に移動するとなれば、後日その責任を追及され、「お前が出たから船が転覆したのだ、すべてお前のせいだ」と罪をなすり付けられ、社会から徹底した苛めに遭うことになる。
その恐怖があるから、出るに出られない。
これがウシハク国です。

もし同じような事故が日本であれば、そもそも船長以下船員たちが先に避難するということ自体、日本ではあり得ないけれど、多くの乗員たちは、船員たちの指示を振り切って早い段階で外気に触れる場所に出て、たすかっていたことと思います。

東日本大震災などで、整然とした姿でコンビニの前に並ぶ日本人、船室からさっさと避難する日本人、いっけんするとまったく異なる反応に見えますが、実は、この二つは共通しています。
それは、各自が、各自の判断で動いている、ということです。
それが、ひとりひとりが高い教養を持ち、自己の責任で行動しようとするシラス国の特徴です。

ウシハク国では、国民は貧乏です。
なぜなら富はみんな施政者、権力者たちが独占するからです。
ですから大多数の国民は貧乏だけれど、上に立つ者は巨額の富を手にします。
そして巨額の富を独占していますから、その権力者の思いひとつで、巨額の政治資金が動かせます。

これに対し、シラス国は、国民ひとり一人が、決して贅沢はできないまでも、そこそこの生活ができます。
権力者も施政者も、国民と同じ人であり、富は分散されていますから、誰かが誰かの思いひとつで、巨額の政治資金を動かすということもできません。

100人で100の富を得たとき、権力者ひとりが80の利益を独占し、残りの20を99人で分散するのがウシハク国。
100人で100の富を得たとき、みんなで1ずつ均等割するのが、シラス国です。
政治工作は、どちらが容易かは、一目瞭然です。

ですが、国民みんなの幸せを考えれば、後者の方がはるかに良い国であることも、これまた自明の理です。
日本は、神話の時代から、シラス国を目指してきました。

このシラスとウシハクは、大国主神話に出てくる言葉なのですが、その神話においても、ウシハク統治は、ある意味においてたいへんに魅力的であることが説かれています。
ですから二度に渡って、大国主に使いに出た天孫の神は、ウシハク統治で金持ちの大国主の接待にすっかり取り込まれ、任務を放棄して大国主の部下になってしまいました。

そして三度目の使いに立ったのが建御雷神(たけみかづちのかみ)で、彼は海の上に刀を逆さまにして立て、その上に大あぐらをかいて、大国主に国ゆずりを迫り、大国主自慢の二人の子を打ち負かして国を譲り受けています。

これは、私は比喩だと思っています。
「海の上に刀を逆さまにして立て、その上に大あぐらをかいて」というのは、軍船を率いてやってきて、その船上で刀剣類を逆さまにして立て並べ、船上で大あぐらをかいて、大音声で国ゆずりを迫った」ということなのではないかという気がします。

ともあれ、こうしてシラス国とウシハク国の違いと、ウシハク国の怖さ、そしてシラス国の大切さが神話に説かれているわけですが、昨今の韓国の行状は、まさに韓国の施政者たちが、己の利権を狙って、自由を奪った民衆を動員して、異論を許さずに反日に傾斜しているわけです。
現代世界において、いまだ、このようなウシハク統治が公然と行われているという現実は、まさに驚くばかりですが、韓国は、古来、そういう国ですし、そもそもの建国自体が、日本によるシラス統治によって、特権階級の両班たちが、その特権を奪われた「はらいせ」につくったのが、いまの韓国でしかありません。

日本は、いま、こういう国から、武器を使わない戦争をしかけられているわけです。

そういうウシハク韓国の慰安婦攻撃に対して、日本は、猛然と反論しなければなりません。
しかし、それだけでは、実は片手落ちで、日本とはどういう国なのかという文化面での日本の情報発信力が、いま、本当の意味で問われているのだと思います。

日本が二千年以上に渡って行ってきた統治は、どこまでも民衆をこそ「おおみたから」とする統治でした。
そしてすべての国民を、天皇の臣民とするという統治でした。
ですから、このことが律令制度として確立された大化の改新以降は、日本からは、生口(せいこう)と呼ばれた奴隷階層は、完全にいなくなっています。

そして、問題の売春婦にしても、かつてはこれを「春を売る婦人」と呼び、戦時下においては「兵隊さんたちを慰め安心させる婦人」という名称を与えてきたのが日本です。

そもそも、日本語で売春と呼ばれる行為は、支那では「売淫」と書きます。
「淫」という字は、膣の中に精液を入れるという意味を持つ字ですから、それを売るというのは、まさに読んで字のごとしであり、きわめて動物的です。
さらにいえば、売春婦たちは、隠語では、「ピー」と呼ばれていました。
ピーというのは、女性の性器そのもののことを指す隠語です。
つまり、女性たちを、まったく「人」として認識していず、ただの性器としてしかみなしていないということが、こうした言葉が如実に物語っています。

