天ぷらうどんの原理

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。




今回は、斎藤一人さんの心に響く言葉より…「天ぷらうどんの原理」です。


幸せになりたかったらね、「幸せだ」って言いな。

先にだよ。

幸せになってから言うんじゃないんですか?

違うよ、幸せになりたかったら、「今、幸せだ」って言いなよ。

そばやに行って、天ぷらうどんだって、出てくる前に、「天ぷらうどん」って言うだろ、って。

「出てきてから、言います」って言ったって、ずっと出てこないだろ。


だから、人間だってね、先に「幸せだ」って言いな。

今俺が「いや、具合悪くてさ」って言ったら、みんな心配するよ。


俺、うちのお姉さんとこへ、最近お姉さん、一人さんフアンの集まるお店っていうのやっててくれて、そこへ行くんだけれど、そこへ行くと、「ぼくちゃん、いつも幸せそうね」って。

俺、「ぼくちゃん」って言われてるの。

それで、「幸せそうね」って言うんで、「うん、俺、幸せなんだよ」って言うんだけど、「一人さん、いつも幸せで、嫌なことないでしょ」って。


嫌なことあるよ。

ほんとにあるんだよ。

商売やってたら、仕事やってたら、嫌なことなんて、山ほどあるよ、って。

だけど、姉さんのとこ行って、こういうことがあってさ、ああいうことがあってさ、って言っても、姉さん、解決できるわけじゃないんだよ。

嫌なことで、心配させるだけだよね。


ところが、「あんなこと、どうでもいいよ。俺、幸せなんだよ」って言ってるうちに、人間の脳って、幸せを数えだすの。

「これこれこうで、幸せだよね」って言いな。

それを自分が「大変だ」とか、「不幸だ」って言う。

脳ってね、「疲れた」って言うと、疲労物質がわーって出てくるんだよ。


今日の仕事は、やりがいがあって、心地よかったなって言うと、その物質は出方が全然違ってきちゃう。

脳って、特別なそういう働きがあるの。

「幸せだな」って、言ってごらん。


あのね、よく、嫌なことがあったり、辛いことがあったら、「あんた、言ってごらん。それってさ、言わないでいると、溜まっちゃうから、言ったほうがいい」と言うよね。

でも、言ったら、解決しますか、というと、しないよ。

弱気なこと言ったら、どうなるかっていうと、泣きごと言ってる人って、ずっと言ってるんだよ。

言わないよりは、言った方がいいかもわからない。


でも、もっといいのは、強気なこと言ってみる。

たとえば、「うちの部長が怒ってばっかしいてさ」って、部長のこといろいろ言ったって、部長が世の中からいなくなるわけじゃないよね。

それから会社に行かなくてもいいわけじゃないよね。

試しに強気なこと言ってみる。

「うちの部長なんか、いくら怒ったって、全然怖くないですよ。うちの女房の方が、五倍怖いですよ、目じゃないですよ」とか言ってみるとね、ふっと強気になる。

弱気になってね、弱音吐くと、余計辛くなる。

昔ね、「辛いことあったら言ってみな」って大人たちがよく言ってたけど、でもね、言ってもほんとに、だめなんだよ。


だからこれからね、みんな「今日どう?」「絶好調だよ、体は絶好調、恋愛も絶好調、仕事も絶好調」

うん、するとね、だんだん、だんだん、ほんとに元気になってくる。

これが言霊なの。

病気したって、なにしたって、「絶好調」って言ってればいいの。

ね、治るものはなおる。

周りに心配させないこと。


あのね、元気でもないのに、「元気です」とか、「俺幸せだよ」って、嘘かもわからない。

でも、ちょっとぐらい絶好調じゃなくったって、「絶好調」で、絶好調の度合いを下げればいいんだ。

なんなら、十パーセントにしちゃえばいいんだ。

そしたら、いくらでも絶好調になっちゃう。


うんと具合が悪いとき、せめて言ってもいいのは、「昨日よりはましだよ」。

「お前のお陰だよ」。

「みんなのお陰だよ」。


ほんとに幸せって、すぐ傍にあります。

