昭和天皇と白川義則大将

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、国際派日本人養成講座より、「昭和天皇と白川義則大将」です。


■1.「爆弾が投げ込まれたのは分かっていたが」

  昭和7(1932)年4月29日、天長節の式典が上海の虹口公園でも挙行されていた。この年、1月29日に第一次上海事変が起こり、白川義則大将率いる上海派遣軍が国民政府軍を撃退して、5月5日には国民政府との停戦協定を結ぶ手はずとなっていた。

  朝からの曇天は細雨となったが、国歌斉唱では公園を埋めた群衆も壇上の代表たちも粛然と声をあげた。その時に後方からアルミ製の水筒が壇上に投げ込まれ、重光葵大使の足元に落ちた。

 __________
  爆弾が投げ込まれたのは分かっていたが、国歌斉唱の最中に動くのは不敬であると考え動かなかった。[1]
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  と、重光は日記に書いている。動かなかったのは、壇上の野村司令官、白川大将なども同じだった。火花と爆煙が式台を覆った。

  水筒には爆薬とともに鉄片が練り込まれていた。重光公使は左右の下肢に爆傷、全身に多数の弾片傷を受けたが、生命はとりとめた。この後は隻脚の外交官として、昭和天皇のアジア諸国との平和・親善の御心を体して尽力した。[a,b]

 白川大将も全身に破片を受けたが、顔面に流れる血をそのままに、足下に落ちた軍帽をかぶり、駆け寄った憲兵に「犯人を捕らえよ」と命じた。

  犯人の朝鮮人・尹奉吉は、その場で「大韓独立万歳!」と叫んだ後で自殺を図ろうとした所を検挙された。


■2.第一次上海事変

  この前年、昭和6(1931)年に満洲事変が起こり、関東軍は半年で満洲全土を占領した。満洲はもともと満洲族の土地であり、昭和7(1932)年、関東軍により、満洲族の王朝であった清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)が執政に迎えられて、満洲国が建国された。

  この動きに対して、蒋介石率いる国民政府は日貨排斥運動を全国的に扇動した[c]。現代においても数年前に中国共産党が反日暴動を扇動したが、それと同様である。

  さらに、国民政府は日本を非難して、国際連盟理事会に提訴した。それに基づき、国際連盟はイギリス人リットンを団長とする調査団を3月に満洲に派遣していた。

  満洲事変以来、昭和天皇は国の行く末を心配されて、眠れない夜が続いていた。ひとり政務室のなかをぐるぐる歩き回り、大きな声で独り言を言われる。そばに侍る侍従たちは、その声を聞き、暗澹たる思いであった。

  昭和7(1932)年1月には、上海郊外に国民政府の十九路軍約3万人が押し寄せた。上海の租界には、英米仏伊の居留民とそれを守るための各国軍が駐留していた。日本人も約2万7千人の居留民がおり、海軍陸戦隊1千人を駐留させていた。日本を含む列国は租界内を共同して警護する事を決めた。

  1月28日午後、日本の警備地区が十九路軍の射撃を受け、90余名の死傷者が出た。軍事衝突の発生を受けて、日本側、国民政府側とも援軍を送った。日本側は更なる軍事衝突を避けるために、国民政府軍に対し、列国租界から20キロ撤退することを要求したが、十九路軍はこれを拒否、2月20日に日本軍は総攻撃を開始して、激烈な戦闘が始まった。

  第一次上海事変の始まりである。


■3.「お前ならば守ってくれるだろう」

  2月19日には犬養毅首相は上海には増兵しない方針を打ち出し、昭和天皇は大変、喜ばれたが、戦火は収まらず、やむなく2個師団の増派が決定され、派遣軍司令官に元陸相の白川義則大将が選ばれた。

  事変の拡大を憂えられていた昭和天皇は、国際連盟が3月3日に総会を開くと決めたので、「その日までに上海の陸軍をひきあげねばならぬ」と侍従武官長に厳命されていた。

  白川大将の親補式が2月25日正午に執り行われた。昭和天皇は特に「条約尊重、列国強調を旨とせよ」と指示され、さらにこう言われた。

 __________
  それからもう一つ頼みがある。上海から中国軍を撃退したら、決して長追いしてはならない。計3個師団もの大軍を動かすのは戦争のためではなく、治安のためであるということを忘れないでほしい。とくに陸軍の一部には、これを好機に南京まで攻め込もうとする機運があると聞いている。[2,p30]
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 「存じております」と答えた白川大将に、陛下が重ねて言われた。

