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「なぜ百回も戦ったのですか?」

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今期は、小林正観さんの心に響く言葉より…「なぜ百回も戦ったのですか?」です。



「百戦して百勝するは 善の善なるものにあらず」

百回戦って、百回勝つことは、善いことの中の最良のものではない。

必ずしも最高の選択ではないということを、孫子は言いました。


本当の意味は、

「なぜ百回も戦ったのですか?」

と、孫子は言うのです。


「本当に賢い武将は、一度も戦わない。百回の争いなど、百回の戦争などしない」

孫子はこうも言っています。

「知によりて勝つのが第一」。

知恵によって勝つのが第一である。


二番目は、「威によりて勝つのが第二」。

例えば3万の兵がこもった城を包囲したとします。

それを、4万、5万の兵で囲んだのでは死者が出る。

犠牲者が多い。

「どうせ囲むならば、3万の城を30万の大軍で包囲してしまいなさい。そうしたら、結論が出やすい。勝敗が決しやすい。兵隊を殺さないで済む」という考え方でした。


三番目は、「助によりて勝つが第三」。

相手をなんとか自分の支配下に置きたいときに、その相手が言うことを聞かざるをえないような先輩や上司、恩義ある人を探し出します。

そしてその人を説得します。

そして、その人から相手を説得してもらう。

戦いを極力避けるわけです。

相手の立場も名分も立ちます。


そして最後の選択が、「武によりて勝つが第四」。

「武力、実際の実力行使で勝つのが第四であり最悪の選択だ」と、孫子は言いました。

そこに「百戦百勝して」ということばが重なってくるのです。


つまり、「どうして百回も戦ってしまったの?」ということなのでした。

この孫子の兵法のすごいところは、「戦わないようにするのだ」「なるべく戦わないことがいいことだ」という思想が、根底に流れていることです。


『心に響いた 珠玉のことば』KKベストセラーズ





知によって勝つというのは、権謀術数という、はかりごと、たくらみ、あざむき等々を使って勝つことだ。

普通、我々は権謀術数の限りを尽くす、などというと狡猾(こうかつ)で、卑怯(ひきょう)な、人として許せない汚い手を使う、というイメージがある。

しかし、それを「同じ土俵で戦わない」という、今までなかった、「まったく新しいサービス」、「革新的技術」と置きかえて考えてみれば納得がいく。


現代のビジネスの競争においては、それが単純な戦いではないことは明らかだ。

それを、鈴木敏文氏は、「競争相手は同業他社ではなく時代の変化」と言っている。


時代の変化により、競争相手の同業の企業と戦っているつもりが、思いもよらない異業種の新興企業に負けてしまう、などということは枚挙にいとまがない。

まともにはぶつからず、アイデアや創造力を使って、「この手があったのか?」という方法で、挑戦していく。


「どうして百回も戦ってしまったの?」

戦わずして勝つために、もっと知の力を磨きたい。

【逆境を生かす人】

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。


アル・シーバート氏の心に響く言葉より…【逆境を生かす人】です。



あなたは人生で経験する挫折にどう向き合っていくだろうか?