最近の韓国が主張する「性奴隷」も同じです。
まさに性の奴隷であり、奴隷というのは古今東西、報酬も人権もなく、ただ使われるだけの存在ですから、その言葉には、わたしたち日本人なら誰もがびっくりするような女性蔑視、人権無視が言葉に隠されています。

ところが日本ではどうでしょう。
先に述べましたように、売春は、「うららかであたたかな春を売る」というのです。
「遊郭」は、楽しく遊ぶための建物であり、「花魁(おいらん)」は、美しい花のさきがけ」、「遊女」は楽しく遊ぶ女性、吉原などの遊郭にいた「太夫(たゆう)」は、恵まれたスポンサーのある女性という意味です。
どこにも性のかけらもない。
あくまで、女性たちを、人として見ているということが、こんな言葉からもわかります。

さらにいえば、朝鮮半島でも、支那大陸でも、売春宿では、年頃の女性を連れてきて、その日から性行為をさせています。
稼ぐために連れてきたのです。これは彼らにとっては当然のことであったことでしょう。

ところが日本は、女性たちは6〜7歳で遊郭に連れて来られました。
幼児売春のためではありません。店に出て性行為の仕事をするのは、17歳になってからです。
それも22歳までの5年間だけです。

商売のためなら、年頃の女性を連れてくればよさそうなものを、どうして6〜7歳の女の子を連れてきたかといえば、6〜7歳から17歳まで、まる10年間、お店では、たいへんな経費をかけて、女の子たちに、読み書きソロバンから、小唄、三味線、お琴、長唄、都々逸、小堤、太鼓、絵画、和裁、お花、お茶など、ありとあらゆる教育を施していたのです。
なぜかといえば、女の子たちには、5年間、お店のために商売をしてもらわなきゃならない。
そのかわり、お店を出たあと、この子たちが一生食べるに困らないだけのことは、お店として、きちっとしてあげようとしたのです。

女の子たちは、もちろん売られてきた子たちです。
そしてまる10年間、お店で衣食住の面倒をみてもらうだけでなく、高いレベルの教育を受けさせてもらいます。
10年経ったときには、たいへんな借金ができています。
けれど、商売に出ることで、たいていは最初の1〜2年で、どんな女の子も、お店からの借金は全額返済してしまいます。(このことは、慰安婦の給料を考えてもわかることと思います)。
そのあとは、もっぱら貯金です。

ですからお店に出て5年経って卒業する頃には、クニに帰って料亭の1件、2件建てれるくらいの蓄えができていました。
世界中、どこを探しても、売春婦たちが、生涯食べるに困らないだけの教育と蓄財を与えたクニというは、ないと思います。

では、なぜ日本は、そのような手厚いことをしたのでしょう。
答えは簡単です。
すべての民は、日本では、天子様のおおみたから、なのです。
つまり、お店の女の子たちは、天子様(天皇陛下)からのあずかりものであり、親御さんのたいせつな宝物なのです。
それをお預かりしているのです。
ですから、出来る限りのことをしてあげる。
それが日本です。

だからこそ、戦時下においても、なるほど、朝鮮人の女衒たちが、兵舎の近くに売春宿を作りました。
その売春宿を、わたしたち日本人は、売淫宿ではなく、昔からある売春宿でもなく、兵隊さんたちのための慰安所と呼びました。

中で行われるのは性行為かもしれません。
けれど、そこにいる女性たちへの意識は、あくまでも人の子であり、男性と対等な女性であるという共通認識が、私たちの父祖にはあったのです。
だから、慰安所と名付けていました。

日本人が、慰安婦(売春婦)を、見下したり性奴隷のような存在などとはまったく考えていなかった証拠には、これはねず本の第二巻に書いたことですけれど、総理大臣や、藩の要職の人の妻が、もとはそういう女性であったという事例さえも、あるという事実がこれを証明しています。

私なども、子供の頃、粋に和服を着こなしている、ひどくかっこいい中年の女性などを見たことがあります。
ある芸事のお師匠さんですが、生徒さんたちからも、町内でも、たいへんに尊敬されていたこの女性の和服の着こなしの見事さや、仕草の艶っぽさ、そして周囲に対する気配りや、小唄や三味線の巧さ、町内の頑固親父たちを手なづける手腕の見事さに、祖母は、「やっぱり玄人さんだった人はちがうわねえ」と、悪い意味どころか、大変な尊敬さえもしていました。
たしかに、子供の目からみても、すごいおばさんだった。

慰安婦や淫売どころか、「玄人さん」ですよ。
尊敬さえされていたのです。

職業に貴賤は、これは、あります。
人の好む仕事もあれば、人の上に立つ仕事もある。
ということは、人の嫌がる仕事もあれば、人の下になる仕事もあるわけです。
けれど、どこまでも人としては対等。
それが日本の文化です。

