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自分を幸福にする意味づけ

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、★今日のフォーカスチェンジより、「自分を幸福にする意味づけ」です。


ひとは、フォーカスに
よって、思考する。

「よくないこと」と
フォーカスしたとたん、

よくない理由が、
次々に見つかる。

それが
脳の仕組みだから。


おおくのひとは、
そのことに
気づいていない。

目の前にあらわれる
「現象」にとらわれて、

それが真実だと思いこ
んで、右往左往する。

本当は、自分がつくっ
た枠組みなのに、

変えられない事実の
ように錯覚して、
振り回される。


だから、いったん
その枠組みをはずす。

はずして、まっさらに
見直してみる。

起きてくる事実に
意味はない。

ただ、意味をつける
自分がいるだけだ。


そこで、あらためて
考えてみる。

このできごとは、
自分にとってどんな
意味があるの?

…いや、質問のことば
を、ちょっとだけ
変えてみよう。

このできごとに、
自分は、どんな意味を
つけるの?

うん、こっちのほうが、
しっくりくる。


そう。

どんなことも、
自分が決めたことしか、
受け入れることは
できない。

だから、
意味は、自分でつける。

ただ、そのときに
ポイントがある。

何のために、
つけるかということだ。


その結果によって、
自分が
元気になりたいのか?

わくわくしたいのか?

勇気を得たいのか?

幸福になりたいのか?

それを
自分で選んだらいい。

それが、あらたな
「フォーカス」になる。


だから、あなたが
元気になれない意味づけ
は、却下していい。

わくわくしない意味づけ
も、ノーサンキュー。

勇気をくじく意味づけ
なんて、おことわり。

そうして、自分を幸福
にする意味づけを、
積極的にしてみよう。


たとえば、自分で
はじめた仕事がうまく
いかなかったとしよう。

これに、どんな
意味をつけるか?

それが本当にやりたか
った仕事なのか、
あらためて吟味する
チャンスかもしれない。

本気の度合いをためされ
ているのかもしれない。

あるいは、より高い
スキルを学ぶきっかけ
を、もらっているのかも
しれない。

ともに仕事をするひとび
とを、もっと信頼しなさ
いと、言われて
いるのかもしれない。


どれでもいい。

ひとは、自分で決めた
ことしか受け取れないの
だから、

決めたことは、すべて
そのひとにとって
「正解」なのだ。

意味づけを決めたら、
それにたいして、具体的
な行動をすればいい。

具体的な行動の結果、
見えてくることがある。


そうそう。

ここまで書いて
思い出したことは、

意味づけを考えて、
行き詰まってしまうひと
というのは、

考えすぎるタイプのひと
がおおいということだ。

考えすぎるために、
行動にいたらない。


だから、意味づけは、
あまり深く考えすぎず、

決めたら、それを
やってみることだ。

そして、なんかちがうな
と思ったら、即、
やめて、次の意味づけを
採用してみることだ。


ここまで書いても、
なお、ためらうひとたち
がいる。

自分が幸福になっていい
という許可を、自分に
出せないひとたちだ。


そんなひとたちに、私が
よく言うことばがある。

自分で自分の幸福を
許可できないひとが、

他人を幸福にするなんて
ことが、できるはずが
ありません。

とっとと、ひとのために
何か…なんて考えは
捨ててください。


まず、自分です。

自分が幸福にならない
と、何が幸福なのかも、
見えないわけですから。

ひとのためになりたい
なら、まず自分自身が
実践してください。


それに、あなたが幸福
になれば、それだけで、

70億ぶんの1、
世界が平和になります。

それだけで、充分な
社会貢献ですからね

大和心とポーランド魂

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、国際派日本人養成講座より、「 大和心とポーランド魂」です。

20世紀初頭、765名の孤児をシベリアから救出 した日本の恩をポーランド人は今も忘れない!という物語です。



■1.ポーランドからのメッセージ■

 平成11年8月に、ポーランドから「ジェチ・プオツク少年
少女舞踊合唱団」が来日した。合唱団はヘンリク・サドスキさ
ん(88)からの次のようなメッセージを携えてきた。

 20世紀の初め、孤児が日本政府によって救われました。
シベリアにいたポーランドの子供は、さまざまな劣悪な条
件にありました。その恐ろしいところから日本に連れて行
き、その後、祖国に送り届けてくれました。親切にしてく
れたことを忘れません。……(合唱団は)私たちの感謝に
満ちた思いを運んでくれるでしょう。日本のみなさん、あ
りがとう。

 サドスキさんはさらに「一番大事にしている物を皇室に渡し
て」と救出当時の写真を託した。「孤児収容所を慰問した皇后
陛下(貞明皇后)に抱き締めてもらったことが忘れられない」
と話したという。[1]

 20世紀の初めの孤児救出とは、どのような出来事だったの
だろうか?