人はさまざまなやり方で困難に向き合う。

感情を爆発させ、キレてしまう人もいる。

人を激しく罵倒するだけでなく、中には実際に暴力を振るう人もいる。

また、内にこもってしまう人がいる。

感情の矛先が自分に向かい、どうしていいのかわからなくなってしまうのだ。

自分は犠牲者だと運命を呪う人もいる。

自分の人生が台無しになったのは他人のせいだと人を責め、人生の坂を転がり落ちていく。


それから、もう一つのグループがいる。

困難に際して状況を把握し、そこにある危機と向き合う人たちだ。

困難を切り抜けるだけでなく、それによって以前よりも強く、そして人間的にも磨かれていく人たち。

彼らは、たとえ仕事上で大きな失敗をしても、それをさらに上のキャリアへのステップにしてしまう。

心に弾力性があり、柔軟で、新しい状況に素早く適応し、変化していく環境の中で力強く成功することのできる人たちだ。



ガートという女性がいた。

彼女は、学生時代からの恋人ニールと結婚した。

ニールはガートの親が経営する帽子製造の小さな会社で働き始める。

ニールは懸命に働き、やがてその会社の社長となった。

だが、彼は突然の心臓発作で亡くなってしまう。

1970年のことだった。


残されたガートは涙にくれた。

仕事はすべてニールが取り仕切っていたし、両親はもはや仕事をするには年を取り過ぎていた。

家のお金もすべてつぎ込んでいたから、もし会社がダメになれば彼女は家族とともに露頭に迷うことになる。

そしてガートは、自分の力の及ぶ限り会社をつぶさないと決意する。

大学に通っていた息子のティムを呼び戻し、ともに会社の立て直しに奔走した。

何しろ多額の借金があったし、多くの従業員も抱えていた。

夜遅くまで働き、土日でも商品を発送する毎日が続いた。


やがて経営は安定し、彼らはスポーツウェアの製造にも手を広げることを決める。

ガートは製品一つひとつにまで徹底してこだわった。

そのこだわりは、ガート自身の妥協を知らない職人魂を広告にしたキャンペーンでも発揮された。

このキャンペーンで、彼らの会社は一躍有名になった。

そのブランドこそ、世界的に有名な「コロンビア・スポーツウェア」だ。


この広告では、ガートが息子のティムに眼鏡の向こうから鋭い眼を向け、徹底的に商品の耐久性をテストさせる姿が象徴的に使われた。

彼女のリーダーシップの下で、コロンビア・スポーツウェアは破産の淵からただ甦っただけではない。

彼らはオレゴンの小さな帽子屋から、世界的なアウトドアウェアの製造メーカーへと立ち上がったのだ。


『逆境を生かす人 逆境に負ける人』ディスカヴァー





逆境に対してとる行動は、二つしかない。

一つは、不運を嘆き、不平不満をいい、泣き言やグチを言うという、現状維持の姿勢。

もう一つは、なんとかそれを乗り越えようと努力し、少しでも前に進もうとする、現状打破の姿勢。


嘆いたり人のせいにしているうちは、現状は何も変わらない。

目の前の小さな問題を一つひとつを解決し、改革に賛同する人を一人ひとり増やしていく、という地道な努力でしか現状は変わらない。

倦(う)まずたゆまず、決してあきらめない人だけが、一歩ずつ前に進むことができる。


逆境を生かす人でありたい。

大西瀧治郎中将と特攻に往った若者たち

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、国際派日本人養成講座より、「大西瀧治郎中将と特攻に往った若者たち」です。



「俺と握手していったのが614人いるんだ」と送り出した大西中将は眼に涙をためて語った。




■1.「祖国を憂える貴い熱情」

 フランスの元文化大臣、アンドレ・マルローは次のように言っている。

__________
 確かに日本人は第2次大戦で敗れた。だがその代わりに何ものにもかえ難いものを得たことを忘れてはならない。それは世界のどの国にも真似のできない特別攻撃隊である。戦後フランスの大臣として日本を訪れたのは私が最初だが、その時も陛下(昭和天皇)にとくとそれを申し上げておいた。

・・・日本の純真な若い特攻隊員たちは、ファナチック(狂信的)だったとよくいわれる。それは違う。彼らには権勢欲とか名誉欲など露ほどもなかったし、ひたすら祖国を憂える貴い熱情があるばかりであった。[a]
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 マルローが「祖国を憂える貴い熱情」と呼んだ精神は、大学生活を中断して軍に入り、特攻を志願した学徒兵の次の言葉からも窺うことができる。戦後、米軍の調査で「各自が特攻隊員を志願した心境はどうであったか」との質問への回答である。

__________
 学徒出身者として自分はわずか一年の軍隊教育を受けたもので、必ずしも軍人精神を体得した者とはいえない。むしろ、一般人として戦局を痛感し、本攻撃をもっとも有効な攻撃法であると信じたのである。自分らが国家に一身を捧げることによって、日本国の必勝を信じ、後輩がよりよい学問をなしうるようにと志願したものである。[1,p127]
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 特攻隊員たちの「祖国を憂える貴い熱情」はイギリスの日本古典文学研究家アイバン・モリス[b]、特攻隊員の遺書を読んだブラジルの日系人子弟[c]、フィリピン人少年[d]など、国籍や民族を超えて人々の心に訴えている。