 __________
  私はこれまでいくたびか裏切られた。お前ならば守ってくれるだろうと思っている。
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  白川大将は、このお言葉にはらはらと涙をこぼし、聖旨をかならず守ることを誓った。

  翌2月26日、白川大将は東京を発った。3月3日までには、あと6日しかない。


■4.白川大将と重光公使

  白川大将率いる上海派遣軍が3月1日に十九路軍の背後を突く形で上陸すると、敵は退却を開始した。

  参謀本部次長からは「あくまで敵を急迫し、徹底的打撃を与えることを期待す」という要請が届いており、停戦の雰囲気など毫(ごう)も見えなかった。

  白川大将は重光公使と会うと、余人を遠ざけて、こう伝えた。

 __________
  自分が出発前に天皇陛下に拝謁したところ、陛下は自分に対して、事態は重大であるから、お前はなるべく早く軍の目的を達して、遅滞なく軍を引き揚げて帰って来いと申された。この事を貴下の耳に入れておきたい。[a]
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  重光公使自身も、1月に帰国して中国の状況について上奏した際に、やはり陛下は「上海方面においても、和平を旨とするよう」と言われていた。

  和平を願われる陛下の大御心をいかに実現するか、二人の志は一致していた。


■5.「白川は戦争を止めます。停戦命令を出します」

  3月3日に現地会議が開かれた。午後1時、ジュネーブでは国際連盟総会が開かれる日の朝である。重光は姿勢を正して、こう述べた。

 __________
  いまわれわれは上海における軍と外交の最高責任者として、国家の大事を相談しているわけです。その結果は日本の国運に少なからず影響するでありましょう。とくに東京の宮中においては、さぞかし天皇陛下はこのことについて御心配をされておられることと思います。恐懼に耐えません。[a]
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  この発言に白川大将は胸を打たれた様子で、しばしの熟慮の後、いきなり立ち上がって言明した。「白川は戦争を止めます。停戦命令を出します」

  その口調ははるか東京の陛下に奏上するかのように、聴く者に荘重に響いたという。重光公使は「独り心に期するところありしものの如く、遂に参謀等の反対を押し切り停戦を断行した」と記録に残している。[3]

 陸軍中央からは追撃の指令が次々と届けられていたが、司令官の権限をもって、停戦を断行した。陸軍は激怒した。

  午後2時に出された停戦命令により、ジュネーブの国際連盟総会の険悪な空気が一挙に好転し、日本は見直されて、日中両国に停戦協議の開始を要請するだけで終わった。

  陛下は心から喜ばれて、鈴木貫太郎侍従長に何度も言われた。「本当に白川はよくやった」と。


■6.「よかったね。ほんとうによかった」

  停戦交渉は、英米仏伊の4カ国公使の斡旋で、重光公使と国民政府外交部で進められ、ほとんど締結寸前まで漕ぎつけていた。その矢先に起こったのが、冒頭の爆弾テロであった。

  犯人の尹奉吉は、上海における亡命政権である大韓民国臨時政府の首班・金九の指示でテロを行った。そして、この組織は国民政府から資金援助を受けていた。

  しかし、この爆弾テロは、日本と国民政府の停戦交渉がまとまりかけた時期に仕掛けており、日中の戦闘拡大を狙ったものと考えるべきだろう。

  実は十九路軍は国民党軍を装いながら、実質的には中国共産党が扇動している、と日本側は見ていた。[d] 日本と国民政府を戦わせて共倒れをさせることが、モスクワの指示を受けた中国共産党の戦略であった。中国共産党は国民党政府内にも多くのスパイを送り込んでおり、十九路軍がその指示で動いていたとしても不思議ではない。

  事件をきっかけに、上海居留邦人の不安がかき立てられ、陸軍の強行派が勢いを得るのでは、と天皇も心配されたが、入院中の重光公使が苦痛に耐えながら、停戦交渉を進め、5月5日に無事、調印に漕ぎ着けた。