日本文化は、あでやかな歌舞伎や、江戸の和風絵柄、呉服や桜や紅葉や富士山ばかりではありません。
こうした、対等という精神文化や、その原点となっている「おおみたから」という文化も、まさに日本を代表する文化だし、こうした、むしろ戦前までの日本では、「あたりまえ」とさえ思われていただけの文化そのものが、まさに、いま、世界が待ち望んでいる真の未来を切開く素晴らしい文化性であるのはないかと思います。

そしてそういう日本人の文化性を、ただ慰安婦議論に反論するだけでなく、同時に日本の持つ文化性を世界に訴求するとき、世界は目覚め、この慰安婦論争にも終止符が打たれるのではないかと、私は思います。

パリで行われたジャパンフェアでのアニメ博でもそうでした。
韓国は国費を使ってまで、ジャパンアニメ博に乱入し、ブースを構え、そこに慰安婦アニメを展示しました。
けれど、少し考えたらわかることですが、アニメというのは、人々の欲求や欲望や願いを形にしたものです。
つまり、慰安婦、性奴隷をテーマにしたアニメというのは、結局のところ、それを「したい」と願う欲望が、アニメという形になって生じているものに他なりません。
つまり、慰安婦、性奴隷アニメというのは、それ自体が、それを展示している人たちの欲望そのものであるということに他ならないのです。

そういうものを、韓国が国をあげて展示したいのなら、私は展示させてあげれば良いと思う。
我々は堂々と、「アニメはその国の人々の欲望や欲求、願望を形にしたアートなのです」と、パンフなり講演なりで、主張すれば良いのです。
だって、それが本当のことです。
世界は馬鹿ではありません。それで実は、底流に何があるのか、バカでもわかるし、その証拠はライダハンをはじめ、世界中で彼らがしでかしている強姦事件や売春行為など、いくらでもある。

問題は、私たち日本人自体が、そういう日本文化の素晴らしさ、ありがたさを忘れ、ある意味、朝鮮人と同じレベルになって、対立と闘争の世界にはまり込んだり、あるいは意図的に日本が隠し事をすることで、かえって疑われるようなことをしているという点にあるのではないかと思います。

私たちは、堂々と、日本はこれこれこのような文化を持っている国であり、そのことは昔も今も何も変わっていないと、主張していくことが必要です。
そのことこそが、世界の人々の良心を呼び起こし、世界に新しい善の潮流を招く原動力になるものです。

そして日本が堂々と日本の文化性を主張し世界の理解を得たとき、いま韓国が国をあげて行っている慰安婦問題など、あまりにも不埒で程度が低いものとして、世界から唾棄されるものとなると思います。

日本の文化は、「対立と闘争」ではありません。
日本の文化は、天皇とおおみたから、そこから発した、和と結いと対等意識にあります。
そういうことを、堂々と私たちはこれから、世界に向けても発信できる国づくりをしていかなければならないと思うのです。

わたしたち日本人は、たとえば世界の人々が集まる会議に、少し遅刻して会議室に入れば、「I'm sorry.」と言います。
なぜそういうかと言えば、遅刻したから、みなさんに迷惑をかけたと考えるからです。

ところが、そうしたことは、世界の人々には奇異に映ります。
なぜなら、対立と闘争の社会というのは、いってみれば学年テストの点取り競争みたいなもので、個人と個人は全て敵同士です。
ですから遅刻したなら、それによって会議のはじめの5分の情況を知り得なかったペナルティは、遅刻した本人が負っているわけで、他の人はそれだけ有利になっているわけですから、別に人から誤られる筋合いはないし、自分が遅刻したからといって、謝る必要もないと考えるからです。

けれど私たちは、集団の協同を大切にします。みんなと常に対等にありたいと願いますし、みんなが遅刻しないように集まったのに、自分一人だけが遅れたなら、それはみなさんに迷惑をかけたことになると普通に考えます。
だから、「I'm sorry.」と言います。

そういう、理由を、はっきりと説明する。
その説明責任は、日本人の側にあるのです。

なかでも韓国についていえば、韓国では、欧米のような神のもとの平等という意識すらない儒教社会です。
儒教社会というのは、上下関係しかない。
上か下か、すべての価値観は、それによって定まるという社会です。
そして上に立つためなら、何をしても許されるし、上に立ってしまえば、下の者にいかなる無理難題を押し付けても文句を言われる筋合いはないと考えます。それが彼らの思考回路です。

支那に対しても、韓国に対しても、日本は、他の国ではあり得ないような善政を施し、戦後もあり得ないような金銭的あるいは技術的援助を惜しみなく与えています。
日本人は、それによって彼らが、我々と対等な民となって、豊かな生活を享受できるようになればそれで満足だからです。

ところが彼らには、対等という概念がありません。
カネや技術をくれるなら、それは上の人であり、上の国です。
上に立ったなら、下からは、略奪や指示をしてくれるのが当然と考えます。
けれど、日本は、上には立とうとしない。あくまで協同の国だからです。