 しかし、他方、送り出した方はどうなのか。最近、ある読者からいただいたお便りに、次のような一節があった。

__________
特攻隊の自滅死戦術は 国の責任によって行われた。
国の上層部は黙認したのか?
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 もっとも至極の疑問である。本号は「特攻の創始者」と呼ばれた大西瀧治郎(たきじろう)海軍中将を取り上げて、送り出した側の考えを探ってみたい。


■2.「吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす」

 大西瀧治郎中将は、終戦の翌日、昭和20(1945)年8月16日午前2時45分に自刃した。

 作法どうり腹を十文字にかき切り、返す刀で頸(くび)と胸を刺しながら、なお数時間は生きていた。従者が発見して、軍医を呼んだが「生きるようにはしてくれるな」と頼んだ。駆けつけた部下には「介錯不要」と言った。「できるだけ永く苦しんで死ぬのだ」 その遺書には、こう書かれていた。

__________
 特攻隊の英霊に曰す。善く戦ひたり、深謝す。最後の勝利を信じつゝ肉彈として散華せり。然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。
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■3.海軍航行隊の育ての親

 山本五十六を海軍航空隊の「生みの親」とすれば、大西は「育ての親」と並び称された人物であった。大正の初めから、開発されたばかりの海軍機のテスト・パイロットを務め、ドイツやイギリスにも留学して、航空に関する知識、見識では並ぶ者がなかった。

 剛胆さも併せ持っていた。後年、少佐以上では実戦機には搭乗せず、基地で指揮をとるのが普通であったが、大西は大佐になってもさっさと乗り込み、かつ三角形の編隊ではもっとも敵の攻撃を受けやすい後方の翼端部に陣取った。


 人柄も人々を惹き付けてやまないものがあった。こんなエピソードがある。大西の東京の家の一帯が空襲で焼けた時、近所の人たちにお見舞いとして氷砂糖を配った。

 公平を期して各人に一人、一掴みづつさせ、主婦に背負われた幼児にも「赤ちゃんも、どうぞ」と掴ませたが、小さい掌では一つか二つしか掴めない。大西は全員に掴ませた後、自分の手で一掴みを幼児の前に突き出し、「ハイ、これはおじさんの贈り物です」と差し出した。人垣から拍手が起こった。

 続いて大西は円陣の中央に立って、こう言った。

__________
 私は軍人として支那大陸ほか外地を攻撃し、爆弾をおとして、建物を焼いてきました。ですから、敵の空襲をうけて、ごらんのとおり、家を焼かれるのは当然であります。しかし、みなさんはなにもしないのに、永年住み馴れた家を焼かれておしまいになった。これは、私ども軍人の責任であります。本当に申し訳ありません。
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 大西は深々と頭を下げた。海軍中将と言えば、一般民衆から見れば雲の上の人だったが、そんな偉い人のこういう言動に心動かされない人はいなかったろう。


■4.「そんなむごいことできるものか」

『特攻の思想 大西瀧治郎伝』[1]を著した草柳大蔵氏は、大西が「特攻の創始者」と言われていること疑問を呈し、「特攻はひとりの人間がきめられるものではない」と語っている。[1,p67]

 特攻のアイデアは以前からあった。城英一郎大佐はラバウル空戦とサイパン沖海空戦での苦い経験から、彼我の戦力差を検討した結果、「もはや通常の戦法では敵空母を倒しえない。体当たり攻撃を目的とする特別攻撃隊を編成し、小官をその指揮官としてもらいたい」という具申を行っている。

 これ以外にも、何人かの海軍幹部がいろいろな形で特攻を提案したり、準備を始めたりしていた。大西はこんな発言を残している。

__________
 内地におったとき、ラバウルから帰った城大佐が特攻を具申してきたが、わたし自身は「そんなむごいことできるものか」という気持ちだったよ。しかし、ここ(フィリピン)に着任して、こうまで敵にやられているのを見ると、やはり決心せざるをえなくなったなあ。[1,p54]
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 厳しい戦局の中で、もう特攻しかない、という声が海軍のあちこちで起こっていたのである。