■2.せめてこの子供達だけでも生かして祖国に送り届けたい■

 シベリアは長い間、祖国独立を夢見て反乱を企てては捕らえ
られたポーランド愛国者の流刑の地だった。1919年、ポーラン
ドがロシアからようやく独立した頃、ロシア国内は革命、反革
命勢力が争う内戦状態にあり、極東地域には政治犯の家族や、
混乱を逃れて東に逃避した難民を含めて、十数万人のポーラン
ド人がいたといわれる。

 その人々は飢餓と疫病の中で、苦しい生活を送っていた。と
くに親を失った子供たちは極めて悲惨な状態に置かれていた。
せめてこの子供達だけでも生かして祖国に送り届けたいとの願
いから、1919年9月ウラジオストク在住のポーランド人によっ
て、「ポーランド救済委員会」が組織された。

 しかし翌20年春にはポーランドとソビエト・ロシアとの間に
戦争が始まり、孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことは不可
能となった。救済委員会は欧米諸国に援助を求めたが、ことご
とく拒否され、窮余の一策として日本政府に援助を要請するこ
とを決定した。

■3.日本赤十字社の決断■

 救済委員会会長のビエルキエヴィッチ女史は20年6月に来日
し、外務省を訪れてシベリア孤児の惨状を訴えて、援助を懇請
した。

 女史の嘆願は外務省を通じて日本赤十字社にもたらされ、わ
ずか17日後には、シベリア孤児救済が決定された。独立間も
ないポーランドとは、まだ外交官の交換もしていない事を考え
れば、驚くべき即断であった。

 日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、
決定のわずか2週間後には、56名の孤児第一陣がウラジオス
トクを発って、敦賀経由で東京に到着した。それから、翌21年
7月まで5回にわたり、孤児375名が来日。さらに22年夏に
は第2次救済事業として、3回にわけて、390名の児童が来
日した。

 合計765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療
や休養した後、第一次はアメリカ経由で、第2次は日本船によ
り直接祖国ポーランドに送り返された。習慣や言葉が違う孤児
たちを世話するには、ポーランド人の付添人をつけのがよいと
考え、日赤は孤児10名に1人の割合で合計65人のポーラン
ド人の大人を一緒に招くという手厚い配慮までしている。

■4.手厚い保護■

 日本に到着したポーランド孤児たちは、日赤の手厚い保護を
受けた。孤児たちの回想では、特に印象に残っていることとし
て以下を挙げている。

 ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯
消毒されたこと、支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷ入
れて貰って感激したこと、特別に痩せていた女の子は、日本人
の医者が心配して、毎日一錠飲むようにと特別に栄養剤をくれ
たが、大変おいしかったので一晩で仲間に全部食べられてしま
って悔しかったこと、、、

 到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同
情を集めた。無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち、学生音
楽会は慰問に訪れ、仏教婦人会や慈善協会は子供達を慰安会に
招待。慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々は、後を
絶たなかった。

 腸チフスにかかっていた子供を必死に看病していた日本の若
い看護婦は、病の伝染から殉職している。

 1921(大正10)年4月6日には、赤十字活動を熱心に後援さ
れてきた貞明皇后(大正天皇のお后)も日赤本社病院で孤児た
ちを親しく接見され、その中で最も可憐な3歳の女の子、ギエ
ノヴェファ・ボグダノヴィッチをお傍に召されて、その頭を幾
度も撫でながら、健やかに育つように、と話された。

■5.「アリガトウ」と「君が代」斉唱■

 このような手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で見るも
哀れに痩せこけていたシベリア孤児たちは、急速に元気を取り
戻した。

 日本出発前には各自に洋服が新調され、さらに航海中の寒さ
も考慮されて毛糸のチョッキが支給された。この時も多くの人
々が、衣類やおもちゃの贈り物をした。

 横浜港から、祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親
身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗
船することを泣いて嫌がった。埠頭の孤児たちは、「アリガト
ウ」を繰り返し、「君が代」を斉唱して、幼い感謝の気持ちを
表した。

 神戸港からの出発も同様で、児童一人ひとりにバナナと記念
の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちは子供たちの幸せを祈
りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振っていた。