しかし、文化の異なる彼らには、それが理解できません。
上か下かしかないからです。
そして「上でない」なら、「下」でしかないのです。
だから、日本は下であり、下ならば、貢のはあたりまえだし、賠償するのもあたりまえだし、謝罪し、カネを払うのがあたrまえ、となります。
ですから彼らは、日本を露骨に見下し、ゆすり、たかります。
それが彼らの文化なのです。

そしてそういう文化が一方にあれば、どこまでも和と結いと対等を求める文化がもう片方にあるわけです。
そしてこの二つの文化の衝突が、慰安婦問題となって湧き出ているのです。

ならば、日本の選択は二つです。
韓国に対して、韓国の文化に倣って、威丈高になってあらゆる収奪を行うか、それとも韓国人を絶滅させるかです。

けれど、おそらくは、そのどちらも日本人は選択しません。
なぜなら日本には、威丈高になる文化も、相手を滅ぼすという文化も、日本にはないからです。

ならば、日本は、日本の文化そのものを世界に向けて明確に主張し、なぜ日本が彼らに謝ってきたのか、また、どうしてそういう韓国に日本はお金や技術を出し続けたのか、その理由を明確に説明していく必要があります。
そしてそのことを、世界が、韓国民がどのように受け取るかは、日本人がどれだけ日本の文化について正しく理解し、そこに自身と誇りを持てるかにかかっているといえます。

私たちはいま、国内で対立などしているヒマはないのです。
ましてや、国を護りたいという保守同士での対立など不要です。
それよりも、いかにして、和と結いと対等という日本的心を、世界に、そして国内に広げて行くかが、いま日本人に課せられた最大の課題だし、回り道にみえるけれど、それがいまある問題を解決する最大の近道なのではないかと思います。

戦前の世界は、まだまだウシハク世界でした。ほんのひとにぎりの植民地特権を持つ者たちが、世界の富を独占し、その利権を守ろうとしていました。
シラス国日本はこれに敢然と立ち向かい、彼らの利権を破壊し、世界を「民衆のための世界」に一気に近づけました。

戦後70年が経ち、その間に多くの国々が植民地支配から独立し、民主的国家を形成しました。
植民地支配していた国々でも、民衆の力が増し、一部の利権者の思いだけでは世の中が動かなくなってきつつあります。
戦前にはなかなか理解されなかったシラス国の素晴らしさが、ようやく世界の人々に理解される時代になってきたのだと思います。
逆に言えば、世界の諸国のレベルがあがってきたということもできます。

そうした中にあって、いまだに前近代的なウシハク社会にあって、民衆から自由な言論も自由な思考も奪われたままになっているのが、支那社会であり、韓国社会です。
とりわけ韓国では、日本が統治時代に追い払ったかつての支配層である両班層が戦後復活し、国を営みました。
彼らには、かつて日本によって放逐され権力を奪い取られたという恨みがあります。
彼らが「千年経っても恨みを忘れない」といっているのは、慰安婦を題材にしているだけで、実は、戦前の日本統治時代に、両班としての特権を奪われた、そのことを言っているのです。

日本が堂々と、日本の文化性を主張し、謝ったり話し合いを求めたりすることの理由をしっかりと述べることは、彼ら朝鮮両班にとっては、彼ら自身の悪行を公にされることを意味します。
おそらく彼らはカネを使い、人を使ってその妨害工作をすることでしょう。

けれど、日本は、日本から武力で攻めることはしませんが、攻め込まれた戦う力を持っている国です。
そしてその戦う力は、韓国あたりが束になってかかってきたところで、まるで歯が立たないほど強靭なものです。
ですから、彼らも武力の行使はできないのです。
つまり、喧嘩を売るだけで、絶対に殴り合いの喧嘩には持ちこめない。
そこに彼らの弱みがあります。

そして彼の国では、彼らが表向き主張している慰安婦問題が、実はねつ造であること、実際にはそれは、朝鮮戦争当時の韓国政府がやったことであることを知っています。
ですから、日本の考え方である、互いに仲良く共生して行くいうこと、日本人が謝ることは、罪を認めたことではなくて、和を大切にしたいと願ってのこと、そして窓口はいまでも開かれているということを、ありとあらゆる機会を利用して、日本は国内に、彼の国に、そして彼の国が慰安婦像を建てようとしている全ての国々に、その宣伝と広報をしていく必要があります。

日本は、日本文化を国内に、そして世界に向けて粛々と、そして堂々と主張すべき時代に入ったのです。

最後に補足しますが、私は日本の文化性を内外に述べれば、慰安婦についての反論は不要だと言っているわけではありません。
反論するだけではなくて、同時に日本の文化性をちゃんと主張しないと、内外からの理解は決して得られないということを申し上げています。

これは、たとえは悪いですが、小学生に鶴亀算を教えるようなものなのです。
どうしてそうなるのかという説明をしなければ、理解は得られない。
そしてその説明義務は、むしろ日本の側にあるのです。
この努力を惜しんでいては、日本は永遠に世界から理解されない。
ただ、「言われたから反論する」というだけでなく、「なぜ日本はそのように考え、行動するか」という、その考えや行動の背景となる日本人の文化性についての説明を同時にしていく努力を惜しんでいては、ただ、対立するばかりで、永遠に白黒はつかない。
そのことを申し上げています。

このことをしっかりと認知していただきたく、今日の記事は「拡散」希望とさせていただきました。

 

歩いてみてください

テーマ:ブログ
リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、かめおか ゆみこさんの★今日のフォーカスチェンジ♪から「歩いてみてください」です。

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もし、いま何かで
悩んでいて、

先が見えないなあと
感じているなら、

おすすめは、
歩くこと!

