出し惜しみしない人

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。



今回は、伊庭正康氏の心に響く言葉より…「出し惜しみしない人」です。


たとえば、あなたが考えた仕事のやり方を同僚にマネされたとしよう。

そして、マネした人があなたより高い評価を得たとしたらどうだろう。

はたして、あなたは“おおらか”でいられるだろうか。


「それは私が考えた方法なのに…」と、“せこい”気持ちが生まれたときは、こう考えるといい。

「別に減るもんじゃないし、まぁいいか」

実際、あなたのノウハウや持ち物が他人に使われたところでそれらが減るわけではない。

ならば、気持ちよく使わせてあげればいい。


先日、テレビのドキュメンタリー番組を見ていて、「やはり一流は違う」と感銘を受けた人がいた。

ものまねタレントのコロッケさんだ。

コロッケさんは、「ものまねショー」のお店を経営している。


お店のショーに出演する演者は、コロッケさん自身がオーデションを開催し開拓しているのだが、そのなかで彼は意外なところに時間をかけていた。

そのオーディションの審査は厳しく、ほとんどの人が落選するのだが、コロッケさんは落選した1人ひとりに「もっとこうしたほうがいい」と時間をかけてアドバイスしていたのだ。

さらに、ただアドバイスするだけでなく、自分自身でもやって見せていた。


「郁恵ちゃんのものまねは、こんな感じでリズムを少しハズすと面白くなるよ」

そのアドバイスのとおりにするだけで、各段に面白くなる。

そして、落選した人は「これ、やらせてもらいます!」と帰っていく。


しかし、考えてみると、それはコロッケさんの持ちネタのはずだ。

ところが彼は、惜しむことなく後輩たちにワザを伝授する。

芸能界の大御所であるコロッケさんが、今なお多くの人から愛されている理由はそんなところにもあるのでは、と思うのだ。


もし、オフィスにハサミがなければ、あなたのハサミを誰もが使えるように共有する。

自分だけが知っているノウハウがあれば、出し惜しみせずみんなに教える。

そんなことが自然にできる人は素敵だ。


《「自分のものはみんなのもの」と考えると、結局自分自身が得をする。》

『すべてを手にする人が捨てている41のこと』かんき出版





他人に「何かを与える」ということは、他人を「喜ばせる」ことと同じ。

惜しみなく、そして見かえりなく、与え続ければ、喜ばれ、感謝される。

それが、「魅力のもと」となる。


魅力ある会社や人には、人が集まる。

それが、「人気がある」ということ。


反対に、知っていることを出し惜しみする人は「ケチ臭(くさ)い」。

お金も、知識も、情報も…

ケチ臭い人のそばには人は集まらない。


どんなことでも、出し惜しみしない人でありたい。

「そ・わ・か」の法則とは

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。


今回は、小林正観さんの心に響く言葉より…「そ・わ・か」の法則とはです。


神が好む人間の行為ベスト・スリーは、「掃除」「笑い」「感謝」であるらしいというのが、「そ・わ・か」の法則です。

神は掃除をする人が好き、笑顔や笑い声が好き、感謝する人が好き、らしいのです。


「掃除」と「感謝」は、いわゆる善行として、過去に他の偉い先生方もおっしゃっています。

ここに「笑い」がランクインしてくるのは、実は「笑い」は「肯定」を意味しているからです。


自分の子供が、学校の通信簿を持ってきたのを見たら、なんとオール1だった。

「きれいだね!」

と笑うことができたら、「受け入れた」ということです。


「笑い」とは、肯定であり、受け入れること。

実は目の前の現象を起こしてくださっている地球や宇宙や神さまに対して、肯定したということです。

つまらないダジャレでも、笑える人は肯定できる人であり、笑えない人は否定した人。


「肯定」とはイコール「喜ばれた」ということ。

神さまは、喜ばれるとうれしくてやる気になって応援・支援をしようと思うみたいなので、肯定的な人にはどんどん味方をしてくれるようになるのです。


ですから、いかに自分がついていないか、不運かを言っているとダメ。

あまりまわりの人から受け入れられることはない。