 子どもたちを故国に送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッ
ドを見て回り、1人ひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの
頭を撫でて、熱が出ていないかどうかを確かめていたという。
その手の温かさを忘れない、と一人の孤児は回想している。

ルーズベルト大統領が播いた「竜の歯」 ~ 日米戦争、冷戦、そして共産中国

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、国際派日本人養成講座 ■■より、ルーズベルト大統領が播いた「竜の歯」 ~ 日米戦争、冷戦、そして共産中国です。

 共産主義者に操られたルーズベルト大統領が、日本を開戦に追い込み、ソ連を護り育て、世界に戦争の危機をばらまいた。

■1.「狂人(ルーズベルト)の欲望」

 米国の第31代大統領ハーバート・フーバーは、退任後の昭和21(1946)年5月、日本を占領中のマッカーサー総司令官を訪れて対談した。そこで次のようなやり取りがあった、とフーバーは記録している。

__________
 「日本との戦争の全ては、戦争に入りたいという狂人(ルーズベルト)の欲望であった」と私(フーバー)がいうとマッカーサーは同意した。[1,p7]・・・

 私(フーバー)は更に続けて次のように言った。「1941年7月の(日本への)経済制裁は、・・・例え自殺行為であると分っていても、日本に戦争を余儀なくさせるものであった。なぜなら、この経済制裁は、殺人と破壊を除く、あらゆる戦争の悲惨さを(日本に)強制するものであり、誇りのある国ならとても忍耐できるものではないからだ」。この私の発言にもマッカーサーは同意した。[1,p7] ・・・

 さらにマッカーサーは言葉を続けて「ルーズベルトは1941年の9月に近衛と和平を達成できたはずだ。そうすれば太平洋と中国の自由、そして恐らく満州の自由を確保するというアメリカの目標をすべて獲得出来ていたに違いない」と言った。[1,p162]
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 フーバーはルーズベルト大統領の前任者で、その回想録"Freedom Betrayed(『裏切られた自由』)が47年ぶりに出版された。そこでは第二次大戦が「民主主義 対 全体主義」の戦いだったというアメリカの史観は完全に否定されている。この回想録が完成後半世紀近くも刊行されなかったという事実が、その衝撃を表している。

 同様の史観は今までにいろいろな歴史学者、軍人、政治家が発表して、弊誌でも紹介してきたが[a,b,c]、前大統領の発言となれば重みが違う。しかもフーバーは30冊もの著書を残した著述家であり、20数年かけて、後に資料25百万点を備えるスタンフォード大学のフーバー研究所に発展するほどの資料を収集して書いたのが、この本なのだ。

 あと20年もすれば、この史観が世の定説になるのではないか。そのためにも、まず日本人自身がこういう本を読んで、自虐史観から脱しなければならない。今回は、フーバーの著書から、ルーズベルトが日本を開戦に追い込んだ経緯を見ていこう。


■2.共産ロシアを1933年11月に承認

 フーバーはルーズベルトが冒した19の過ちを列挙しているが、その2番目に以下がある。

__________
 ルーズベルトの第2の失策が、共産ロシアを1933年11月に承認したことである。四人の大統領と、五人の国務長官にわたって、共和党か民主党かを問わずに、そのような承認行為を、(国際共産主義運動の目的と手法の全体を知った上で)ずっと拒否してきた。

共産主義者は、宗教の信仰、人間の自由と民族や国家の独立をぶちこわすようなばい菌を運び、アメリカに浸透してくることを、彼ら(四人の大統領と五人の国務長官)は知っていたからである。彼らは、米国が共産ロシアを承認すれば、ソ連の威信と国力が高まることを知っていた。

ルーズベルトが(スターリンと)結んだ愚かな合意、つまり共産主義者は、米国の国境の内側では活動しないという約束は、48時間後には公然と反故にされた。共産主義の機関車と、それに乗った共産主義の乗客が、政府の高いレベルに入り込み、第五列の活動が全国にひろがり、フランクリン・ルーズベルトが大統領であった12年間に亘って、国家反逆者の行為が長く続く事になった。[1,p81]
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 ルーズベルト政権に多くの共産主義者が入り込み、その政策を親ソ反日にねじ曲げていった様子がヴェノナ文書などで明らかにされている。公民権活動や、中国支援などの看板を掲げつつ、内実はソ連のために活動していた組織が1千もできた。これが日米開戦の悲劇の最大の要因となった。