言えば出てきます。

ほぼ天ぷらうどんと同じ原理。

「幸せ」と言えば「幸せ」が出てくる。

「絶好調」と言えば「絶好調」が出てくる。

これが言霊の作用。


『絶好調!』KKロングセラーズ




「疲れた、疲れた」といくら言っても、疲れはとれない。

言えば言うほど、疲れは増してくる。

これは、「疲れてない」と言っても同じ。

脳は「疲れ」という言葉だけを認識するからだ。

反対に、「今日も元気だ」と言えば脳は、元気なことを探し始める。


グッドアンドニュー(Good & New)というアメリカの教育学者ピーター・クラインが開発した組織の活性化の手法がある。

学校や会社の朝礼などに、ここ24時間以内に自分に起こった「楽しかったこと(よかったこと)」「新しい発見(新しいこと)」について一人ずつ発表する。

この手法を取り入れることにより、アメリカの学校の校内暴力が短期間でなくなったという事例が続出したそうだ。


つまり、毎日、「良いこと」「楽しいこと」「新しい発見」にスポットライトを当てるということ。

これを続けると、毎日、「幸せ」を数える習慣ができる。

「よかった探し」だ。


「天ぷらうどんの原理」を理解できる人でありたい。

終戦直前、日本は原爆実験に成功していた

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リペアショップ鹿児島店の坂元


今回は、国際派日本人養成講座より「 終戦直前、日本は原爆実験に成功していた」です。

 日本の原爆実験成功は現代の我々にとって、何を意味するのか?

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■1.米政府の機密文書から明らかになった日本の原爆開発成功

 第二次大戦終了直後に、米国の情報機関に衝撃的な情報がもたらされた。1945(昭和20)年8月12日、すなわち日本が降伏するわずか3日前に、朝鮮北部の興南(半島の付け根の日本海側)で原子爆弾の爆発実験に成功していた、というのである。

 この情報は、CIA分析官トニー・トルバをリーダーとする8人からなる米・国防総省のチーム、およびその後に設立されたもう一つの別の政府調査機関による機密文書の調査で検証され、さらに多くの事実との突き合わせが行われた。

 ロバート・ウィルコックスによる『成功していた日本の原爆実験』[1]は、彼の長年の研究に、新たに公開された機密文書の内容を加えて出版された書籍である。それを一般読者向けにダイジェスト版としたのが、『世界が隠蔽した日本の核実験』[2]だ。

 本編では後者を参照しつつ、日本の原爆開発がどのように進められ、それが現代の我々にとってどのような意味を持つのか、考えて見よう。


■2.日本の核物理学者たちの研究は「米側と並んで走っていた」

 戦時中の日本で原爆が開発されていたと言うと、「そんなバカな」と思う人がほとんどだろう。アメリカの科学技術は群を抜いており、日本が零戦や戦艦大和のような通常兵器はともかく、核開発のような最先端技術をもっていたはずはない、という先入観が一般的だ。

 実は、米国のある科学史専門家は、1940年当時の日本の核物理学者たちの研究は「米側と並んで走っていた」と評価している。それを裏付ける明白な史実がある。敗戦のわずか4年後に理論物理学者の湯川秀樹・京都帝国大学教授が日本人として最初のノーベル賞を受賞した事だ。湯川教授も原爆開発に参加していた。

 原爆開発の初期のリーダーだった核物理学者の仁科芳雄は、8年間ヨーロッパに滞在して、アルバート・アインシュタインや量子論の育ての親ニールス・ボーアと親交を結び、昭和10(1935)年に日本で最初のサイクロトロン(核粒子加速装置)を開発している。昭和40(1965)年にノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎も、仁科の門下生である。