■5.「海軍が最後のエースを送り込んだ」

 昭和19(1941)年9月、米軍はフィリピン攻略を目指し、戦闘艦艇157隻、輸送船団420隻、上陸部隊20万名を送り込んだ。フィリピンが米軍の手に落ちれば、南方地域からの石油などの戦略物資は内地に運べなくなり、戦争の行方はあらかた決まってしまう。

 それに対抗して、戦艦を主力とする栗田艦隊をレイテ湾に突入させ、艦砲射撃により輸送船団や上陸軍を撃破するという作戦が立てられた。そのためには敵の空母を叩いて、栗田艦隊への航空攻撃を防ぐ必要があった。

 ここで大西がフィリピンの航空戦力を所管する第一航空艦隊の司令長官に任ぜられたが、この人事には「海軍が最後のエースを送り込んだもの」という声が上がっていた。

 大西が着任したのは10月17日。かつては戦闘機、爆撃機など合計1644機を擁していた第一航空艦隊は、この時点でわずかに100機、うち戦闘機は30機に過ぎなかった。この残存勢力でアメリカの航空攻撃からいかに栗田艦隊を守るか。

__________
 すくなくとも1週間だな。一週間、空母の甲板が使えなければ、よいわけだ。そのためには零戦に250キロの爆弾を抱かせて体当たりをやるほか、確実な攻撃法はないと思うが、、、。[1,p94]
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 着任早々、大西は第一航空艦隊幹部たちにこう相談した。この時点で、すでにこれしか残された手はない、とは幹部たちにも明白だったので、結論を出すのに議論は必要なかった。


■6.「どりゃ、もう一度、諸君にあってこよう」

 10月20日の朝、特攻を志願した16名の前で、大西は訓示を行った。

__________
 国を救うものは、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。もちろん自分のような長官でもない。諸君の如く純真にして気力に満ちた若い人々である。[1,p128]
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 大西は切れ切れの喘ぎながらの口調で語った。真下に伸ばした手が震えてはとまり、とまってはまた震え出す。訓示が終わると、大西は、特攻隊員の列まで歩み寄り、一人ひとりと握手しながら、「しっかりたのむよ」といった。涙ぐんでいた。

 その日の午後、大西は「どりゃ、もう一度、諸君にあってこよう」と腰をあげた。隊員たちは飛行場のはずれの崖がひさしのように張り出している空地に屯(たむろ)していた。大西は一面の薄(すすみ)をかき分けて、隊員たちの前に現れた。

「郷里はどこやね」「お父さんはなにをしておられるのかね」 訓示の時とは打って変わって、やさしい声になっていた。

 その時、空襲があった。グラマンが快晴の空から急降下してきて、機銃弾が土煙をあげる。特攻隊員は、いっせいに地面に匍(は)った。しかし、大西はどっかり胡座(あぐら)を組んで、薄笑いをうかべてグラマンを見ている。「長官!」とするどく叫ぶ声に、大西は言った。「弾丸(たま)は、あたるときはあたるもんよ」。

 もともと剛胆な大西ではあるが、「死地を求めている」風もあったと周囲は語っている。特攻作戦を発動させた責任者として、若者を死地に送り込む以上、自分の命ももうないもの、と心に決めていたのであろう。


■7.「俺と握手していったのが614人いるんだ」

 最初の特攻隊、関行雄大尉率いる敷島隊は10月25日にフィリピン・レイテ湾の米機動部隊を襲い、わずか5機で空母一隻を撃沈、空母2、軽巡洋艦1撃破の戦果を上げた。この後、継続的に特攻が行われるようになる。

 大西は出撃の際に、かならず訓示を与え、隊員と握手をしたが、しだいに寡黙になり、憔悴していった。副官が心配して現地人から卵を入手して長官の食事に出させると、大西は従兵を呼んで、そっと卵を手で押しやり「これを隊員にやってくれ」と言った。