■3.ソ連への軍事支援、航空機1万4千7百機、、、

 ルーズベルト政権の親ソ路線は、ますます露骨になっていく。

__________
 アメリカの歴史の全史を通じてもっとも政治の大道が失われたのが、ヒトラーがロシアを1941年に攻鑿したときに、共産ロシアを支援して、アメリカとロシアが非公然の同盟関係になったことである。・・・

ロシアを米国が支援すると言うことは、共産主義が世界に広がることであった。ドイツとロシアの戦争に米国は巻き込まれるべきではなかった。平和が持続するという最大のチャンスがあったのだが、ルーズベルト大統領は、その機会を捉えることができなかった。[1,p97]
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 共産主義のソ連とナチスドイツの二つの全体主義国家が戦っているのだから、アメリカは独ソ戦を傍観していれば、とも倒れになり、アメリカも欧州も「平和が持続するという最大のチャンスがあった」というのが、フーバーの考えである。

 それなのにルーズベルトはソ連に対して凄まじい軍事支援を行う。その内容は、航空機1万4千7百機(零戦の全生産量に匹敵)、戦車7千両、装甲車6千3百両、トラック37万5千台、ジープ5万2千台という規模であった。

 もちろん、これだけの規模の軍事支援は、ルーズベルトだけでなく、実務面も含めて多数のソ連工作員が政権内に蠢(うごめ)いていたからこそ、可能になったのだろう。


■4.経済封鎖による「宣戦なき戦争」

__________
 第5の誤りは、41年の冬にルーズベルト大統領が、米国がドイツと日本に対して、宣戦をしないで戦争を始めた事である。これは、数週間前の大統領選の公約に全面的に違反するものであった。[1,p93]
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 1940年秋、ルーズベルトは、「米国は海外でのいかなる戦いにも巻き込まれない」との公約で、大統領再選を果たした[a]。そのわずか数ヶ月後の41年冬には、日独に対して経済封鎖という「宣戦なき戦争」を始める。

 同年1月、幕末に黒船の圧力で強要した日米友好通商条約を破棄し、いつでも日本に対する原油や鉄鋼などの輸出を止めることができるようになった。「経済封鎖は戦争行為である」とはパリ不戦条約批准の際にケロッグ米国務長官の議会での発言である。

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 第8番目の、ルーズベルトが犯した巨大な誤りは、1941年7月、つまり、スターリンとの隠然たる同盟関係となったその一ヶ月後に、日本に対して全面的な経済制裁を行ったことである。その経済制裁は、弾こそ射っていなかったが本質的には戦争であった。

ルーズベルトは、自分の腹心の部下からも再三に亘って、そんな挑発をすれば遅かれ早かれ報復のための戦争を引き起こすことになると警告を受けていた。[1,p099]
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 この7月、米国は工作機械、石油、屑鉄などを輸出許可制とした。これらの品目を米国からの輸入に頼っていた我が国の新聞は、これは経済的対日挑戦であると論じ、駐米大使が正式抗議を申し入れた。ルーズベルトはさらに日本の在米資産を凍結し、8月には石油の対日全面禁輸を実施した。

「参戦しない」という公約を守りながら、戦争を始めるには、日本から攻撃をさせる必要があり、そのために日本を経済的窮地に追い込んでいったのである。


■5.近衛総理大臣の和平の提案を受け入れ拒否

 第9の過ちは:

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 ルーズベルトが近衛総理大臣の和平の提案を受け入れ拒否したこと。この和平の提案が受け入れられることを、日本に駐在するアメリカの大使もイギリスの大使も積極的に働きかけたし、又祈る様な気持で見守っていた。近衛が提案した条件は、満州の返還を除く全てのアメリカの目的を達成するものであった。

しかも、満州の返還ですら、議論する余地を残していた。皮肉に考える人は、ルーズベルトは、この重要ではない問題をきっかけにして自分の側でもっと大きな戦争を引き起こしたいと思い、しかも満州を共産ロシアに与えようとしたのではないかと考えることになるだろう。[1,p102]
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 昭和16(1941)年9月、石油禁輸のもとで、あてどない対米交渉を続けていくのは座して死を待つのみ、と近衛内閣は10月下旬までに平和的交渉が決着しなければ対米開戦すると決意したが、昭和天皇は御前会議で「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむきようく」との明治天皇御製を読み上げられた。

 この御心を受けて、近衛は日米首脳会談による打開を決意し、ルーズベルトに申し入れたが、拒否されたのである。


■6.「90日の冷却期間」提案を拒否

 それでも、日本はなおも忍耐強く和平交渉の道を探ったが、ルーズベルトは第10の過ちで応える。

__________
 昭和16年の11月に、天皇陛下が三ヶ月間のスタンドスティル、すなわち冷却期間をおこなうとの提案を、駐日の米国大使を通じてされたが、ルーズベルトは是を拒否した。米国の軍高官も、冷却期間の提案を受け入れるべきであるとルーズベルト大統領に促した。