 仁科は真珠湾攻撃の報に接して「この国にとり、米国に対して戦争に突入することほど愚かなことはない」と言っていたが、「すでに戦争に入ったのだから、どうしようもない。・・・いかなる場合においても、我々は祖国のために全力を尽くすべきだ」と語っている。[2, p66]

 陸軍の原爆開発計画は、仁科の名をとって、「ニ計画」と呼ばれたが、空襲による研究開発設備の破壊などにより、昭和20(1945)年春には正式に中止された。その成果を引き継いだのが、その3年前に本格化していた海軍の「F計画」であった。中心となった京都帝国大学の荒勝文策も、ベルリン大学でアインシュタインの下で学んでいた。

 アメリカでは、アインシュタインがフランクリン・ルーズベルト大統領に書簡を送って、原爆開発を促していた。開発の中心となった人物「原爆の父」ロバート・オッペンハイマーはニールス・ボーア門下のユダヤ人学者だった。日米とも原爆開発はヨーロッパで核物理学を学んだ人々によって主導されていたのである。


■3.洞窟内の武器組立工場に「放射能に注意」

「F計画」で空襲の危険に晒されていた日本本土に代わって、原爆開発の土地に選ばれたのが、朝鮮北部の興南であった。

 ここには東洋一の規模とされた日本窒素の産業施設があった。そして、鴨緑江とその支流に設けられたダムにより、豊富な電力が供給された。日本本土の全体の発電能力が3百万キロワットだった時に、この地域だけで1百万キロワットの電力供給をしていた。また朝鮮北部には豊富な鉱物資源があり、ウラニウムも採取できた。

 トルバの後で、日本の核開発を調査したもう一つの機関の中心人物、元空軍の画像分析・核兵器検知の専門官だったドワイト・ライダーは、現地の航空写真で、日本式のH型の鉄塔に支持された6万6千ボルトの高圧送電線が洞窟の中に引き込まれていることを発見した。

 その地は朝鮮戦争中に米軍と中国人民解放軍が激戦を繰り広げてり、米軍は撤退時に巨大な洞窟内の武器組立工場を発見していた。内部に500メートル以上の長いトンネルがあることを確認しており、そこには「放射能に注意」という警告が貼られていた。

 近くの清津は日本の主要な軍事基地であり、周辺の鉱山とともに「朝鮮の鉄と鉄鋼の中心地」だった。ライダーはこう述べている。

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 第二次大戦中、清津のみで、ウラニウムの濃縮、先進的なウラニウムの製粉設備、電池、原子炉などの建設に必要な、すべての施設、設備と能力を持っていた。清津はそれらの業務に必要とされた、鉄鋼、コンクリート、電子装置、電力を保有していた。[2, p184]
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■4.「成層圏にまで達するきのこ雲になった」

 昭和20(1945)年8月6日、米国は広島に原爆を投下し、一般市民も含めた無差別大量虐殺を行った。9日には長崎にも投下。日本の原爆実験はその3日後の12日だった。米軍にもたらされた、ある日本人の証言は、次のようなものだった。

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 8月12日の明け方、ロボット式(弊誌注:無人という意味だろう)のボートがポンポンと音を立て錨の周りの船の間を抜けて、小島に達した。ボートにのっていたのは「原子爆弾」だった。・・・

 日本がある、東の方が明るくなり、ますます輝きを増した。その瞬間、海の向こうに太陽は顔を覗かせていたものの、爆発的閃光が投錨地に照り輝き、溶接工用のめがねをかけていた観察者が盲目になった。火球の直径は1,000ヤード(弊誌注:約900メートル)と見積もられた。様々の色をした蒸気雲が天空に立ち上り、成層圏にまで達するきのこ雲になった。