謙遜のつもりで言っていると、どんどん人間関係がつまらないものになっていきます。


「ついている」「恵まれている」と言っていると、心ある人が寄ってくる。

あやかりたい、楽しそうだ、つきあいたい、とまわりの人は思うのではないでしょうか。

口から出てくる言葉が肯定的で、感謝に満ちていて、明るいものであると、まわりにも楽しい人たちが集まってくるのです。


「こんなにつらいことがって、とても笑顔になんかなれません」と言ってくる人がいるのですが、宇宙の構造は逆。

笑顔にならないから、愚痴、泣き言ばかり言っているから、愚痴や泣き言のタネばかり降ってくる。

そういう構造になっています。

なにげなく言っている一言が、かなり重要。


この話を聞いて、「じゃあ、現象は何一つ変わっていないけど、これから愚痴や泣き言を言うのをやめよう」と決意した人が、今までに私のまわりに何百人もいます。

その人たちは、愚痴を言わなくなったところから、現象が一変しました。

生活が変わりました。

だから、これは気持ちの問題ではなくて、宇宙の法則らしいのです。


神さまは、つらいこと、悲しいことに対して「つらい」「悲しい」と言っている人には、まったく応援・支援をしないみたいです。

喜んでいる人には、「そんなに喜ぶんだったら、もっと喜ばしちゃおう」と思うらしい。

「思うようにならない」と言っている人は、文句や愚痴を言うことによって、神さまから応援されにくいのかもしれません。


『「そ・わ・か」の法則』サンマーク出版




子供が小さいとき、しつけのためと、心を鬼にして真面目な顔をして「怒る(演技をする)」ことがある。

しかし、怒っている最中に、なぜか笑いが出てしまうことがある。

心の中ではそのことを密かに肯定しているからだ。


批判的で、攻撃的で、愚痴や泣き言ばかり言う否定的な人は、暗い。

否定は暗いからだ。

反対に、どんな時も笑っている肯定的な人は、明るい。

肯定は明るいからだ。


「喜んでいる人をもっと喜ばせたい」と思うのは神さまだけではない。

人間もそれはまったく同じ。


「『肯定』とはイコール『喜ばれた』ということ」

笑い多き人生をめざしたい。

フォーカスを自在に変える

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★今日のフォーカスチェンジ♪★

フォーカスを自在に変える


10年以上前、

みじかい期間でしたが、
ある気功の教室に
通っていました。

私は、不熱心な生徒だっ
たので、まったく上達し
ませんでしたが。(笑)

(講座のあとの懇親会が
 楽しくて、通っていた
 ようなものでした)汗

その先生の
あることばは、

私の人生に、
重要な意味をもたらす
ことになりました。


それは、

「見つめたものは
 拡大する」

です。


実は、それこそが、
「フォーカス」(視点)
のことだったのです。

シンプルな法則ですが、
ひとのこころを
よくつかんでいます。


私たちは、よく、運が
いい・運が悪いという
言いかたをしますが、

これって、実は、

「運がいい」に
フォーカスしているか、

「運が悪い」に
フォーカスしているか、

それだけの
ちがいなんですね。


そして、
どちらであっても、

フォーカスしたとたんに、
それに関することが、
目につくようになります。

そう。「見つめた」
(フォーカスした)ものが、
「拡大する」んです。


こんな体験があります。

ある友人宅を、
はじめて訪問するとき、
友人が、

「車庫に、赤い
 軽自動車があるから、
 それを目印にして」

と言ったのです。


赤の軽なんて、
そんなにたくさん
なさそうですよね。

ところが、私は、
道に迷ってしまい、

その周辺をさんざん
さまよったあげく、

なんと、赤の軽を、
3台も見つけて
しまいました。(笑)

友人も、「えっ、
そんなにあった?」と、
びっくりしていましたが。


おそらく、ここまで
読んだあなたは、

ああ、フォーカスのこと
は、もうわかった、

なんて想っているのでは、
ないでしょうか?

この瞬間、あなたは、
「わかった」と思うこと
に、フォーカスして
しまっているんです。

その瞬間に、あなたは、
「わかっていない」こと
(部分)が、見えなく
なってしまうのです。


わかるかな?