はい。ウォーキング♪


悩んでいるひとには、
パターンがあります。

たいてい、
止まってます。(笑)

たいてい、
うつむいてます。

たいてい、
ため息ついてます。

たいてい、
ひとりごと言ってます。


逆に言えば、

悩んでいるひとは、
動き回っていません。

顔を上げて、
前を向いていません。

わっはっはと
笑ったりしません。

ひとに積極的に
話しかけていません。


ということは、
単純に言えば、

これらの逆をやれば、
悩みから脱出できる…

少なくとも、暗く
落ちこんでいる状態
からは抜け出す
ことができるんです。

だから
「歩きなさい」って
ことなんです。


歩く、というのは、
単純に言って、脳の
刺激になるんです。

刺激がないと、脳は
活性化しないように
なってますから。

だから、よく昔から、
哲学者や科学者は、
歩いているときに、

真理に目覚めたり、
発明のきっかけを
つかんだりしてます。


それに歩いていると、

まわりの景色が
目に入ってきます。

空がとても青くて
気持ちよかったり、

風が冷たくて、
冬を実感したり、

そんななかでも、
ひざしが
ここちよかったり、

いつもの通りに、
あたらしい店がある
のを発見したり、

ひょっとしたら、
ひょんなところで、
ひょんなひとと
会うかもしれません。


そう、気持ちが
切り替わるんですね。

そしたら、いままで
気づかなかったことにも
気づくかもしれません。

なんてことのない場面で
あらたな発見をする
かもしれません。


そしたら、うれしく
なっちゃいますよね。

もう、歩くどころか、
走り出したく
なっちゃいますよね。

ええ、
それでいいんです。

走り出して
しまってください。

どんどんどんどん、
駆けてみてください。


そしたら、景色が、
美しく流れていくのが
見えるかもしれません。

自分の心臓の鼓動に
気づくかもしれません。

ああ、生きてるなあ
って気持ちに、
なるかもしれません。


思いっきり走って、
どこかでストップして、

「ゴール!」
なんて叫んでみちゃって
ください。

そしたら、そこが、
あなたの悩みの
「ゴール」になるかも
しれません。

いえ、きっと、そのとき
には、悩んでいたこと
さえも、忘れているかも
しれませんね。


人生ってね、そんなもの
かもしれませんよ。

そうやって、未来が
ひらけていくのかも
しれませんよ。


だから、
歩いてみてください。

よかったら、
お気に入りのくつを
はいて。

お気に入りのウェアで。

さっそうと♪


さあ、用意はいいですか?

出かけますよ!

戦後左翼の正体

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国際派日本人養成講座 ■■

                Common Sense: 戦後左翼の正体

 「安倍に言いたい。お前は人間じゃない! たたき斬ってやる!」と言う人々の正体を探ってみれば、、、


 ■1.「言葉の暴力を平気で振るうような人間たちに、『平和』を語る資格はどこにあるのか」

  8月30日、安全保障関連法案に反対する国会周辺の集会で、山口二郎・法政大学教授が、以下の発言をしたと報道されている。

 __________
  昔、時代劇で萬屋錦之介が悪者を斬首するとき、『たたき斬ってやる』と叫んだ。私も同じ気持ち。もちろん、暴力をするわけにはいかないが、安倍に言いたい。お前は人間じゃない! たたき斬ってやる! 民主主義の仕組みを使ってたたき斬ろう。[1]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  安全保障関連法案に反対なら、現在の中国の軍事膨張に対して、どう日本を守るか、という対案を示すべきなのに、そのような政策論議はまるでなく、国民が「民主主義の仕組み」に従って選んだ首相に、品位も論理もない悪罵を投げつけるだけである。

  石平氏は「言葉の暴力を平気で振るうような人間たちに、『平和』を語る資格はどこにあるのか」と批判した上で、自らの経験に照らして、こう語る。

 __________
  今から26年前、私の世代の多くの中国人青年が北京の天安門広場でそれこそ命がけの民主化運動を展開した。しかしわれわれは、本物の独裁者のトウ(登におおざと)小平に対しても「お前は人間じゃない」といった暴言を吐いたことはない。