 激しい水と蒸気によりかき回され、爆発点の真下にあった船は見えなくなった。錨の周りの外周にいた船やジャンクは激しく燃え上がった。大気がわずかに晴れ渡ったとき、観測者たちは5~6隻の艦艇が消えて無くなっているのに気付いた。[2, p43]
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 この「爆発」が核爆発ではなく、通常の火薬かジェット燃料の爆発だったという見方がある。核爆弾なら火球の半径よりも、破壊半径の方が広いはずなのに、ほぼ同じ大きさであることがその理由とされている。

 しかし、この翌年ビキニ環礁で行われた世界最初の浅海での核爆発実験では、火の玉はすぐに消え、水蒸気による凝縮雲ができた。興南の実験では、この凝縮雲を火の玉と誤認したとすると、1,000ヤードという直径は過大だったとは言えない。

 またビキニ環礁の実験では、爆発で巻き上げられた水と珊瑚礁が水面に落下して、キノコ雲の円柱底部を覆う巨大なナイアガラの滝のような現象が確認された。興南の実験でも同様の現象が言及されている。

 すなわち、米側がビキニ環礁で初めて知った浅海での爆発現象が、その前の興南の実験で伝えられているのである。これは興南の実験が作り話ではない事を示す有力な根拠である。


■5.「人類の文明をも破滅させる」

 この3日後の8月15日に昭和天皇が「終戦の詔書」を発せられた。そこには原爆を「残虐ナル爆弾」として非難されているが、実はその後に謎の一節が続く。詔書のこの部分は以下の如くである。

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敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ 頻(しきり)ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ惨害ノ及フ(ぶ)所 真ニ測ルヘカラサルニ至ル 而(しかも)モ尚(なお)交戦ヲ継続セムカ 終(つい)ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス 延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ。

(現代語訳)敵は新たに残虐な爆弾を使用して、多くの罪なき民を殺傷しており、惨害がどこまで及ぶかは実に測り知れない事態となった。しかもなお交戦を続ければ、我が民族の滅亡をきたすのみならず、ひいては人類の文明をも破滅させるはずである。
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 アメリカだけが原爆を持っているとしたら、これ以上戦うことによって、「我が民族の滅亡をきたす」のは分かるが、それがなぜ「人類の文明をも破滅させる」事になるのか。日本も原爆を持っていた事を知って、はじめてその意味が明らかになる。

 終戦のほぼ一年前、昭和19(1944)年夏、陸軍の「ニ計画」を統括する杉山元・参謀総長が東條英機総理大臣とともに昭和天皇に拝謁した。杉山元帥が後にある友人に語った所によれば、こういう内容だった。

 二人が天皇に説明したのは、(1)世界のいくつかの主要国が原爆開発を進めている、(2)日本も開発してきて、ようやく完成が見えてきた、(3)完成したら、まずハワイに投下して、戦局を一気に挽回できる、という内容だった。


■6.「それでは、人類絶滅の悪の宗家に日本がなるではないか」

 杉山元帥は昭和天皇がお喜びになるものと信じて奏上したのだが、昭和天皇は静かに、しかし力強く、こう答えられた。「自分はそれに反対である」。そして、その理由を次のように説明された。

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 数カ国がその新兵器開発を競っているとのことだが、日本が最初に完成し使用すれば、他国も全力を傾注して完成させ使ってくるようになるであろうから、全人類を滅亡させることになる。
 それでは、人類絶滅の悪の宗家に日本がなるではないか。
 またハワイに投下する計画とのことだが、ハワイには、日本の同胞が多数移住し、現地民とともに苦労し今日を築きあげたところである。そのような場所に新兵器を使用することには賛成しかねる。[3, p208]
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 昭和天皇は仁科博士の研究所を訪問されたことがあり、その際に原爆の放射能も含めた恐ろしさを聞かれていた可能性がある。[3, p117]

 杉山元帥は恐懼したものの「勝つにはどうしても原爆が必要だ」と考えて、秘密のうちに開発を続けさせた。しかし「原爆を積むロケット」の燃料製造工程で誤爆事故が起き、陛下の知られる所となった。杉山はこう語っている。