(ややこしいですね)(笑)


いま、自分が何に
フォーカスしているか。

このことに気づくことが
できれば、

私たちは、フォーカスを
自在に変えることが
できるようになります。

そう。
フォーカスチェンジです。


いやな気分になるのは、
いやなことにフォーカス
している自分がいるだけ。

もしくは、いやな気分
そのものにフォーカス
している自分がいるだけ。

そのことに気づいたら、
あとは、選択があるだけ。

気分を切り換えたいので
あれば、ちがう何かに
フォーカスすれば
いいのです。

すると、あなたは、
その瞬間に、それまでの
フォーカスから、
ぬけることができます。


もしも、ああ、自分は
運が悪いなあと感じたら、

その瞬間に、こう
言い換えてみてください。

「ああ、自分はいま、
 運が悪いということに、
 フォーカスしている」

そして、
こう言ってみるんです。

「運がいいことにフォー
 カスするとしたら、
 何が見えるだろう」


これ、やったひとだけ
がわかる体験です。

おためしあれ。


あっ。

運がいいことに…と
口では言いながら、

こころのなかで、

「運がいいということに
 フォーカスしても、
 やっぱり運が悪い」

と想っていたとしたら、

それ、運が悪いことに
フォーカスしちゃって
ますから。(笑)

お気をつけあそばせ♪


人種差別と奴隷制

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。

今回は、国際派日本人養成講座 より■■ 隠された西洋史 ~ 人種差別と奴隷制です。

 ヨーロッパ人の強欲非道の歴史を隠してしまえば、真実の世界史も日本史も見えなくなってしまう。



■1.ボストン公共図書館の半旗

 ボストンの中心街に聳えるボストン公共図書館は1848年創設、その面積は東京ドームより広く、いかにもアメリカの国力を誇示するような広壮な建物だが、その正面に何本も並ぶ星条旗がすべて半旗になっていた。

 最近、白人警官が無抵抗の黒人を射殺する事件が相次ぎ、全米各地で抗議デモが広がる中、ダラスで黒人容疑者に狙撃されて死亡した5人の白人警官に弔意を示したものだろう。

 一方でボストンでは街中で白人と黒人のカップルをよく見かけた。ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学など一流大学があるせいか、なんとなく黒人も知的な顔立ちの人が多いような気がする。しかし、こういう進んだ光景は全米でもごく一部の地域だけで、人種差別はいまだに米国全体を悩ませている宿痾である。

 ただ米国人の名誉のために付け加えれば、米国ほど人種差別の問題に悩まされつつ、その解消のために努力してきた国もない。

 アメリカの13の植民地は1776年に独立宣言を発し、連邦国家として出発したが、その当初から、黒人奴隷に依存したプランテーション農園を経済基盤とする南部諸州と、黒人の少ない北部諸州では奴隷制に関して対立していた。

 建国の父たちは、この点にこだわっていては一つの国家としてスタートすることは不可能と判断し、憲法では奴隷制を表立って取り上げることなく、南部諸州の既存の制度を守ることを憲法上の権利として、国家統合を優先したのである。

 この矛盾が表面化した1860年代の南北戦争、その最中のリンカーン大統領による奴隷解放宣言、1950年代からの公民権運動と、200年にわたる努力がなされてきた。それでも根絶し得ないほど、人種差別の問題は根深いと言わざるを得ない。

 実は我が国も、明治維新以降、人種差別の渦巻く近代世界に漕ぎ出し、差別されている有色人種による唯一の近代国家として戦ってきた。この視点なくしては、我が国の近代史における苦闘の足跡は見えてこない。

 この足跡に関しては、拙著『世界が称賛する 日本人の知らない日本』の中で述べたが、今回はそれを補完するために岩田温氏の『人種差別から読み解く大東亜戦争』[1]をご紹介しよう。

 この書は書名の通り、人種差別との戦いが大東亜戦争の発端であったことを述べている。その本論は、同書に直接あたって貰うこととして、ここでは同書の前段となっている、人種差別と奴隷制が常に西洋とともにあったという史実を見ておきたい。


■2.奴隷制と共存していたギリシャの民主主義

 ギリシャは西洋文明の源流、特に民主主義の発祥の地として高く評価されているが、実はその民主政治は奴隷制と共存したものであった。哲学者アリストテレスは著書『政治学』で次のように奴隷制を擁護している。
__________
 自然によって或る人々は自由人であり、或る人々は奴隷であるということ、そして後者にとっては奴隷であることが有益なことでもあり、正しいことでもあるということは明らかである。[1, p44]
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 人間には生まれながらに知性に欠けた人々がおり、そうした人々は「奴隷であることが有益」で「正しい」ことだ、とまで言っているのである。