われわれはただ、民主化の理念を訴えただけだった。だから、民主化運動がトウ小平の解放軍に鎮圧されたとしても、われわれには誇りが残った。[2]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  国会前で「言葉の暴力」を振るう日本の戦後左翼と、天安門で民主化を求めて立ち上がった中国の青年たち[a]とは、姿形は似ているが、その正体は全く異なる。戦後左翼の足跡を辿ってみれば、彼らの正体が見えてくる。


■2.60年安保闘争の挫折

  戦後左翼のピークは、昭和35(1960)年の安保闘争だった。同年5月19日に岸信介内閣の安保条約の改正に反対して、100万人が国会を包囲した。この時、岸首相は「国会周辺は騒がしいが、後楽園球場は満員だ」と言い放ったが、その言葉通り、一般国民は当時から安保改正を支持していた。

  この年の参議院選挙で社会党は敗北し、岸内閣は支持率34%と、安保改正賛成が国民の多数派だった。新安保条約が自然成立して岸内閣が総辞職し、後継の池田勇人首相のもとで行われた総選挙でも、自民党は300議席を超えて圧勝した。

  後に、岸は「安保改訂がきちんと評価されるには50年はかかる。あのときは俺は一握りの人たちとマスコミだけが騒いでいると思っていた。ああいうふうに騒いでいる連中だって、そのうちきっと安保改訂をありがたいと思う時期がくるよ」と語った。[b]

 その言葉通り、半世紀後の平成24(2012)年の内閣府世論調査では、「日米安保条約が日本の平和と安全に役立っている」と考える人の割合は81.2%にも達している。[3]

 安保改定への左翼の批判は「安保で日本はアメリカの戦争に巻き込まれる」というものだったが、半世紀経っても日本はアメリカの戦争に巻き込まれておらず、逆にかつてのソ連や現在の中国に対する抑止力を得て、日米同盟は戦後日本の平和に寄与している。

  戦後左翼の安保反対デモは、政治的主張としては誤りであり、国民の支持も受けていなかった。「一握りの人たちとマスコミ」がデモという物理的な力で、民主選挙で選ばれた政府の決定を暴力で覆そうとした闘争であった。


■3.高度成長が打ち破った「社会主義への道」

  経済面における戦後左翼の主張は「社会主義国家」の建設であった。昭和39(1964)年に日本社会党が綱領として採択した「日本における社会主義への道」は、次のように主張している。[4]

・主要生産手段公有化と計画経済により、生産性を高め国民に豊かな生活を保障する。

・日本資本主義は国家独占資本主義である。資本主義の基本的矛盾は最高度に発展しており、社会主義革命の前夜にある。

  この主張を事実で打破したのが、池田内閣が始めた「所得倍増計画」だった。道路5カ年計画など社会資本の充実、貿易・為替自由化による輸出推進、優遇税制による産業高度化などの具体策が矢継ぎ早に実施された。

  臨海工業地帯には、巨大な鉄鋼、石油化学、火力発電などの巨大プラントが続々と作られた。国民の生活水準も急速に上昇して、カー、クーラー、カラーテレビの「3C」が花形商品となった。

  所得倍増計画の10年間、国内総生産(GDP)は年平均11.3%の伸びを示し、倍増どころか3倍増となった。「主要生産手段公有化と計画経済」ではなく、「民間企業と自由市場」が「生産性を高め国民に豊かな生活」を実現した。[c]

 こうして安全保障と経済成長の両面において、戦後左翼の主張は自民党の政策により、事実によって誤りであったことが実証されたのである。


■4.「ゲバ棒を振り廻すこと自体によろこびを感じている」

  戦後左翼の政策的主張は挫折したが、60年代後半はベビーブーム世代が大学に進学し、反抗期的ムードを原動力とした学生運動が盛りあがった。

  そのピークは、東大安田講堂事件であろう。発端は、医師国家試験制度に関する実務的な問題だったが、「医局員を監禁状態にして交渉した」として大学当局が17人の学生の処分を決めると、過激派学生たちが反発して安田講堂をバリケード占拠して、卒業式を阻止した。

  その後、大学当局が機動隊を導入して、安田講堂を占拠する過激派を排除したが、これに反発して全学の過激派学生がストライキと主要な建物の占拠を行った。昭和44(1969)年1月18日、19日にかけて、警視庁の機動隊8500人が投入され、封鎖解除をした。

  機動隊側は「なるべく怪我をさせずに生け捕りにする」方針をとったが、学生側は上部階から火炎瓶や大きな石、硫酸などの劇物を投下したため、機動隊側で負傷者710人、うち重傷者31名もの被害が出た。学生側は負傷者47名、うち重傷者1名、逮捕者457名となった。[5]