 昭和20(1945)年4月、鈴木貫太郎内閣が成立すると、大西は軍令部次長に任ぜられて東京に戻った。官舎に入った大西は、妻を同居させなかった。一般人も空襲で焼け出されている時に「いまはそんな時ではない」という理由だった。

 周囲の一人が「週に一度は奥さんの家庭料理を食べてはどうですか」と言うと、「そんなこと、いってくれるな」と言下に断った。
__________
 君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。614人もだ。俺と握手していったのが614人いるんだ。
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 大西は眼にいっぱいの涙をためながら、「君、そんなこというもんだから、いま、若い顔が浮かんでくるじゃないか」と続けた。

 大西が遺書に「特攻隊の英霊に曰す」と書いた時、握手しながら出撃していった614人の若者たちの顔が次々と浮かんでいたに違いない。


■8.日本民族の福祉と世界人類の和平の為

 大西はある隊の出撃に際して、次のように訓示をしたことがある。

__________
 この神風特別攻撃隊が出て、しかも万一負けたとしても、日本は亡国にならない。これが出ないで負ければ真の亡国になる。[1,p184]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 大西の考えは、その遺書の後段で、一般青壮年に訴えた一節につながっている。

__________
 次に一般青壮年に告ぐ。・・・
 隠忍するとも日本人たるの矜持(きょうじ)を失う勿(なか)れ。諸子は国の寶(たから)なり。平時に処し、猶ほ克(よ)く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を盡(つく)せよ。[1,p12]
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 ここに言う「特攻精神」とは、冒頭で紹介したマルローの「祖国を憂える貴い熱情」と同じだろう。大西はその精神を受け継いで、生き残った国民に「日本民族の福祉と世界人類の和平」のために最善を尽くせ、と訴えているのである。

 その精神がある限り、亡国にはならない。大西の遺言は、現代に生きる我々にも、どう生きるかを問いかけている。

(文責:伊勢雅臣)

思い通りにいかないから人生は面白い

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。
今回は、曽野綾子氏の心に響く言葉より…「思い通りにいかないから人生は面白い」です。



たとえば、入社試験を受けて、「彼は入ったのに、私は落ちた」みたいな話がよくあるでしょう。

私は自分がもし落ちていれば、必ず、落ちたほうがよかったんだ、と思うたちです。


この前、第一志望の会社に就職できなかったという人に会った時、

「その会社にはすごく嫌な奴がいて、入らなかったほうがよかったのよ」

と言いました。

「自分の良さをわかってくれない会社なんか入らなくてよかった」でもいいのですが、私がその会社に入っていたら将来、何か自分に悪いことがあるだろうという気がする。

そして、受かった第二志望の会社に、自分がやるべき任務があったんだ、と受け取るのです。


楽観主義者だと言われればそうですが、私はうまくいかない時はいつも神さまから「お前は別の道を行きなさい」という指示があったと思うんですね。

だから運が悪い場合はそこでぐずぐず悩むのではなくて、運命をやんわり受け入れられる心理でいたい。

そして、次の運命に協力的になる。

自分で望んだわけではないけれど、それによって神さまは私に何をご期待ですか?と考えるわけですね。

そうすると、たいてい運命が開けてくるものです。


事実、最善ではなく次善で、うまくいった人はたくさんいます。

「ほんとうは三井物産か三菱商事に行きたかったけれど、競争が激しくて、入れんかった。

それで地方の小さな会社に入社したら、大学を出ている社員も少ないし、あんまり頭の切れる同僚もいなくて、気がついたら社長になっとったわ」

というような人は、実に多い。


「オレは、こんな会社じゃなくて、もっと一流の会社に行きたかったんだ」と嘆くのではなく、「拾っていただいてありがとうございました」という謙虚な気持ちで、一所懸命にそこで働く。

そうすると、結構うまくいくことが多いですね。


《思い通りにいかないから人生は面白い》

『人間の分際』幻冬舎新書




人間の価値は、思い通りにいかなかったときに、どう考えるか、どんなふうに行動するかによってわかる。

どんな理不尽なことでも、それを従容(しょうよう)として受け入れるか、それとも不平不満と愚痴のオンパレードで過ごすのか。


うまくいかなかったり、落ちぶれてしまったときに、どう動くか。

見苦しくジタバタするのか、はたまた従容という、危機のときにもゆったりとして慌(あわ)てて焦(あせ)ったりしていないか。

何をしたかではなく、何をしなかったかを見る。


「入れなくてよかった」「失敗してよかった」「うまくいかなくてよかった」と考えることができる人は、何度失敗しても、うまくいかなくても、必ず何度でも立ち上がることができる。