 ちなみに、奴隷を英語では“Slave”と言うが、これは中東欧のスラブ語での「スラブ(言語)」を語源とする。ギリシアとの戦争に負けたスラブ人の捕虜が戦利品として奴隷とされたために、ギリシャ語で「スラブ」が「奴隷」の意味となり、そこからローマ帝国のラテン語経由で、ヨーロッパの諸言語に広まった。

 そのような奴隷は当然、市民には含まれず、民主主義の対象とも考えられていなかったのである。


■3.「神が真黒な肉体のうちに善良な魂を宿らせたはずはない」

 ヨーロッパ人はアフリカ大陸の黒人と接触することで、この人種差別を一層強めたようだ。近代的な司法、行政、立法の三権分立の原則を説いたモンテスキューですら、著書『法の精神』で次のように述べている。

__________
 現に問題となっている連中は、足の先から頭まで真黒である。そして、彼らは、同情してやるのもほとんど不可能なほどぺしゃんこの鼻の持主である。

 極めて英明なる存在である神が、こんなにも真黒な肉体のうちに、魂を、それも善良なる魂を宿らせた、という考えに同調することはできない。[1, p55]
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 ヨーロッパ人は、科学やキリスト教などを持つ自分たちが「足の先から頭まで真黒」な黒人よりも優れた存在である事は当たり前の事だと考えた。

 ローマ教皇ニコラウス5世は1452年、アフリカの地中海沿岸部を征服してアフリカ王と呼ばれたポルトガル王アルフォンソ5世に対して、異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えている。人種差別と奴隷化に、キリスト教のお墨付きが与えられたのである。


■4.「キリスト教徒たちの暴虐的で極悪無慙な所業」

 西洋人の強欲非道ぶりは、コロンブスによって新大陸に展開された。コロンブスがバハマで出会ったタノイ族は温和で、武器の存在すら知らなかった。コロンブスは感激して、次のように記している。

__________
 さほど欲もなく・・・こちらのことになんでも合わせてくれる愛すべき人びとだ。これほどすばらしい土地も人もほかにない。隣人も自分のことと同じように愛し、言葉も世界で最も甘く、やさしく、いつも笑顔を絶やさない。[1, p80]
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 この「愛すべき人々」をコロンブスは捕らえて、奴隷としてスペインに連れていった。さらに圧倒的な武力で脅して、タノイ族に金の採掘を命ずる。採掘作業のために、畑作業が出来なくなった結果、深刻な饑餓が起こり、5万人の原住民が餓死した。

 同様の強欲非道は、その後、さらに大規模にくり返された。1532年、フランシスコ・ピサロ率いる200人未満のスペイン人の一隊がインカ帝国にやってきた。彼らは奸計をもって、皇帝アタワルパを捕らえ、莫大な金銀を身代金として巻き上げた上で、処刑してしまう。さらに住民たちを搾取し、虐待、殺戮した。

 ピサロによって傀儡皇帝とされたマンコ・インカは次のようにスペイン人に語ったと伝えられている。

__________
 私は心から君たちに好意を寄せ、友人になりたいと願って数々の親切をしてきたのに、君たちはそれをすっかり忘れ去り、わずかばかりの銀のために私の願いを無視し、挙句の果て、君たちの飼っている犬に対するよりも酷い仕打ちを加えたのだ。・・・結局、銀を欲するあまり、君たちは私と私の国のすべての人びとの友情を失い、一方、私や私の部下は君たちの執拗な責め立てや甚だしい欲望のために宝石や財産を失った。(ティトゥ・クシ・ユパンギ「インカの反乱」)[1, p74]
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 ピサロらの悪行を、従軍司祭として見たラス・カサスは「この四○年間にキリスト教徒たちの暴虐的で極悪無慙な所業のために男女、子供合わせて1200万人以上の人が残虐非道にも殺されたのはまったく確かなことである」と述べている。(ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』)[1, p76]

 ヨーロッパ人たちは愛を唱えるキリスト教を信奉しつつ、その仮面の下では、ローマ帝国の崩壊以降、何世紀にも渡って内部抗争や、異教徒との戦争をくり返しており、その過程で他には例を見ない強欲非道ぶりを身に付けたように思われる。


■5.「彼らは自分と肌の色が違うものを隷属させ」

 強欲非道ぶりに関しては、北米に入植したイギリスも負けてはいない。1606年、144人の入植者をバージニアに送り込んだが、多くが病や寒さで死亡してしまう。彼らにトウモロコシの栽培を教えて、助けたのがインディアンだった。