 東大教官で作家の柴田翔は暴れる学生たちの姿を見て、こう書いている。

 __________
  僕がそのとき考えたことは、ゲバルトは国家の暴力装置に対抗するための対抗暴力として出てきたと理解した。僕はたとえ対抗暴力であってもゲバルトには反対だったけど、現象としてはそう理解していた。

ところが大学の教師である自分の目の前で学生たちがゲバ棒を振りまわしているのを見ているうちに、そういう側面もあるけれどもそれはいってみればタテマエと判ってきた。そうではなくて、連中はゲバ棒を持ちたいから持っているんだ、ゲバ棒を振り廻すこと自体によろこびを感じているんだという気がした。[6]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  学費値上げ反対とか、医師国家試験制度などというような実務的な問題を言いがかりとして、「ゲバ棒を振り廻すこと自体によろこび」を感じるような暴力的な運動が、国民の支持を得られるはずもなかった。学生運動は数年のうちに衰退した。


■5.サークルの10人のうちの4人が内ゲバで殺された

 大方の学生が学生運動に見切りをつけて「ノンポリ化」する一方、残った過激派学生はますます先鋭化し、内ゲバ(過激派派閥間の内部抗争)で殺し合いまでするようになっていった。

  昭和48(1978)年に東京大学経済学部に入った池田信夫氏は、社会科学研究会の部長を務めた。この会は、60年安保の時に歴史学研究会とともに、過激派学生の拠点となり、合わせて100人以上の部員がいたらしいが、池田氏の頃は10人くらいに減っていた。その10人のうちの4人が、内ゲバで殺されたという。

 __________
  今でも記憶に残っているのは、梅田順彦という学生だ。まじめな学生で、サークルに入ってきたときは「経済学部で過渡期経済論をやりたい」といっていた。・・・それがしばらくすると、黒田寛一や梯(かけはし)明秀などの革マル派の教祖の本から引用した話を呪文のように繰り返して「中核を打倒することが革命の第一歩だ」などというようになった。

  そのうち梅田はサークルに出てこなくなり、生協の前でアジ演説をやり始めた。「こんな所にいたら危ないぞ」といったら、「大丈夫だよ。みんなの見ている前が一番安全なんだ」と笑っていたが、1975年十月、衆人環視のなかで数人に取り囲まれて鉄パイプでなぐられた。

 頭蓋骨折で、即死だった。おびただしい血が食堂前まで広がって一帯が立入禁止になった。革労協が犯行声明を出したが、犯人は不明だった。

  党派に入って1年もたたない彼が、東大にいなかった革労協に殺されたのは、その直前に静岡で革マルが革労協の活動家を殺害した報復だった。誰でもよかったのだ。[7,位置No.111]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  こうして全国で100名以上の学生が内ゲバで殺されたという。[8] 中国の「文化大革命」や「天安門広場」と同様の虐殺が、小規模ながら日本でも起きていたのである。


■6.「体制側に転向した裏切り者」

  過激派の内ゲバなどで世間から愛想をつかされた戦後左翼は、公害反対運動に活路を求めた。公害は資本主義のもたらす「矛盾」であり、公害病患者がプロレタリアートに代わる「非抑圧者」という同工異曲の構図である。

  反公害運動の草分けの一人が中西準子だった。参議院議員まで務めた共産党員の子として生まれ、マルクス主義の影響を受けた中西は、東大の助手時代に反公害運動に身を投じ、23年間も助手生活を余儀なくされた。

  しかし、中西は反対だけでは何も変わらないと気づき、それまでの流域下水道に代わって、小規模下水道を提案する。汚水をきれいな水に混ぜて処理する流域下水道に対して、汚水だけを分けて処理する方がコストが安いので、全国の市町村が中西の提案を受け入れた。

 __________
  純粋な「汚染ゼロ」の心情論理を主張した人々は何も変えられなかったが、汚染のリスクを最小化した中西は日本の下水道を変え、環境を改善したのだ。[8,1737]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  反公害運動を進める戦後左翼は中西を「体制側に転向した裏切り者」と呼んだ。彼らが真に公害問題の解決を願っていたのなら、それに貢献した中西に感謝・評価するはずである。

  それを逆に「体制側に転向した裏切り者」と悪罵を投げつけるのは、彼らの狙いが公害問題の解決ではなく、公害問題を利用して「体制側」を転覆させることだからだ。公害問題という「矛盾」を改善することは「体制側」を延命させる裏切り行為となる。公害の被害者の人権などはどうでもよいのである。

  同じ事が近年の反原発運動にも言えよう。原発をなくして、電気代が上がろうと、火力発電による環境汚染が進もうと構わない。原発に代わる代替エネルギーの現実的な提案もしようともしない。「反原発」とは単なる「反体制」の幟(のぼり)に過ぎない。


■7.戦後左翼の残党が民主党政権を作った

 このように戦後左翼はもう半世紀も前から挫折し、堕落してきたのだが、その残党は、まだあちこちにしぶとく生き残っている。

  たとえば、民主党政権で首相を務めた菅直人は、かつて学生運動の中心人物であり、大変なアジテーターだった。数百人規模の学生を扇動してデモを始めるが、本人は4列目にいて、前の3列までが警察に捕まる間に消えてしまう。だから、菅は「第4列の男」と呼ばれた。[d]