  5月7日、伏見宮軍令部長と真崎参謀次長が停戦協定の成立を上奏すると、天皇は晴れ晴れとした笑顔で、奈良武官長にいった。「よかったね。ほんとうによかった」

  奈良武官長は、これまでの天皇の心配ぶりを知っていただけに、これでご安心いただける、とホッとした。


■7.「有難い、まことに有り難い」

  白川大将は病院にて瀕死の床についていいたが、5月20日には周囲にこう指示した。

 __________
  今度くらい陸海軍の共同作業がうまく行ったことはない。このことは、自分が奏上することが出来なくても、陛下の上聞に達するように。
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  5月23日、陛下から白川大将に勅語が電報で届けられた。

 __________
  卿、上海派遣軍司令官トシテ異域ニ在リ、精励克(よ)ク其任務ヲ達成シテ、威武ヲ宣揚シ、国際ノ信義ヲ敦(あつ)クセリ。朕(ちん)深ク其労ヲ嘉(よみ)ス
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  病床の白川は息絶え絶えとなりながらも「有難い、まことに有り難い」と幾度もつぶやいた。

  しかし、治療の甲斐もなく、両手を胸に、東方を拝したまま、5月26日に絶命した。

  翌昭和8年4月末、白川大将の遺族宅に鈴木侍従長から「明日お届けしたいものがありますから在宅願います」と電話があった。当時大学生だった長男の白川義正氏が、入院中の母に代わって、学生服姿で待っていると、侍従長が一人で来訪した。

 __________
  靖国神社を陛下が参拝されたおり、故白川大将を思い出されて歌を詠まれた。その歌を持参しました。
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  と、侍従長は短冊に墨書された御製(ぎょせい、天皇のお歌)を手渡した。

  をとめらが雛(ひな)祭る日にたたかひをとどめしいさをおもひでにけり

「娘たちがお雛様を祭ってお祝いをする日に戦闘を止めた功績が思い出された」という意味である。

  天皇が特定の個人に御製を贈るのは、きわめて異例だ。それだけに、昭和天皇の故白川大将への御思いの深さが窺われる。


■8.『昭和の日』に思い出したいこと

 こうして白川大将の決断により、第一次上海事変は決着した。日中の対決はしばし収まったが、再び戦火が燃え広がったのは、それから4年余後の昭和12(1937)年のことだった。

  日本と国民政府を戦わせて共倒れにさせ、共産革命を実現しようとする中国共産党の魔の手により、同年7月7日に日本軍が銃撃を受けて始まった盧溝橋事件、7月29日に在留邦人260名が惨殺された通州事件、8月11日、日本人租界が包囲されて始まった第2次上海事変、と矢継ぎ早に挑発が繰り返された。[d]

 こうして昭和天皇の御祈りもむなしく、日本は中国大陸での戦争に引きずり込まれていったのである。

  第一次上海事変を小火で収めることが出来たのは、昭和天皇の平和への御心を体した白川大将の軍事統率力と重光公使の外交交渉力のお陰だった。「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」ために設けられた『昭和の日』には、この逸話を思い返してみたい。
 (文責:伊勢雅臣)

面白がれる人

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今回は、櫻井秀勲氏の心に響く言葉より…「面白がれる人」です。




「面白いですねえ。さっそく上と相談して、できるだけ早くご返事します」

アイデアやプランを相手からいただいたとき、こんなふうにいう人は必ず出世します。

それに対して、

「わかりました。上と相談してご返事します」

という人は、たいていはそのプランはもちろん、その人もダメになってしまうことが多いのです。


その違いは何かといえば、「面白いですね」の一言がいえているかどうかです。

仕事を進めていくときや、人とつき合っていくときに、感動、感激のない人は、うまくいきません。


「わかりました。上と相談してご返事します」という答え方は、間違っていません。

正しいか正しくないかでいえば、正しいといってよいでしょう。

けれども、人生で成功するなら、何かをするときに、「正しいか正しくないか」で考えるより、「面白いか面白くないか」で行動するほうが、ずっとうまくいきます。

「面白い」というのは、太陽の光が当たって、顔が白くなることから来ています。

陽を浴びると、思わず顔もほころんで、笑顔になります。


思わず、そんな「面白」くなることをしていくことが、周りの人生を楽しくさせ、自分の運を引き寄せます。

「面白そう」と思ったら、すぐ行動に移すようにしましょう。

その行動が、面白い人生を演出してくれるのです。


自分の起こした行動は、なにかしら他人に影響を及ぼすものです。

そして、その影響力の大きい人ほど有名になるなど、有利で大きな存在になっていくことでしょう。

坂本龍馬は、丁度そんなタイプだったと思われます。

一介の土佐浪人でしたが、彼が行動を起こすことで、最初は少しずつ他人に影響を与え、遂には天下を動かすほどの影響力をもつに至ったのです。

その龍馬は多分、最初は「面白そう」というところから、始めたのではないでしょうか?