 インディアンの族長が「武器を船においていらっしゃい。ここでは武器は要らない。われわれはみな友人なのだから」と言ったが、返ってきた言葉は「トウモロコシを船に積め。さもないとお前等の死体を積むぞ!」

 彼らはインディアンを「人間」とは見なしていなかった。インディアンの村々を襲撃し、食べ物を強奪していった。1610年に、植民地の住人2人がインディアンによって殺害されると、イギリス人は報復措置として二つの村を焼き尽くし、女子供に至るまで殺戮した。こうして、血で血を洗う復讐合戦が始まったのである。

 入植者たちは、神によって新大陸が与えられたと信じていたので、異教徒のインディアンを殺す事は神の意思に従うと考えた。
キリスト教の指導者コトン・マザーは、ピクォート族の戦士たちを殺戮し、生き残った女子供を奴隷として西インド諸島に売却した。彼は誇らしげに「この日、われわれは600人の異教徒を地獄に送った」と記している。

 以下のインディアンの言葉を読めば、ヨーロッパ人の強欲非道ぶりがよく分かる。

__________
 白人の中にも善良な人間がいることは認める。しかし、その数は悪意を持った白人の数に比べると比較にならない。白人たちは圧倒的な力で支配した。彼らはやりたい放題のことをやった。人間はみな同じように大いなる精霊によって作られたのにもかかわらず、彼らは自分と肌の色が違うものを隷属させ、従わないものたちを殺した。白人の誓いはいかなるものも守られたためしがない。(デラウェア族パチガンチルヒラス)
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■6.大西洋奴隷貿易

 17世紀中葉には、キューバやハイチなど、カリブ海諸島でサトウキビのプランテーション(大規模農園)が広まった。ヨーロッパで飲茶の風習が広がり、砂糖の需要が高まったからである。

 しかし、このプランテーションには大量の労働力が必要であり、地元の原住民人口が激減していたことから、熱帯の気候に強いアフリカの黒人が奴隷として大量に連れてこられた。

 アフリカの奴隷商人たちが、ヨーロッパ人から購入した銃で大陸内部の村々を襲撃し、捕まえた原住民を海岸部でヨーロッパ商人に売り渡す。奴隷は奴隷船にすし詰めにされて大西洋を越えてカリブ海まで運ばれた。

 その後、北米大陸の南部でも綿花のプランテーションで黒人奴隷を輸入するようになった。16世紀から18世紀の300年間で、奴隷貿易により大西洋を渡ったアフリカ黒人は900万人から1100万人と学界で推定されている。まさに世界史的な悪行である。


■7.日本の植民地化も狙ったポルトガル

 ポルトガル人は、日本にもやってきて、布教を始めた。マカオなどと同様に、最終的には植民地にする事を狙っていたのだ。しかし戦国時代で戦い慣れていた信長や秀吉、家康は、彼らの企みを見抜いた。

 信長は宣教師たちがキリシタン大名を育てているのを知り、布教を許したのは「我一生の不覚也」と後悔したが、鉄砲部隊や鉄製軍艦などで宣教師を威嚇して、「日本は征服が可能な国土ではない」と諦めさせた。[a,b]

 ポルトガル人たちは布教のかたわら、日本人奴隷を海外に売り払っていた。秀吉はイエズス会の宣教師ガスパール・コエリョに対し、「何故ポルトガル人は日本人を購い奴隷として船に連れていくや」と詰問している。さらに教宣教師たちが、九州のキリシタン大名を焚きつけて寺社を焼かせているのに激怒し、宣教師追放令を出した。[c]

 キリシタンとの冷戦は、その後の徳川幕府にも引き継がれて、キリシタン禁制と鎖国の政策がとられた。島原の乱[d]という戦闘もあったが、ヨーロッパ人の毒牙から我が国の独立を守ったのは、この反キリシタン政策の功績であった。


■8.西洋の強欲非道と戦った日本の400年

 18世紀以降の産業革命によって、ポルトガル、スペインに替わって、イギリスやフランス、オランダなどが台頭し、アジア、アフリカを植民地化していった。またカリフォルニアまで開拓したアメリカは太平洋を越えて、アジアへの触手を伸ばしつつあった。