 陛下は私(杉山)を呼ばれ、「まだやっていたのか」と強く戒められた。「まことに面目ないことであり、それ以上続けることはできなくなった」。そしてかくも天皇の心を煩わせた責任をとって、日本が勝っても負けても「自決して陛下にお詫びする」と友人に語ったそうだ。その言葉通り、杉山元帥は終戦後、自決を遂げた。

 陸軍の「ニ計画」が中止となったのは、これが原因だったようだ。しかし、海軍は「F計画」で朝鮮北部での開発を続け、爆発実験成功までこぎ着けた。海軍は原爆を特攻機に乗せて、日本近海の米艦隊を撃滅する計画を立てていた。終戦の御聖断が遅れて、これが実現していたら、米軍はさらに何発もの原爆を投下して、日米間で本格的な核戦争が始まっていたかも知れない。

 昭和天皇が「我が民族の滅亡をきたすのみならず、ひいては人類の文明をも破滅させる」と危惧されたのは、こういう事態だったのだろう。終戦の御聖断は、こういう事態を防いだのである。


■7.ソ連軍の核施設奪取

 米国の核開発を行っているロス・アラモス研究所には数人の共産主義者がおり、彼らはソ連に核開発の情報を伝えていた。それにより、スターリンは1943年に核開発を開始させた。ドイツが敗北した後、ソ連は核開発の研究所から数人の核科学者と設備を奪った。

 ソ連の対日侵攻は、長崎への原爆攻撃と同日、1945(昭和20)年8月9日に始まった。その日のうちに、ソ連軍の歩兵、空挺部隊、海軍艦艇は朝鮮半島の北端部に殺到した。ソ連は日本の原爆開発を知っていたのである。

 米軍の把握した情報によれば、この一帯には多くの日本軍の駐屯地が配置され、それらの部隊は降伏せずに、侵入してきたソ連軍と激戦を展開した、という。しかし、11月にはソ連軍は核施設を奪取した。こうして、ソ連は日本の核開発設備や原材料を入手し、何人かの科学者を拉致した。非協力的な者は拷問されて、協力を強要された。

 ソ連は興南の核施設を用いて、原爆の材料の製造に使用していた。ソ連が最初の原爆実験に成功したのは1949年8月とされている。米国はソ連が10年はかかると見ていたが、戦後わずか4年で成功にこぎ着けたのは、日本の核施設と科学者を奪ったからだと考えられている。


■8.原爆実験成功の事実は何を意味するのか?

 現代において、日本が原爆実験に成功していた史実を明らかにする意義はどこにあるのだろう。まず、それは今の日本が核兵器を作ろうと思えば、すぐにでも作れる、という潜在能力の裏付けとなる。

 2004年に米国科学者連盟は、日本なら核実験なしでも「一年以内に」核兵器を保有できるとの見積もりを出している。ただし、これらは専門家による予測であって、それを信じない国もあるだろう。

 しかし、その予測が、過去に原爆実験を成功させた「実績」に裏付けられた場合、他国からの核恫喝に対する、より明確な抑止力になる。核で脅かされたら、1年以内にもっと大量の核で反撃できるのだぞ、という抑止である。

 もう一つは、昭和天皇が「人類の文明をも破滅させる」として、核兵器競争に反対されたことの意義である。原爆実験に成功する力を持ちながらも、人類の文明のために放棄したという事は、国際社会における我が国の道徳的地位を飛躍的に高めることになる。それは単に「唯一の被爆国」という被害者意識よりも、はるかに崇高かつ能動的な「和の国」らしさ[d]を世界に示すことになろう。
(文責 伊勢雅臣)



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 本著は日本の国柄を「和の国」ととらえ、それがどのような「根っこ」から生じ、成長していったのか、をたどった本です。
 この「根っこ」をさらに太く深くすることが、現在の我が国の危機克服とさらなる発展につながると考えております。