「大坂(大阪)が面白そう」「江戸が面白そう」「外国が面白そう」と、考えたら、即座に行動に移したようです。

すると、まだ誰も考えつかない時期に行動を起こすのですから、当然注目されます。

注目されれば、その存在は益々大きくなり、影響力も強まるのです。


あなたもぜひ、どんなことも「面白そう」と最初に思ってください。

それが自分を大きくする第一歩なのです。

「つまらない仕事だ」と、いい加減にしないことです。

つまらなくても、面白くして見せる、という心構えをもつことで、多分あなたの運命は、劇的に面白い人生に変わっていくと、私は思うのです。


『愛敬の法則』KKロングセラーズ





「おもしろき こともなき世を おもしろく すみなすものは心なりけり」

という、幕末の革命児、高杉晋作の有名な歌がある。

後の、「すみなす…」は、野村望東尼が付け加えたと言われる。


中村天風師は、「人生は心一つの置きどころ」といった。

人生は心の持ちようでどうにでも変わる。

心が積極的で肯定的あれば、人生は明るく面白いものとなるし、反対に、心が消極的で否定的であれば、人生は暗くつまらないものとなる。

雨が降って「嫌だな」と思うか、恵みの雨だ「ありがたい」と思うかの違い。


どんなことでも、面白がれる人でありたい。

「隠しぼめ」の効果

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今回は、心理学者、渋谷昌三氏の心に響く言葉より…「隠しぼめ」の効果です。



映画監督の山田洋次さんが演出家として駆け出しの頃のことです。

テレビドラマで初めて渥美清さんを演出することになりました。

山田洋次さんは、渥美清さんという喜劇役者としての才能を高く評価していました。

しかし渥美さんのほうは山田さんをあまり良くは思っていないという噂も、山田さんの耳には入っていました。

経験や境遇が違い過ぎるのです。


渥美さんは小さな劇場の幕間にやる余興のコント役者として芸を磨いてきた熟練者です。

片や、山田洋次さんは東京大学を出たエリートです。


渥美さんの中には、3歳年下の山田さんが「アタマでっかちの、青臭いことを言う演出家」といった先入観が働いていたのでしょうか。

「そんなヒヨッコに、つべこべ言われたくない」という反発心があったのかもしれません。

さて渥美さん主演のドラマを取り終えた際、山田さんには「渥美さんと仕事をするのも、これが最初で最後。もうご一緒することもあるまい」という思いがあったそうです。

と、意外にも渥美さんのほうから、

「あんたとは、また一緒に(仕事を)やりたいね」

と、ひと言。

山田さんは、うれしさがこみあげてきたそうです。


この「また一緒にやりたいね」という言い方、ストレートなほめ方ではありませんが、「山田さんの仕事を評価している」という含意が伝わり、それが山田さんの気持ちを動かしています。