 こうして、アメリカからの黒船が来た時に、すでにアジア、アフリカで完全な独立国と言えるのは、日本とタイぐらいしかなくなっていたのである。

 幕末の「攘夷」とは世界を植民地化しつつあるヨーロッパ人の強欲非道から我が国の独立を守る事であった。その戦いは日露戦争から大東亜戦争まで続く。国際連盟創設の際は人種平等条項を入れようとして欧米諸国に拒否され[]、またカリフォルニアの日系移民が差別を受けた。

 これらに対する国民的怒りが大東亜戦争の発端となった。この経緯を岩田温氏の著書は詳しく辿っているので参照されたい。

 近代世界史から、ヨーロッパ人の人種差別と奴隷制という強欲非道の行いを隠してしまえば、キリシタン禁制は宗教弾圧であり、鎖国は文明世界から国を閉ざした愚かな政策であり、幕末の攘夷は無知愚昧なスローガンであり、大東亜戦争は軍国主義による近隣諸国侵略としか見えない。それでは真実の世界史も日本史も見えてこないのである。
(文責:伊勢雅臣)

国連本部に翻った日の丸

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今回は、国際派日本人養成講座より、「国連本部に翻った日の丸」です。
 重光葵は、日本の国連加盟を実現するために、残り少ない余命を捧げた。

 ■1.国連総会議場にて

 1956(昭和31)年12月18日朝、ニューヨークは晴天で、凍てつく寒さだった。イーストリバー沿いのガラス張りの39階建ての国連本部ビル、その横の薄いベージュ色の平たい箱形の建物が国連総会議場だった。

  重光葵(しげみつ・まもる)外相はダブルの背広に蝶ネクタイ、オーバーコートに中折れ帽をかぶって、大きなガラス張りのドアを押し明け、総会場に入った。中は暖房が効いて温かい。随員たちと和服姿の娘、華子が後に続く。

  高い天井の下の広大な空間に、びっしりと机が並び、世界各国の代表団が着席していた。重光は議場内の席に案内された。重光が着席するのを待って、51カ国もの共同提案による日本の国連加盟案が提出され、全回一致で承認された。議長が「日本の国際連合への加盟が決定しました」と宣言し、割れるような拍手が湧いた。

  スピーチの指名を受けた重光が立ち上がる。右足が義足のため、杖をつき、足を引きずりながら、演壇に近づく。右足を失ったのは、昭和7(1932)年、中華民国への公使時代に、上海での天長節祝賀会で朝鮮人テロリストに爆弾を投げらたからだった。[a,b]

 演壇は半円形で、4段の階段がぐるりと取り囲んでいた。その階段を、重光は一段一段、昇っていった。


■2.「君に、国際連合への加盟を実現してもらいたい」

  国際連合への加盟は、亡き松岡洋右(ようすけ)が死の直前に、巣鴨刑務所で重光に頼んだことだった。この時、重光も戦犯容疑者として、巣鴨にいた。

  一貫して戦争を避けようと努力した重光を戦犯容疑者として逮捕したのは、ソ連の仕業だった。かつて外務次官の頃に、一様に共産化を恐れる欧米列強に対して防共協定を提案したことがあり、それを恨まれていたのである。

  松岡は、特別に重光との面談を依頼し、3分間のみ英語で話すという条件で許された。車椅子の松岡はこう語った。

 __________
  君に、国際連合への加盟を実現してもらいたい。僕が席を蹴って立った国際社会に日本を戻してほしいのだ。どうか、君の手で、国際社会復帰を、果たしてくれ。この思いを、君に託さなければ、僕は死んでも死にきれない。
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  鋭さを失った松岡の目に涙が光っていた。

 「僕が席を蹴って立った国際社会」とは、松岡が1933(昭和8)年2月に、国際連盟総会で満洲国に関するリットン調査団報告書が採択された際に、席を立ったことである。これが契機となって、日本は国際連盟から脱退した。

  松岡の国際連盟総会退場は、国民から喝采を浴びたが、実は本意ではなかった。イギリスの代表団は、非公式に松岡に提案してきていた。「満洲での日本の利権を認めるから、いちおうリットンの報告を汲んで、顧問団を受け入れろ。その顧問団は日本人を主体にする」というのだ。

  松岡は「この提案を受け入れるしかない」と東京に打電したが、単なる口約束だと一笑に付されてしまった。「このままでは連盟による経済制裁が待っている」と再度、打電したら、その返事は「ならば脱退してしまえ」という指示だった。