「思い通りにいかないから人生は面白い」と思える人でありたい。

『修身教授録』が説く究極のポジティブ人生観

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国際派日本人養成講座 ■■より、『修身教授録』が説く究極のポジティブ人生観です。

 


■1.80年前の本がアマゾン総合1位!?

 6月28日(火)に放映されたテレビ東京の『ニュースモーニングサテライト』中の「リーダーの栞(しおり)」で、SBIホールディング社長の北尾吉孝氏が『修身教授録』を紹介した。放映直後、アマゾンでの総合売上げランキングで1位となり、また全国の書店でも売り切れが続出したという。

『修身教授録』とは哲学者・教育者の森信三が昭和12(1937)年から2年間にわたって大阪天王寺師範学校(現・大阪教育大学)で、小学校教師を目指す学生たちに教師としての生き方を説いた講義録である。その講義録が平成元(1989)年に出版され、すでに13万部を超えるロングセラーとなっている。[a]

 80年前の講義録がこれだけ売れ、しかも現在でもアマゾン総合1位となるという事は、やはりこの本に日本人の心の琴線に響くものがあるからだろう。

 北尾氏はケンブリッジ大学経済学部を卒業し、野村證券のニューヨークやロンドンの拠点で投資関連の仕事をしていた国際経験豊かな実業家である。同時に幼少期から『論語』などの漢籍に親しみ、高校・大学時代には昭和の漢学者・安岡正篤の著作に学び、近年は『何のために働くのか』などの書籍を出版している。現代日本を代表する哲人実業家の一人と言えよう。[b]


■2.「先生の魂がこの本を通じて僕の魂を揺り動かしている」

 その北尾氏が『修身教授録』に出会ったのは40歳頃、トップを目指すには知識以外の何かが必要だと感じていたという。北尾氏は25年に渡ってこの本を何度も読み返し、今は無数の付箋紙を挟んで分厚くなった本を示しながら、こう語る。

__________
 森先生が42、3歳で、これをお書きになられたんですね。僕が読んだのは、ちょうど40歳くらい。その日は、夜、寝られなかった。何か先生の魂がこの本を通じて僕に伝わってきて、僕の魂を揺り動かしているような、そんな感動を覚えたのですね。[1]
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 そして、この本を薦める理由をこう語る。

__________
 能力的に優秀な人とか、知識を豊富に持っている人はたくさんいるのです。だけど人物がいまいちかな、という人が多い。学校の成績だけ良い点をとれたら親は誉める、人に親切にするとか、正直にするとかという事で褒めない。これは昔とは全然違うと思うのですね。そういう所を補う教育が絶対必要で、だから僕はこの本を是非、薦めたい。[1]
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■3.ホリエモンの敵対的買収からニッポン放送を守る

「能力的に優秀な人、知識を豊富に持っている人」だが、「人物がいまいち」という好例がホリエモンこと堀江貴文氏だろう。堀江氏は東大を中退し、若くしてソフト会社「ライブドア」を成功させた。

 著書『稼ぐが勝ち』では、「人の心はお金で買える」「人間を動かすのは金」「金を持っているやつが偉い」などと公言して憚らなかった。

 その堀江氏が平成15(2003)年にラジオ局ニッポン放送に敵対的買収をしかけた。堀江氏の姿勢に反発したニッポン放送の社員一同は総会を開いて、「ライブドアの経営参画に反対する」という声明を発表した。その中で堀江貴文社長にはリスナーに対する愛情が感じられず、資本構造を利用したいだけとしかみえない、と批判した。

 北尾氏は、堀江氏のアプローチを「相手の立場を無視するような敵対的買収や、資本市場を投機の場にしかねないような大規模な株式分割など、良識や倫理観がない」と批判して、ニッポン放送を支援し、堀江氏の企(たくら)みを打ち破った。