当時、日本はロシアが、同盟関係にあったヒトラーを打倒する可能性を警戒していたのである。90日の冷却期間があって、(戦端開始の)遅れがあれば、日本から全ての戦意を喪失させて、太平洋で戦争する必要を無くしたに違いない。[1,p107]
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 日本の真珠湾攻撃は12月8日だったが、この頃にはソ連軍の冬期大反抗が開始され、ドイツ軍をモスクワ正面から後退させていた。3ヶ月の冷却期間があれば、ドイツ軍の敗色は日本の朝野にも明らかになり、開戦の意思は萎(しぼ)んでいただろう。

__________
スティムソンの日記が明らかにしたように、ルーズベルトとその幕僚は、日本側から目立った行動が取られるように挑発する方法を探していたのだ。だから、ハルは、馬鹿げた最後通牒を発出して、そして我々は真珠湾で負けたのだ。[1,p107]
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 陸軍長官スティムソンの日記には、日本にハル・ノートをつきつけたコーデル・ハル国務長官が「私はこの件(日米交渉)から手を引いた。あとはあなたとノックス海軍長官の出番だ」と語ったとある。

 ハル・ノートは米国からの最後通牒として出されたものであり、それがソ連工作員ハリー・デクスター・ホワイトによって作成された事が明らかになっている。[b]


■7.日本に無条件降伏を要求し、原爆投下

 こうして日本は対米戦争に追い込まれ、当初は西太平洋、東南アジアから米英勢力を駆逐したが、昭和20(1945)年には敗色濃厚となり、講和の道を探っていた。そこにポツダム宣言が出される。

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 ポツダムにおけるトルーマンの過ちが、第16番目の過ちである。・・・

これ(JOG注: ソ連の東欧への勢力拡張を許した事)に加え、指導者の人々の忠告に反して、日本に無条件降伏の最後通牒が出されたことである。アメリカの経験ある多くの專門家が勧告した、天皇(みかど)を維持することを許す救済条項を入れないで、無条件降伏を要求したのである。日本側は、回答として、この条件のみを求めたが、原子爆弾が投下された。そして、最後になって、この条件が受け入れられた。1,p124]
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 第17番目のアメリカの政治の大道からの逸脱は、トルーマンが日本人の上に原子爆弾を落とすという非道徳的な命令を下したことである。日本は繰り返して平和を求めていたにもかかわらず。これはアメリカの全ての歴史のなかで、他に比較するもののない残忍な行為であった。これはアメリカの良心に対して、永久に重くのしかかるであろう。[1,p127]
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■8.「竜の歯が、世界中の至る所にばらまかれた」

 こうして、ルーズベルトは共産主義の防壁である日独を打ち破って、ソ連に東独から北朝鮮に至る勢力圏を築かせた。さらに後任のトルーマンは中国の共産化を許した。

「第三次世界大戦を引き起こす危険のある竜の歯が、世界中の至る所にばらまかれた」とは、第19の過ちの一節だ。ギリシャ神話には、大地に播かれた竜の歯から武装戦士たちが生まれ出た、という逸話がある。

 その予言の通り、冷戦と朝鮮戦争、ベトナム戦争の種はこうして蒔かれた。のちの共和党レーガン政権は日独の協力を得て、冷戦に打ち勝ち、ソ連の打倒を果たしたが、その際に利用した中国が強大化して、現在の世界を危機に陥れている。

 日米戦争は、共産主義者に操られたルーズベルトの錯誤によって引き起こされたものだが、その時に播かれた竜の歯はいまも世界の平和を脅かし続けているのである。
(文責:伊勢雅臣)

誰もが「一日の王」になれる

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今回は、鈴木 秀子さんの「誰もが「一日の王」になれる」です。


私たちは日常生活の中で
目の前の損得や、
将来の不安、
恐れなどにばかり意識を向け、
一方で無事に日常生活を送っている、
そのこと自体は「当たり前」と
見過ごしてしまいがちです。