  松岡は国際連盟脱退を深く悔やんでいて、重松に今生の頼みを託したのである。


■3.「私は、とにかく国交を回復できればいいんです」

  東京裁判では禁固7年の刑を受けたが、4年半の拘留の後、昭和25(1950)年11月21日に仮釈放された。64歳になっていた。

  この年、日本は国連加盟を申請していたが、ソ連が拒否権を発動した。常任理事国の1国でも拒否すれば、加盟は認められない。ドイツでも朝鮮半島でも、アメリカとソ連の冷戦が激化しており、日本が国連に加盟すると、アメリカの発言力が増すことをソ連は嫌ったのだ。

  昭和29(1954)年、鳩山一郎内閣が誕生すると、重光は9年ぶりに外務大臣に返り咲いた。まず注目したのは、インドネシアのバンドンで開かれるバンドン会議だった。アジア、アフリカの有色人種の国際サミットで、重光は腹心の加瀬俊一を送って、各国の日本加盟への支持をとりつけた。

  次に重光は国連本部に出向いて、総会議場のラウンジで、レセプションを主催した。飲み物を片手に、和やかな雰囲気の中で、重光は国連事務総長や各国代表に、日本の加盟支持を訴えた。

  3ヶ月後、国連の理事会で、日本の加盟に関する二度目の審議が行われたが、またもやソ連の反対で否決された。

  ソ連はアメリカ主導のサンフランシスコ講和条約を拒否した。日本の国民も、日ソ中立条約を一方的に破って、満洲で日本の居留民を襲い、日本将兵をシベリアに抑留したソ連を嫌っていた。しかしソ連の反対を覆さなければ、国連加盟は望めない。重光はソ連との国交正常化に取り組んだ。

  昭和31(1956)年7月29日、重光はモスクワの空港に降り立った。ソ連の外相やフルシチョフ第一書記とも会談したが、北方領土問題については、取りつく島がなかった。ここはソ連案を呑んで、領土問題を棚上げして国交正常化するしかない、と判断したが、日本政府も譲らない。重光は交渉を決裂させて帰国した。交渉失敗の批判は聞き流した。

  その後、駐日ソ連大使と綿密な事前交渉を経て、妥結が可能という手応えを掴んでから、鳩山首相をモスクワに送り出した。ソ連は重光には良い印象を持っていなかったからだ。

  鳩山首相は「せっかく、ここまで進めておいて、最後の仕上げをしないと、君が失敗して放り出したような印象を国民に与えるぞ」と言う首相に、重光は笑って「何と思われようと、かまいません。私は、とにかく国交を回復できればいいんです」

  10月19日、鳩山はモスクワで日ソ共同宣言に調印し、国交正常化を成功させた。新聞は、鳩山の成果と書き立てた。


■4.「たった今、可決されました」

  昭和31年12月12日の夜、重光は外務省の大臣執務室に泊まり込んだ。この日、ニューヨークの国連本部で、安全保障理事会が開かれ、日本加盟に関する採択がなされる予定だった。結果が出次第、ニューヨークの日本領事館が国際電話を入れることになっていた。

  スチーム暖房は夜間は切られてしまい、各人はオーバーコートを着込み、持ち込んだガスストーブで暖をとりながら、寒さしのぎに日本酒をちびちびやって、ひたすら電話を待っていた。

  朝5時、現地はもう夕方だ。遅すぎる。何か問題が起きたのではないかと、不安が心をよぎる。しかし、可決するまで、何度でも全力を尽くすしかない。それが自分に与えられた最後の使命だと覚悟した。

  その時、机の上の黒電話がなった。雑音とともに、興奮気味の声が聞こえた。「たった今、可決されました。日本の国連加盟が決まりました」

  重光が親指と人差し指でOKのサインを出すと、職員たちから大歓声があがった。総会での承認は12月18日となり、その日のうちに重光が国連総会の日本代表と決まった。


■5.国連本部ビルに翻る日の丸

  12月18日、重光は国連総会議場の演壇に立って、スピーチを始めた。訥々(とつとつ)とした言葉で、まず加盟承認の礼を述べた。そして冷戦下の国際情勢に言及し、今なお世界各地で紛争が続く中、戦争の苦しみを知る日本は、武力以外の力で世界に貢献していく意思がある、と語り、こう締めくくった。

 __________
  今日の日本の政治、経済、文化は、過去一世紀にわたる東洋と西洋、両文明の融合の産物です。そういった意味で、日本は東西の架け橋になり得る。このような立場にある日本は、その大きな責任を、十分に自覚しています。
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  席に戻る重光に、あちこちから「加盟、おめでとう」「心からお祝いする」と声がかかった。重光は笑顔で礼を言いながら、席に戻った。