これは見事な「隠しぼめ」です。


誰かと会って、とても楽しいひとときをすごすことができたとしましょう。

相手の人柄も気に入りました。

しかし、ほめ言葉がうまく出てきません。

お互いに独身同士、相手が異性であるという状況ではなおさら照れくささが先に立ちます。


そんな場合は、この「また」を使い、「あなたを気に入りました」「今日は楽しかった」というメッセージを発信してほしいものです。

「またお話を聞かせてくださいね」

「また誘ってくださいね」

「またご一緒しましょう」

どうという会話ではありませんが、相手は「自分の存在が認められた」という思いになります。

これは、「ほめられる」に通じる心理です。


どれも相手をストレートにほめているのではありません。

けれども相手は「ほめられた」と感じ、それまでの不安が解消します。

メッセージがじわりと伝わる、これが「隠しぼめ」の真理効果です。


『人の2倍ほめる本』新講社ワイド新書




人間関係がよくなる事の一つに、「陰(かげ)ぼめ」や「隠(かく)しぼめ」がある。

「陰ぼめ」とは、本人がいないところでその人を褒めること。

「隠しぼめ」とは、ストレートにほめるのではなく、さりげなく、奥ゆかしく、相手を認めることによってほめること。

「あなたがいてくれてよかった」「ありがとう、いつも助かります」「あなたが来てくれるだけで皆、明るくなる」等々の存在の肯定。


「存在の肯定」の反対は「存在の否定」。

「存在の否定」とは、「出て行ってくれ」「バカヤロウ」「おまえがいるからうまくいかなくなる」「もう二度と会いたくない」等々。


「また会いたい」という「隠しぼめ」は、人間関係をよくする最高のことば。


マス文化の外にある「本当にいいモノ」

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今回は、本田直之氏の心に響く言葉より…マス文化の外にある「本当にいいモノ」 です。



和歌山県にカネキチ工業というニットの生地を作る会社があります。

創業は大正9年(1920年)。

約100年の歴史を持ち、1900年代初頭に日本に輸入された吊機という希少な旧式の編み機を使い、ニット生地を編み立てています。


この吊機を使った工場は日本に2つしかなく、世界でもごくわずか。

理由は大量生産、大量消費という時代に合わなかったからです。

量産を重視した高速の編み機が主流となり、生産性や採算性が低い吊機は次々と姿を消していきました。


実際、1台の機械が1日かけてもスウェット7枚分ほどのニット生地しか編み立てられません。

しかも、機械1台ごとに生地の風合いが微妙に異なる仕上がりになるそうです。

時間がかかり、正確性は低いという面もありますが、一方で、吊機だからこそできるニット生地の風合いは独特のもので、ここ数年、カネキチ工業には注文が殺到しています。


吊機が何百台と並ぶ工場内を歩きながら、わたしたちを案内してくれた社長さんはこんな話をしてくれました。

「戦後、昭和30年代後半から40年代にかけ、大量生産を求められるなかで周りの工場はみんな高速編み機を導入していきました。

正確に大量に生地を作ることができ、機械の故障も少なく、効率もいい。

吊機はメンテナンスが面倒で、年代もので、ボロい。

よく『あんたのところは遅れているね』と笑われました」


当時、周りの同業者のみならず、工場で働く人も「この工場は大丈夫かな」「お金がないから設備投資できないんじゃないか」と思っていたはずです。

ところが、昭和の終わりから平成に入り、状況は一変します。

大量生産に走った工場のほとんどは潰れてしまいました。

高速編み機を備えた中国などの工場にコスト競争で勝て故障も少なく、効率よく正確に大量の生地を作ることができるという優位性は長くは続かなかった。

周りの工場に歩調を合わせ、設備投資をし、機械を新しくした当時はその選択が正解だったものの、環境が変化してしまった。

すると、今までの武器だった効率性では違いが生み出せず、同じように個性がないならば安い方が勝つという消耗戦に巻き込まれていったのです。


そして、今は中国でも同じことが起きています。

大量生産、大量消費の流れの中で勝負できなくなった工場が次々と消えています。


一方、吊機を残し、時代の最後尾にいたはずのカネキチの工場には世界中から「そこでしか作れない生地」「独特の風合い」を求めて次々と注文が舞い込み、気づけば最先端に立っているのです。