 そんな人物が、その後、市民運動を経由して、民主党に入り、首相まで務めた。菅は「議会制民主主義は期限を切った、あるレベルの独裁を認めること」と発言しているが、衣の下から戦後左翼の鎧が見える。

  その菅政権で官房長官を務めた仙谷由人は東大時代に全共闘の活動家だった。安田講堂占拠の際も弁当運びなどをしていたようだ。仙谷も「自衛隊は暴力装置」などとお里が知られる発言をしている。

  以上のように、戦後左翼の系譜を辿ってみると、一貫して法と民主主義、人権を無視して、暴力によって権力を握ろうと闘争を続けてきたのが正体であることが判る。彼らが権力を握れば、天安門での中国共産党のように、民主化を求める青年たちを戦車で轢き殺すだろう。

  西側先進国で、わが国ほど、政治、マスコミ、法曹、教育の各界で、いまだに左翼がしぶとく巣くっている政治的後進国はない。わが国が中国に隷従すれば、戦後左翼が一気に息を吹き返して、自由と民主、人権と平和を求める日本国民を暴力で抑え込むだろう。

  安倍首相の進める安保法制改革は、そんな事態を防ぐための戦いだ。だからこそ、彼らは安倍首相に悪罵を投げつけるのである。

 (文責:伊勢雅臣)

 

インドで「緑の父」と尊敬される日本人

テーマ:ブログ
リペアショップ鹿児島店 の坂元です。
今回は、※『致知』2014年2月号より「インドで「緑の父」と尊敬される日本人です。

皆さんは、杉山龍丸という人物を
ご存じでしょうか。


インドで「緑の父」と尊敬される
日本人ですが、
その名前や功績は
殆ど知られていません。


私財を投じ、不毛の地と言われたインドに植林し、
稲作や農作物ができる土壌に変え、
多くのインド人を飢餓から救いました。


その知られざる生涯とは――。


 
父・龍丸が初めてインドを訪れたのは
昭和37年、43歳の時でした。


数か月にわたりインド国内の現状を
つぶさに見て歩きました。


同年12月、パンジャップ州の
総督と面会した際、


「インドの生活を豊かにするためには
 どうしたらいいか」


という質問に対し、龍丸は


「木を植えることです」


と答えます。


当時、インドは食糧不足で、
街には物乞いの人が溢れ、
餓死者も後を絶たない状況だったのです。


原因はインドの砂漠化でした。
インドは古代より森の木を切り倒し
文明を開いてきたため、
土地がやせ、大地の水がなくなり、
地面が乾燥し、不毛の地となってしまっていたのです。


龍丸はパンジャップ州の植林事業の指導を
引き受けることになりました。


周辺の地形を調べると、
首都デリーからアムリッツァル市までの
約470kmの国際道路は
北側のヒマラヤ山脈と並行していることに気づきます。


この道路に沿って木を植えていけば
根が地下に壁のようなものをつくり、
そこにヒマラヤに降った雨を溜めることができ、
大地に水分が蓄えられ、
穀物や野菜を育てることができると考えたのです。


植えるのはユーカリにしました。
根が深く伸び、生命力も強く、何より成長が早い。
さらに成長すればパルプや建築資材として
売れることも魅力でした。


それから間もなくのことです。
龍丸の下にインドで大飢饉が発生した
との連絡が入ります。
この飢饉は3年にもおよび、
実に500万人もの餓死者が出ました。


「この飢饉を救う方法を教えてください」


インドにいるガンジー翁の弟子たちからの懇願に、
龍丸は黙っていられませんでした。


活動資金をつくるため、
父の茂丸、祖父の久作から譲り受けた
4万坪の杉山農園の土地を切り売りすることに、
なんの躊躇もありませんでした。


再びインドへ渡った龍丸は、
何百、何千という餓死者の亡骸と、
生きるために物乞いする子供たちを目の当たりにし、


「この地獄から一刻も早く
 人々を救わなければならない」


と、改めて一刻も早く木を植え、
森をつくることを誓ったのでした。


ユーカリの植林事業はデリーからアムリッツァルまでの
470kmの国際道路沿線両側に、
2本ずつ、4m間隔で植えることにしましたが、
当然現地の人たちの協力が必要になります。


最初は突然やってきた日本人の申し出に
訝る人たちも多かったことでしょう。


しかし、龍丸の説得により
地域の農民たちを巻き込んでの
植林事業はスタートしました。


「タツマルは私たちの心と話した」


とは、一緒に木を植えた方からの言葉ですが、
私心のない龍丸の情熱が言葉の壁を超え、
彼らに伝わったのでしょう。


そうして、7年の歳月をかけて
470kmものユーカリの並木が完成し、
その周辺の土地は水分を含んだ土壌に
代わっていきました。


しかし、本当の挑戦はこれからです。


  

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靴修理店 店長ブログ!

鹿児島市西千石町のフレッセ厚生市場内にある靴修理・鞄修理・合鍵作製の店「リペアショップ鹿児島店」です。

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