  すると机の上には、ほかの79カ国と同様に、黒地に金文字で国名を刻んだ木製のプレートが置いてあった。「JAPAN」の文字が誇らしげに輝いている。まさに日本が国際社会に復帰した象徴のように見えて、重光は感動した。

  総会が終わると、日本代表団は総会議場の前庭に出た。そこには横一列に全加盟国の国旗が掲揚されている。一本のポールの細紐に日の丸が結ばれた。そして日本代表団の目の前で、日の丸はするすると上がっていく。

  冬の青空と39階建ての国連本部ビルを背景に、色とりどりの各国国旗に並んでいる。その中に、白地に赤丸の美しい日本国旗が翻(ひるがえ)っていた。その時の光景を、重光は次のような歌に詠んだ。

  霧は晴れ国連の塔は輝きて高くかかげし日の丸の旗


■6.「あなたはシゲミツさんですね」

  そこに浅黒いアジア人が、インドネシアの代表だと言って、握手を求めてきた。「私はディアンスワリと言います。あなたはシゲミツさんですね。私は、あなたのことを知っています」

  重光の記憶にはない人物だった。ディアンスワリは破顔して続けた。

 __________
  会うのは初めてです。2回目の大東亜会議の時に、私は代表団のひとりとして日本に行ったのです。あなたは、もう東京にはいませんでしが、大東亜会議の発案者がシゲミツといって、脚にハンディキャップを持つ人だと聞いて、私は覚えていました。[1,p325]
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  大東亜会議とは、重光が発案して、大東亜戦争中の昭和18(1943)年末に東京で開かれたアジア初のサミットであった。満洲国、中華民国、タイ、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府が集まり、各国の独立を尊重し、人種差別撤廃に貢献するよう共同宣言を出したのだった。


■7.インドネシアの感謝

  2回目の大東亜会議に、インドネシアは独立前だったが、代表団を送ってきた。その時は重光は外相の職を辞して、日光に疎開していた。

 __________
  お会いできて光栄です。インドネシアが独立戦争を戦い抜けたのは、大東亜会議のおかげです。あの時、私たちは本当に励まされました。私たちだって頑張れば、フィリピンやビルマのように独立できるのだと。

  私たちがインドネシアでバンドン会議を開いたのも、大東亜会議の志を引き継ぎたかったからです。

  インドネシアには、今でも日本人に感謝している人が大勢います。日本はオランダからの独立に手を貸してくれたし[d]、インドネシアの子供たちのために学校を作り、若者たちには戦い方を教えてくれました[e]。
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 「独立に手を貸した」とは、日本軍の降伏後、再びやって来たオランダ軍に対して独立戦争が始まり、千人とも2千人とも言われる日本軍将兵が現地に残って、インドネシア人とともに戦ったことを指す。[d]

 アジアの独立に命をかけて力を貸した日本兵がいたことに、重光は心打たれ、もう一度日の丸を仰ぎ見た。


■8.国連総会場での黙とう

 重光の渡米中に、鳩山内閣は総辞職し、重光も外相の職を失った。鳩山は重光に「国連の件は、よくやってくれた」と感謝しつつも、この点を詫びた。だが、重光は笑って、首を横に振った。

 __________
  かまいません。私は政界に未練はないんです。私が巣鴨を出所してから、政治の世界に入ったのは、ひとえに日本を国連に加盟させるためでした。・・・もう心残りはないのです。[1,p331]
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  年が明けた1月26日、重光は湯河原の山荘で、狭心症の発作により69歳の生涯を閉じた。

  死の2日後、ニューヨークの国連総会場で、総会の冒頭、議長がマイクを通して伝えた。「先月、ここで日本代表としてスピーチをしたマモル・シゲミツが、日本で亡くなりました。」

  加盟演説からわずか39日後の死に、誰もが驚き、どよめきが広がった。議長は続けた。「彼は生前、日本の国連加盟に、力を尽くしました。よって、ここに黙とうを捧げたいと思います。」

  全員が座席から立ち上がった。議長の「黙とう」の合図で、世界80カ国の代表たちが、静かな祈りを捧げた。

  この黙とうを提案したのは、インドネシア代表団だった。
 (文責:伊勢雅臣)

 

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