■令和日本が根ざすべき「和の国」の「根っこ」はこうして生まれ、育った

・1万年以上も続いた、戦争も環境破壊もない縄文時代
・「和の国」実現のための三大原則を示した三種の神器
・「和の国」を作ろうと呼びかけた神武天皇の即位宣言
・全国で16万基もの古墳を造築した「和」のパワー
・天皇から少年兵士まで真心を通わせる和歌
・心を開いて語り合えば道理が通って「和」に達すると説いた聖徳太子の十七条憲法
・西洋人たちに感銘を与えた幕末の「和の国」の民の幸福
・「衆議公論」による和の民主主義を目指した五箇条の御誓文
・まずは家庭内の「和」から始める事を説いた教育勅語
・皇室の無私の祈りが「和」の心で国民を統合する

進んで損ができると人に恵まれる

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。





今回は、萩本欽一氏の心に響く言葉より…「進んで損ができると人に恵まれる」です。


僕が子どものころ、浅草界隈には下町の言葉、江戸っ子口調がまだ色濃く残っていました。

今は下町でも山の手でも、あまり言葉が変わりません。

ちょっと寂しいですね。

下町独特の言葉、言い回しが消えて、下町気質(かたぎ)も消え失せた気がしますから。


下町気質とは何か。

僕に言わせれば「進んで損をしよう」という気質。

「得」することはどうにも性に合わない、金がなくても食べる物がなくてもやせ我慢して、どんどん人にやっちまえ!

そんな気質ではないかなと思います。


たとえば家に野球のボールが飛んできて窓ガラスがガシャーンと割れて、思わず「誰だ!」と怒鳴ったら、「おじさん、ごめんなさい!」とバットを持った小学生の男の子がやってきた。