百のうち九十九よいことがあっても、
一つ悪いことがあると、
そちらに焦点を合わせてしまうのが
人間の性なのかもしれません。

「一日の王」とは、
それとは反対に、
日常生活のよいことに
意識を向け続ける生き方です。

一つの方法として、
朝起きた時に

「きょう一日、
よいものに焦点を当てよう」

と決意します。

嫌な出来事が起きても
怒りや恐れの感情を
露わにすることをせず、
意識してよいことを
見つける訓練をするのです。

「きょうもまた命を与えられている」

「体が動く」

「家族が無事でいる」。

ただ、それだけでも、
どれほどありがたいことでしょうか。

通勤電車が動いている、
働く会社がある、
会社に行けば仲間が待っていてくれる、
毎月給料をいただける、
朝昼晩の食事を
美味しくいただくことができる……。

「一日の王」になることは、
目の前に当たり前のように
繰り広げられる出来事一つひとつに
丁寧に目を留めて、味わうことです。


※「当たり前」のことなど何もない。
日常のすべては
奇跡の連続だと教えられる
お話ですね。

鈴木さんはこの連載は、
ともすれば見落としがちな
大切な人生の真理を
教えられます。

「日本人の誇りと意地にかけて最良のものを作りたい」

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国際派日本人養成講座 より、 中央アジアにオペラ劇場を作った日本人抑留者たちの物語、
「日本人の誇りと意地にかけて最良のものを作りたい」です。




■1.「大きな地震が起こったら、、、」

 1966年4月26日、中央アジアのタシケント市が直下型の大地震に襲われた。ソーヤは「みんな外に出て!」と子供たちに向かって叫んだ。子供らの手を掴んで外に飛び出しながら、「近くのナボイ劇場の建っている公園に行って! 噴水の周りに集まりましょう」と叫んだ。あちこちの家が崩れている。

 ソーヤがナボイ公園に逃げることを咄嗟(とっさ)に思いついたのは、20年前に、まだ少女だった頃、ナボイ劇場建設に従事していた日本人抑留者たちから、「大きな地震が起こったら、家が倒れて逃げられなくなるので、広場などに避難した方が良い」と教わったことを思い出したからだ。

 と、同時に、あの真面目で仕事熱心だった日本人抑留者たちの建てたナボイ劇場も壊れてしまったのだろうか、と気になった。多くの人々が、同様にナボイ公園に向かっていた。

 しかし、公園に着いた人々は、みんな息をのむほどに驚いた。ナボイ劇場は、何事もなかったかのようにすっくと立っていた。


■2.中央アジア各国の広まった日本人伝説

 ナボイ劇場は地上3階建て、地下1階、1400席を備えた壮麗なレンガ作りの建物で、旧ソ連時代ではモスクワ、レニングラード(現サンクトペテルブルグ)、キエフのオペラハウスと並び称される四大劇場の一つとされていた。

 大地震で政府系建物240、工場250、約8万の家が崩壊し、タシケントの街がほぼ全壊したといってもよい状況の中で、ナボイ劇場だけが無傷だった。

「外壁も崩れていないし、レンガ建てなのによく壊れずに美しくそびえ立っているな」

「レンガの張り付け、積み立て、継ぎ目などの仕事がしっかりしていたからびくともしなかったんじゃないか。建物の角やレンガを積み重ねて形造っている目地も相変わらず見事な美しさだ」

 タシケント市のシンボルであるナボイ劇場が凜として立ち続けている姿を見て涙ぐむ人もいた。ソーヤの目からも涙がこぼれ落ちた。子供たちに言った。「ね、すごいでしょ。あの劇場づくりをお母さんも手伝ったの。でも本当に一生懸命作ってくれたのは、一緒にいた捕虜の日本人だったのよ。」

 大地震にも倒れなかったナボイ劇場の話は、瞬く間にウズベキスタン国内だけでなく、隣接するキルギス、カザフスタン、トルクメニスタン、タジキスタンなど中央アジア各国に伝わった。日本人は優秀で真面目な民族だという「日本人伝説」が広まり、1991年のソ連崩壊で各国が独立した後に、国家目標として日本人を見習おうとする国も出てきた。


■3.タシケントへ

 奉天の第10野戦航空部隊で航空機の修理を担当していた永田行夫大尉以下250名がタシケント市に到着したのは、1945(昭和20)年10月下旬だった。8月15日の玉音放送を受けて日本軍が降伏すると、19日にはソ連軍の航空機が次々と奉天の飛行場に着陸した。

 ソ連兵は「ダモイ(帰国)、ダモイ(帰国)」と言いながら、日本兵を貨車1両に50人もの割合で詰め込んだ。「帰国」と騙して抵抗を防ぎつつ、貨物列車は西に向かった。

 日本の降伏直前に、日ソ中立条約を蹂躙して満洲になだれ込んだソ連軍は、戦争終了後に捕虜をシベリアや中央アジアでの強制労働で使役するという、国際法違反を犯したのであった。