 能力や知識だけで「人物がいまいち」な経営者がはびこれば、世の中は弱肉強食のジャングル社会になってしまう。それを防ぐためには、人間教育が不可欠だ、というのが、この本を薦める北尾氏の考えだろう。


■4.「最善観」

 北尾氏が『修身教授録』と出会った数年後、ソフトバンクの孫正義氏からスカウトを受けた。ちょうど、野村證券で大不祥事が起こり、進むべき道を考えていた時だった。

 証券界のトップ企業・野村證券から、当時はまだ海のものとも山のものとも分からないインターネット金融の世界に飛び込むのは、相当な冒険だったに違いない。どうすればよいか迷う中、決め手となった言葉が『修身教授録』の説く「最善観」だった。

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 最善観というのは要するに何かと言うと、「我が身にふりかかる一切の事、それは自分にとって絶対必然であり、また実に絶対最善である」という言葉がある。これを最善観という。こういうふうに思うと、気が楽になって、新しい挑戦ができるのです。

 だから、この言葉は森先生から受けた言葉の中ではずっと心に残り、その後の事業を経営していくうえでも大事な言葉になったのですね。[1]
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 大不祥事の起きた時に、ソフトバンクから誘いがかかった。これを自分にとって「絶対最善」と信じて、資本を受けてソフトバンク・ファイナンスという会社を設立した。

 インターネットの世界で、新たに金融事業を開いて行くには、実に様々な困難があったはずだが、北尾氏はその一つ一つが天の与えた「絶対最善」の配慮だと受けとめる事で乗り越えていったのだろう。

 事業は順調に成長し、やがてソフトバンクとの資本関係を清算し、SBIホールディングスとして独立した。現在はSBIグループとして、様々な金融サービス以外に、SBI大学院大学での人材育成や公益財団法人SBI子供希望財団による社会福祉事業まで広げている。野村證券からの独立は、やはり「絶対最善」だったのである。


■5.「天の命に従って働く」

 この最善観の根底には「天命」の考え方がある。天命について、北尾氏は著書『何のために働くのか』で次のように述べている。

__________
 東洋思想では、仕事とは天命に従って働くことだと考えます。仕事という字を見てください。「仕」も「事」も「つかえる」と読みます。では誰に仕えるのかといえば、天につかえるのです。天につかえ、天の命に従って働くというのが、東洋に古来からある考え方です。[2, p24]
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 天命に従って働くことが仕事である以上、仕事の中で遭遇する困難は、すべて天が何らかの配慮を持って人間に与えたものである。天の意思は人間には計り知れないが、天が我々を育てて立派に天命を果たせるよう仕組んだものということになる。

 そういう覚悟で困難に向かえば、苦労も苦労ではなくなり、それを乗り越えた後は、人間的な成長ももたらされる。現代流に言えば、すべての困難は天の配慮であるとする究極のポジティブ人生観なのである。


■6.万人に与えられた「唯一独自の任務」

 森信三は、人間一人ひとりに個別に与えられた唯一無二の天命があると考えた。

__________
 たとえば諸君らが、近い将来において一学級の担任教師となった場合、諸君等の受け持つ学級は、諸君が受け持っている限り、天下何人もこれを受け持つことはできないのです。・・・

 もちろんこれは、道理としては田畑を耕す農夫も、また工場に働く職工もみな同様であります。すなわち万人いずれも唯一無二、何人にも任せられない唯一独自の任務に服しているわけですが、只(ただ)それに対する十分な自覚がないために、生涯をかけてその一道に徹し、もって国家社会のお役にたつほどの貢献がしがたいのです。

 たとえば今一人の農夫が、農業の道を通して真実に生きようと決心して、永年その研究を重ねていったならば、いつかは他の人々の参考になるような農事上の発見もできるでしょう。・・・

 そもそも人間界のことというものは、一人の人間が自己に与えられた職責に対して、真に深く徹していったならば、その足跡は必ずや全国各地の同じ道を歩んでいる幾多の人々の参考となり、その導きの光となるはずであります。[3, p58]
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 このように森信三は各人に、自分に与えられた「唯一独自の任務」は何なのか、を問うのである。