かつてのルールでは「ロットごとに風合いが違うなんてありえない」と爪弾きにされ、「不良品」という評価すら下されていた生地が「味があっていい」に変わる。

不便で効率化されなかったからこそ、残った独自性が評価される。

まさに、劇的な大逆転。

社会が豊かになったことで、マス文化の外にあった「本当にいいモノ」に気づく人が増え、オリジナリティや他では手に入らないモノが求められる時代に変わってきたわけです。


この流れは個人個人の評価にも共通しています。

顔が見えて、仕事のできる人が求められ、必要とされていく。

周りの人に合わせ、同じことを平均的にやる能力にすがっていると、最後尾に追いやられてしまう日がすぐそこまで迫っています。


逆に、自分で確立したスキルを持っている人であれば、どこへ行っても通用する時代になったと言えます。

立派な学歴や大企業に勤めた経験など、古い価値観の中では高く評価された実績がなくとも、大丈夫。

大きく変化する時代には、誰にでも成功のチャンスがあるのです。


『何を捨て何を残すかで人生は決まる』青春新書




藤村正宏氏はこう語る。

「モノではなく体験を売る視点を忘れてしまったら、スペック競争、価格競争、立地競争に巻き込まれ、不毛な商売になってしまうのです。

選んでもらえる強烈な理由がなければ、売れない時代になったのですから」

それが、開発ストーリーだったり、お客様とのつながりや関係性(親しさや共感性)だったり、それによってどういう体験(楽しさ)をえられるかだったりする。


何かを選ぶとき、スペック(性能・仕様)や条件で選ぶなら、それより条件のいいものが現れたときに不満になる。

機能や効率で勝負するなら、いつかは機能や効率で敗れる。

必ず、もっといいものが現れるからだ。


豊かになった現代人のモノやコトの選び方は大きく変化している。

マス文化の外にある「本当にいいモノ」。

変化に対応する柔軟な考え方を身につけたい。

敵兵422人を救助した武士道

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今回は、国際派日本人養成講座より、 駆逐艦「雷」艦長・工藤俊作
~ 敵兵422人を救助した武士道 「貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」です。


■1.「旧敵との和解」■

 1998(平成10)年4月、英国では翌月に予定されている天
皇の英国訪問への反対運動が起きていた。その中心となってい
たのは、かつて日本軍の捕虜となった退役軍人たちで、捕虜と
して受けた処遇への恨みが原因であった。

 その最中、元海軍中尉サムエル・フォール卿がタイムズ紙に
一文を投稿した。「元日本軍の捕虜として、私は旧敵となぜ和
解することに関心を抱いているのか、説明申し上げたい」と前
置きして、自身の体験を語った。

 大東亜戦争が始まってまもなくの1942(昭和17)年2月27
日、ジャワ島北方のスラバヤ沖で日本艦隊と英米蘭の連合部隊
の海戦が始まった。連合部隊の15隻中11隻は撃沈され、4
隻は逃走した。3月1日にスラバヤ沖で撃沈された英海軍の巡
洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」の乗組員4百
数十名は漂流を続けていたが、翌2日、生存の限界に達した所
を日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」に発見された。

「エンカウンター」の砲術士官だったフォール卿は、「日本人
は非情」という先入観を持っていたため、機銃掃射を受けて最
期を迎えるものと覚悟した。

 ところが、駆逐艦「雷」は即座に「救助活動中」の国際信号
旗を掲げ、漂流者全員422名を救助したのである。艦長・工
藤俊作中佐は、英国海軍士官全員を前甲板に集め、英語で健闘
を称え、「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストであ
る」とスピーチしたのだった。そして兵員も含め、全員に友軍
以上の丁重な処遇を施した。

 このフォール卿の投稿によって、以後の日本批判の投書はこ
とごとく精彩を欠くことになった。

■2.「オラが艦長は」■

 工藤が駆逐艦「雷」の艦長として着任したのは、昭和15
(1940)年11月1日だった。身長185センチ、体重95キロ
と大きな体に、丸眼鏡をかけた柔和で愛嬌のある細い目をして
いた。「工藤大仏」というあだ名を持つ温厚な艦長に、乗組員
たちはたちまち魅了されていった。

 着任の訓示も、「本日より、本官は私的制裁を禁止する。と
くに鉄拳制裁は厳禁する」というものだった。士官たちには
「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」
と口癖のように命じた。見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望
鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派
だ」と誉めた。

 酒豪で何かにつけて宴会を催し、士官と兵の区別なく酒を酌
み交わす。兵員の食事によく出るサンマやイワシが好きで、士
官室でのエビや肉の皿を兵員食堂まで持って行って「誰か交換
せんか」と言ったりもした。

 2ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは「オラが艦長は」と
自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔
いはない」とまで公言するようになった。艦内の士気は日に日
に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していった。

■3.海軍兵学校・鈴木貫太郎校長の教育■

 工藤艦長は、海軍兵学校51期だったが、入学時に校長をし
ていた鈴木貫太郎中将の影響を強く受けた。鈴木はその後、連
合艦隊司令長官を務めた後、昭和4年から8年間も侍従長とし
て昭和天皇にお仕えした。その御親任の厚さから、終戦時の内
閣総理大臣に任命されて、我が国を滅亡の淵から救う役割を果
たす。[a,b]

 工藤ら51期が入学した時に校長に着任した鈴木は、従来の
教育方針を以下のように大転換した。

・鉄拳制裁の禁止
・歴史および哲学教育強化
・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)