 永田大尉の一行は貨物列車で約4千キロ、1ヶ月半もかけてタシケント市に連れてこられた。ここでソ連は革命30周年にあたる1947年11月7日までに、壮麗なオペラハウスを建設する計画を立てていた。

 航空機の修理をしていた永田の部隊に技術者が揃っていることから、この任務につけたようだ。他の部隊からも補充を受けて、永田は24歳にして、18歳から30歳までの457人を指揮する立場となった。


■4.「ノルマを守らない者は食事も少なくなる」

 1947年11月とは2年も先だ。「最低2年は、この収容所で暮らすということか」と皆、がっかりした。永田は「我々の仕事は劇場を建設することだが、最も重要な使命は全員が無事に健康な状態で日本へ帰国し家族と再会することだ」と皆に諭(さと)した。

 その後、測量、鉄骨組立、レンガ積み、電気工事など、各自の職歴と適性をもとに班分けをして、建設作業が始まった。

 収容所所長のアナポリスキーは、「ノルマを守らない者は食事も少なくなる」と、社会主義の基本原則を押しつけた。その食事にしても、黒パンや塩っぱいキャベツの漬物、羊肉と言っても骨ばかりで、一日2千カロリーほどしかなかった。

 しかし、仕事が違うのに、公平なノルマなどできるはずもない。床張り、電気工事などは日本で職人をしていた人にとっては軽々とノルマを達成できるが、穴掘りやレンガ積みなど、きつい肉体作業はノルマ達成が難しい。罰として食事を減らされると、体力が落ちてますます難しくなる。数ヶ月も経つと、こうした不公平から不満が高まり、収容所内で喧嘩にまでなりそうだった。


■5.「今回は君たちのやり方を認めよう」

 永田は「全員が無事に帰国する」という至上目的のためには、皆に公平な食事がわたるようにしなければならない、と考えた。しかし、アナポリスキー所長をどう説得するか。そこで永田は、各自がノルマに応じた食料を受けとった後、公平に再分配させるようにした。

 その光景を見ていたソ連兵たちは驚いて、所長に報告した。所長は食堂にやってきて「永田隊長はどこにいる」と大声を出した。永田は「ここにおります」とゆっくり立ち上がった。所長が「これは規則違反だ」と言うと、食堂はシーンとなった。永田は通訳を通じて、所長の目をしっかり見つめながら、語り出した。

 永田が「ソ連の社会主義政策では、働いた上で本人に与えられた物は、その本人が自由に処分してもよいんですよね」と言うと、所長は「当たり前だ」。

__________
 それを聞いて安心しました。今日の食事は、ノルマ以上の達成で多くの量を与えられた兵が、自分の裁量で配分が少なかった兵に自分の分を分け与えたんであります。その結果として全員がほぼ同じ量、平等になったわけです。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 所長は「してやられた」という顔で、「まあ、今回は君たちのやり方を認めよう」と言って、永田の肩をポンと叩いて出て行った。「度胸があり、兵隊思いのよい男だ」と感じ入ったのである。

 食事に関しては、ウズベク人たちの隠れた支援もあった。穴掘りに疲れて立っている青年に、老婆が「私の息子は独ソ戦でお前と同じ年頃に死んだよ」と言って、手提げ袋から黒パンをひと塊出して「お腹空いているんだろう。これを食べなさい」と言ってくれた。

 「父母はどこか」と聞くので「東京にいる」と言ったら「おお、かわいそうに、、、」と肩を抱いてくれた。その青年は涙が止まらなかった。こういう形で、差し入れをしてくれるウズベク人が後を絶たなかった。


■6.「日本人の誇りと意地にかけて最良のものを作りたい」

 1946年になると、工事を加速するためにウズベキスタンの各地から抑留者が次々と送り込まれてきた。その中に、日本大学の建築学科を出た若松律衛(りつえ)少尉がいた。ソ連側は若松の能力を見込んで、工事全般の日本側総監督を命じた。

 困った若松は永田に相談した。永田は「全体を監督できるのは、あなたしかいない。協力し合ってやろう」と若松の手を握った。さらに、こう続けた。

__________
 むろん、手抜きをしたり、いい加減なやり方で格好をつけた建物にすることもできると思うが、私はソ連の歴史に残るオペラハウスとなる以上、日本人の誇りと意地にかけて最良のものを作りたいと思っている。

 捕虜としてやるのだから別にそこまで力を入れなくても良いだろう、という意見もあるだろう。しかし私の気持ちとしては、後の世に笑われるような建築物にはしたくないと考えている。さすが日本人の建設したものは、“出来が違う”といわれるものにしたいと本気で思っている。・・・