 そして、我々が天から与えられた「唯一独自の任務」を果たそうとすれば、自ずから自分を鍛え上げなければならない。

__________
 ・・・人が真に自分を鍛え上げるには、現在自分の当面している仕事に対して、その仕事の価値いかんを問わず、とにかく全力を挙げてこれにあたり、一気にこれを仕上げるという態度が必要です。そしてこの際肝要なことは、仕事のいかんは問題ではなくて、これに対する自分の態度いかんという点です。

 否、ある意味では、さほどの価値のないことでも、もしそれが自分の当然なすべき仕事であるならば、それに向かって全力を傾け切るということは、ある意味では価値ある仕事以上に意義があると言えましょう。[3, p469]
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■7.「経営トップが人を引きつける品性を備えているか」

 このように自分の仕事を天から与えられた「唯一独自の任務」と信じ、その過程で出会った困難はすべて天の配慮による「絶対最善」と見なし、その克服のために全力を挙げて取り組むという生き方に徹すれば、その成果はどうあれ、その人生は本人にとっても充実したものとなろう。

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・・・われわれ人間にとって、人生の根本目標は、結局は人としての生をこの世にうけたことの真の意義を自覚して、これを実現する以外にないと考えるからです。そしてお互いに、真に生き甲斐があり生まれ甲斐がある日々を送ること以外にはないと思うからです。[1,p17]
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 こういう天命に従う生き方を追求している人は、自ずから「気品」が内面から輝き出てくる。気品について、北尾氏は言う。

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 ピーター・ドラッカーが言っているけど、経営者がどうしても身につけなければいけないのは、気品だと言っている。森先生も気品のことを言っている。品性だと。品性というものが経営者にはどうしても必要なのです。

 だから最終的に僕が投資するかしないかは、経営トップが人を引きつけるのに十分な品性を備えているか、人間的魅力なんです。一人で事業はできないから、いろいろな優秀な人が集まってくれて、一緒になって志を共有して、事業を興していく。金儲けのために、自分の自己満足のために一生懸命事業をやっているのかな、という所には、僕は投資をしたくない。[1]
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 自分の事業を天命だと信じて、全身全霊をもってそれに邁進する経営者と、自己の金儲けのために事業をしている経営者と、どちらに人はついて行くかは明白である。

 金儲けのためにニッポン放送の支配を企んだホリエモンに、社員一同が総会を開いて反対の決議を突きつけたのが、その好例だ。もし、ホリエモンがニッポン放送を買収できたとしても、リスナーのために働く人は去り、給料だけが目当ての人ばかりになる。そんな企業が成功するはずもない。

 逆に、自らの事業を天命だと信じて、邁進する経営者には、多くの社員も一生懸命ついていく。志を同じくする人々の一致協力は、事業成功の絶対必要条件である。

 こう考えれば、北尾氏が「経営トップが人を引きつけるのに十分な品性を備えているか」を投資するかしないかの判断基準にするというのは、きわめて合理的なのである。だからこそ、SBIホールディングの成功もあったのだろう。


■8.気品ある人、気品ある国

 森信三は、小学校教師を目指す学生たちに気品を持て、と教え、北尾氏は、経営者には気品が必要だと説く。気品ある教師に生徒はついていき、気品ある経営者には従業員がついていく。

 企業や学級に限らず、世の中のすべての職場も家庭も地域社会も、一人では営めない。人々がそれぞれ役割を分担して、力を合わせて、やっていかなければならない。

 自分に与えられた役割を自らの「唯一独自の任務」と受けとめ、「永年その研究を重ねていったならば」、自ずから「品位」が内から輝きだし、それが周囲の人を引きつけていくだろう。そういう生き方をしている人は自ら幸福な人生を歩むのみならず、周囲の人も幸福に導く。

 一国のうちに、気品ある国民が増えれば、気品ある国ができる。そういう気品ある国こそ、世界の国々も友好を結びたいと近寄ってこよう。

『修身教授録』は、そういう究極のポジティブ人生観を説いているのである。
(文責:伊勢雅臣)
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