 日本古来の武士道には鉄拳制裁はない、というのが、その禁
止の理由だった。工藤ら51期生は、この教えを忠実に守り、
最上級生になっても、下級生を決してどなりつけず、自分の行
動で無言のうちに指導していた。

 歴史および哲学教育の強化の一貫としては、鈴木自身が明治
天皇御製についての訓話を行い、

四方の海皆はらからと思ふよになど波風に立ちさわぐらん

の御製から、明治天皇の「四海同胞」の精神を称えている。工
藤の敵兵救助も、この精神の表れであろう。

■4.日本海軍の武士道■

 大東亜戦争開戦の2日後、昭和16(1941)年12月10日、
日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の「不沈
艦プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈し
た。

 駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員
たちの救助を始めたが、日本の航空隊は一切妨害せず、それど
ころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、と
いう仕草を送った。さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガ
ポールに帰投するさいにも、日本機は上空から視認していたが、
一切、攻撃を差し控えていた。

 こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させた。
工藤の敵兵救助とは、こうした武士道の表れであり、決して、
例外的な行為だったわけではない。

 昭和17(1942)年2月15日、シンガポールが陥落すると、
英国重巡洋艦「エクゼター」と駆逐艦「エンカウンター」は、
ジャワ島スラバヤ港に逃れ、ここで、アメリカ、オランダ、オ
ーストラリアの艦船と合同して、巡洋艦5隻、駆逐艦9隻から
なる連合部隊を結成した。

 この連合部隊に、日本海軍の重巡「那智」「羽黒」以下、軽
巡2隻、駆逐艦14隻の東部ジャワ攻略部隊が決戦を挑んだ。
日本海海戦以来、37年ぶりの艦隊決戦である。

 2月27日午後5時、海戦が始まった。当初、「雷」は開戦
以来、敵潜水艦2隻、哨戒艇1隻撃沈という戦闘力の高さを買
われて、艦隊後方で指揮をとる主隊の護衛任務についていた。
そこに「敵巡洋艦ヨリナル有力部隊発見、我交戦中」との信号
を受けて、主力は戦場に向かった。しかし、到着した時には、
敵艦隊はスラバヤに逃げ込んで、肩すかしを食らった。

 2月28日、「エクゼター」は被弾箇所の応急修理を終え、
「エンカウンター」と米駆逐艦「ポープ」を護衛につけて、イ
ンド洋のコロンボへと逃亡を図った。しかし、3月1日に「雷」
の僚艦「電(いなづま)」を含む日本の駆逐艦隊に取り囲まれ、
攻撃を受けた。

■5.「沈みゆく敵艦に敬礼」■

 午後12時35分、「電」は指揮官旗を翻す「エクゼター」
に砲撃を開始した。「エクゼター」はボイラー室に被弾して、
航行不能に陥った。午後1時10分、「撃ち方止め!」の号令
が下され、敵艦に降伏を勧告する信号が発せられた。

 しかし、艦長オリバー・ゴードン大佐は降伏せず、マストに
「我艦を放棄す、各艦適宜行動せよ」の旗流信号を掲げた。
ここで「エクゼター」の乗組員たちは、次々と海中に飛び込み、
日本艦隊に向かって、泳ぎ始めたのである。「エクゼター」で
は、士官が兵に対し、「万一の時は、日本艦の近くに泳いでい
け、必ず救助してくれる」といつも話していた。「プリンス・
オブ・ウェールズ」沈没の際の日本海軍の行動が記憶にあった
のだろう。

「電」は、傾いた「エクゼター」に魚雷を発射して、とどめを
刺した。「電」艦内に、「沈みゆく敵艦に敬礼」との放送が流
れ、甲板上の乗組員達は、一斉に挙手の敬礼をした。その敬礼
に見送られて、「エクゼター」は船尾から沈んでいった。

 まもなく「海上ニ浮遊スル敵兵ヲ救助スベシ」の命令が出さ
れた。救命ボートに乗っている者、救命用具をつけて海面に浮
かんでいる者に対して、「電」の乗組員は、縄ばしごやロープ、
救命浮標などで、救助にあたった。蒼白な顔に救出された喜び
の笑みをたたえ、「サンキュウ」と敬礼して甲板にあがってく
る者、激しい戦闘によって大怪我をしている者などが、次々と
助け出された。