 捕虜になって多くの兵隊は生きる張りを失い、先も見えず精神的に弱っている者もみかける。そんな時だけに、自分たちがこれまでに培った技術、技能で世界に引けをとらない建築物をつくるんだという一点を生きる気力の糧にしてくれたらと願っている。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 若松は永田の言葉を聞いて、胸が熱くなった。「この人と協力して歴史に残るような建築物を作るよう全力を尽くそう」と決心した。そんな「日本人の誇りと意地」が劣悪な生活環境で、抑留者たちを支えていた。


■7.「何のおまじないなのだ」

 日本人の働き方を見て、ロシア人やウズベク人が不思議に思ったのは、皆で重い物を持ち上げたりする時に、「セーノ」とか「ヨイショ」と声を合わせることだった。「何のおまじないなのだ」とウズベク人が聞いてきた。一人の日本人はこう説明した。

__________
 これはね、皆で重いものを持ち上げる時に、“セーノ”と言ったら、一斉に力を出して持ち上げるんだ。日本人はなるべく皆が一緒に力を合わせてやった方が上手くいくと教えられてきた。それが日本独特の“和”の精神さ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「“ワ”というのか」と不思議がったが、ウズベク人たちも一斉に「ヨイショ」と声をあげて力を合わせると石が持ち上がり、みんな「なるほど」という顔をしていた。

 永田は、そんなエピソードを挙げて、アナポリスキーに“和”を説明した。

__________
 和というのは皆で一つの大きな仕事を完成させる時に最も大事な協力の精神の事です。皆が助け合い足りないところを補いあうから、日本では仕事が早くうまくゆくのです。

 二、三人の優れた者がいてもオペラハウスの建設のような大きな仕事はできません。日本人はそのことを知っているので、皆が助け合って仕事を進めているんです。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 さらに食事の平等な配分もこの考え方に基づいている事を説明した。アナポリスキーは「あなたは立派なリーダーだ。日本人の協力の精神の源や仕事のやり方、生き方を知ることができて大変参考になった。ありがとう」と永田の手を強く握りしめた。


■8.?日本人は本当によくやってくれた”

 日本人抑留者たちは、こうして建設に励む一方、休みの日には花札やトランプ、果ては麻雀牌まで手作りして、一緒に遊んだ。ソ連兵も面白がって、「教えろ」「教えろ」と麻雀に加わるようになった。収容所内はぐっと明るくなった。

 また、ソ連兵が時々、ロシア民謡を合唱しているのを聞いて、日本人の一人がバイオリンを手作りして、伴奏した。こうした動きが盛りあがって、ついには日ソ合同の演芸大会まで開催された。近所のウズベク人も大勢、押しかけた。

 他の収容所のように、ソ連の共産主義教育で洗脳された日本兵がかつての将校を吊し上げる、というような陰惨な光景は、この収容所ではついぞ見られなかった。

 1947年9月の初め、劇場が完成に近づいたので、永田はソ連側の了承を得て、仮の完成式を行う事とした。無事に立派な建物を作りあげた事を皆で確認し、喜び合いたい、と思ったのである。

 9月中旬の日曜日、抑留者たちと、一緒に働いたロシア人、ウズベク人たちが続々と劇場前に集まった。永田が「皆の前に建っているこの壮麗なナボナ劇場は、私達日本人を中心に一緒に働いたロシア人、ウズベク人たちとの汗と涙の結晶だ」と挨拶した。

 ソ連将校やウズベク人が永田に近づいて握手し、何事か囁いた。永田は大きく頷き、皆に告げた。

__________
 ロシア人もウズベク人も?日本人は本当によくやってくれた。素晴らしい民族だ?と言っている。それと後で、私達の作った舞台でロシア人、ウズベク人がバレエを披露するので見て欲しいと言っている。楽しみに見せてもらおう。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 抑留者たちは、出来上がった劇場を見学し、後世に残る建物を作りあげたことに誇りを抱いた。永田は見学後に、隊員たちに、もう一度、声をかけた。

__________
 日本はアメリカの爆撃でそこら中が廃墟のようになっていると聞いている。・・・ ぜひ、諸君らも帰国したら世界から敬意を表されるような日本を再建し、そのような日本人になって欲しい。私たちはここで礎を築くことを学んだし、感じたはずだ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 永田は胸にこみあげる思いを呑み込んで、一気に話した。思い残すことは、もうなかった。
(文責:伊勢雅臣)
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