 甲板上に収容された将兵には、乾パンとミルクが支給された。
「電」によって救助された「エクゼター」乗組員は376名に
上った。

■6.重油の海での漂流■

 駆逐艦「エンカウンター」は、旗艦「エクゼター」が停止し
た時、その「各艦適宜行動せよ」という命令に従い、単独での
航行を続けた。艦長モーガン少佐は「エクゼター」の乗組員を
救助すべきかと、一瞬迷ったが、「プリンス・オブ・ウェール
ズ」と「レパルス」沈没の際の日本海軍の行動を覚えていたの
で、こう決断したのである。

 しかし、その「エンカウンター」も日本艦隊の追撃を受け、
8千メートル東方の海域で、30分後に撃沈された。この時、
20歳の砲術士官だったフォール卿は、こう証言している。

 艦長とモーターボートに乗って脱出しました。その直後、
小さな砲弾が着弾してボートは壊れました。・・・この直
後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。

 間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けま
した。固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っ
ていきました。[1,p251]

 この時は、米蘭の潜水艦がジャワ海で行動しており、敵の攻
撃をいつ受けるか分からない状況では、国際法上は、海上遭難
者を放置しても違法ではない。

「エンカウンター」の乗組員たちは、自艦から流出した重油の
海につかり、多くの者が一時的に目が見えなくなった。その状
態で、約21時間も漂流した。

■7.「これは夢ではないか」■

 そこに偶然、通りかかったのが、駆逐艦「雷」だった。見張
りが「漂流者400以上」と報告した。工藤艦長は敵潜水艦が
近くにいない事を確認した後、「救助!」と命じた。

「雷」の手の空いていた乗組員全員がロープや縄ばしご、竹竿
を差し出した。漂流者たちは、われ先にとパニック状態になっ
たが、青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然と
順番を守るようになった。

 重傷者から救う事になったが、彼らは最期の力を振り絞って、
「雷」の舷側に泳ぎ着いて、竹竿に触れるや、安堵したのか、
ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。甲板
上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」
と呼びかける。この光景を見かねて、何人かの乗組員は、自ら
海に飛び込み、立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻
き付けた。

 こうなると、敵も味方もなかった。まして同じ海軍軍人であ
る。甲板上で「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者も
いた。無事、救出された英兵は、体についた重油を乗組員が布
とアルコールで拭き取ってやった。新しいシャツと半ズボン、
靴が支給され、熱いミルクやビール、ビスケットが配られた。

 フォールズ卿はこう回想している。

 私は、まさに「奇跡」が起こったと思い、これは夢では
ないかと、自分の手を何度もつねったのです。

■8.「今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである」■

 間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられ
た。

 すると、キャプテン(艦長)・シュンサク・クドウが、
艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼をしまし
た。われわれも遅ればせながら答礼しました。

 キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチさ
れたのです。

 諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あ
るゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、
今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなこと
である。[1,p258]

「雷」はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、た
とえ遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止
し、乗組員総出で救助した。水没したり、甲板上で死亡した者
を除いて、午前中だけで404人、午後は18人を救助した。
乗組員約150名の3倍近い人数である。

 翌日、救助された英兵たちは、オランダの病院船に引き渡さ
れた。移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されてい
る旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、またウィングに立つ工藤に
敬礼した。工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をした。兵のほ
うは気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感
謝の意を表していた。

■9.「サイレント・ネービー」の伝統■

 フォール卿は、戦後、外交官として活躍し、定年退職後、
1996(平成8)年に自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓し、
その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。

 平成15(2003)年10月、フォール卿は日本の土を踏んだ。
84歳を迎える自身の「人生の締めくくり」として、すでに他
界していた工藤艦長の墓参を行い、遺族に感謝の意を表したい
と願ったのである。しかし、あいにく墓も遺族も所在が分から
ず、フォール卿の願いは叶えられなかった。

 フォール卿から依頼を受けて、[1]の著者・恵隆之介氏は3
ヶ月後に、遺族を見つけ出した。工藤俊作の甥・七郎兵衛氏は
「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のこと
は口外しなかった」と落涙した。サイレント・ネービーの伝統
を忠実に守って、工藤中佐は己を語らず、黙々と軍人としての
職務を忠実に果たして、静かにこの世を去っていったのである。
(文責:伊勢雅臣)

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