そんなとき、「なんだ、坊主か。いいよ、いいよ、ガラスを割るぐらいボールを飛ばすなんて元気があっていいや。あやまんなくていいよ」なんていうオヤジさん。

こういう人が下町にはいました。


かつては蕎麦屋(そばや)に入ると、会計をして出ていく人から「釣りはいらねえよ」という言葉がよく聞こえてきたものです。

こういう言葉や、その気持ちに運が宿ると僕は思っています。

損の仕方がうまい人。

だけど、今はそういう人も少なくなりました。


蕎麦屋を例にして言えば、蕎麦に一本毛が入っていようものなら、「バカヤロウー、毛が入っているじゃないか」っていきなり怒鳴る人が増えてきた。

もちろん悪いのは蕎麦屋にしても、クレームの言葉が悪いと「申し訳ございません」と紋切型の回答しかこないから、いい人間関係が築けない。

下町の粋な言葉を見直してみると、薄っぺらくなった人情もまた厚みを増すような気がするのですが。


『ダメなときほど「言葉」を磨こう』集英社新書




萩本欽一氏は「言葉」について本書の中でこう語る。

『いい言葉を聞くと、とてもうれしくなります。

同様に、自分がいい言葉を話すと、周りの人もうれしくなって、いい気分になります。

そうやっていい循環が生まれて、いい運がやってくると思うのです。

だから僕は、いつも発する言葉一つひとつを大切にしたいと思っています。

いくら努力をしても、自分に風が吹かないときは必ずあります。

何をしても裏目に出て、うまくいかないときもあるでしょう。

ダメなときでも、言葉を磨くことで、いい運を引き寄せることができます。

何も話し方を変えるというのではありません。

ほんのちょっとした心がけでできることです。

人生は言葉の積み重ねです。

その都度、どんな言葉を話すかで、終着点も大きく変わると思います。』


嫌なことがあったり、ダメなときは、言葉を磨くチャンス。

普通なら怒ってしまうようなシーンでも、それを気の利いた言葉で返す。


そして、自分が少し損するようなことを言う。

それはたとえば、何かがあったとき、自分が率先して損な役回りを引き受ける。

誰もがやりたがらない仕事を気持ちよくやる。

すると、いつか、誰かが運をもってきてくれる。


進んで損ができると人に恵まれる。

奇跡のような国

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リペアショップ鹿児島店の坂元です。




今回は、ねずさんのひとりごとより、「奇跡のような国」です。



世界の歴史は、東洋史であれ西洋史であれ、支配者が敵対する者を征圧し、また粛清することが繰り返されてきた歴史を持ちます。
征圧は、現在においても、たとえば香港での騒動にチャイナ共産党が武力征圧を行っていることにもあきらかなように、21世紀となった現在も続いています。

さすがに粛清、つまり敵対者を皆殺しにするという方法は、この何十年かには見られなくなったものの、これまた20世紀における共産党による大虐殺に明らかなように、人類史という視点でみるならば、つい最近まで行われてきたことですし、あるいはこれからの未来においても繰り返されていくものであるのかもしれません。歴史は繰り返す、からです。

ところが世界に唯一、こうした征圧や粛清をすることなく、国をひとつにまとめあげた国があります。
それが日本です。
日本では、7世紀と19世紀に大きな変革期を迎えましたが、19世紀の明治維新では、戊辰戦争があったものの、7世紀の改革においては、大虐殺も征圧もいずれも行われていません。

このときには、チャイナに隋・唐といった軍事大国が成立し、その軍事的外圧の脅威から国を護るために、国内を統一国家にしていくという選択が図られました。
ところが、このときに敵対者を征圧することも、また粛清することも行われていません。



厳密には、蘇我入鹿を斬り伏せるといった事件は起きていますが、全体像を見たとき、諸外国に見られるような、何千何万、あるいは何百万人といった虐殺が起きていないことは、明らかな事実であろうと思います。

ではわが国が、どうして粛清や征圧を必要としなかったのか。
これには2つの理由があります。
ひとつは「天然の災害」。
もうひとつは「天皇の存在」です。

わが国は、戦乱よりも恐ろしい天然の災害の脅威が、常に民衆の生活と隣合わせにあります。
どのような権力者や大金持ちであっても、ひとたび火山が噴火し、台風による洪水が起こり、あるいは土砂災害が起これば、何もかもが失われるのです。

しかもこうした災害が起これば、必ずそのあとにやってくるのが、凶作による飢饉(ききん)であり、ひとたび飢饉となれば、そのあとには飢餓(きが)が襲い、飢餓が襲えば次には疫病が広がって、多くの死者が出るのです。
こうした災害は、権力やお金の有無に関わらず、誰にも(まさに平等に)襲いかかります。
災害は、我々日本人にとって、まさに恐怖の大魔王なのです。

天然の災害は、発生を防ぐことはできません。
ですから必要なことは、災害がいつ起きても、被災者はあっても被害者が出ないように、日頃から準備することが求められます。
その準備のための最大のものが、実は稲作です。

わが国も、万年の単位で永く狩猟採集生活が行われてきたのですが、これが稲作中心の社会に生まれ変わった最大の理由は、稲作によって収穫されるお米が、数年単位での常温保存が可能であるという一点に尽きます。

生活だけなら、実は狩猟採集生活の方が、断然「楽(らく)」なのです。
一日に3時間程度働くだけで、その日その日の食料を手に入れることができるからです。
また、木の実などは、粉末に加工して保存することで、1年程度の備蓄も可能です。
この粉末が、水で溶いてクッキーにして食べていたことは、よく知られています。

ところが、大規模災害が起きると、年をまたがった食糧不足が起こります。
人間、飢餓によって我が子を失うことほど、辛く悲しいことはありません。
それが、稲作によって、数年単位の食料備蓄が可能というのなら、我が子を飢えさせないためにも、おとうちゃん、必死になって土地を開墾するし、夫婦で力を合わせて稲を育て、お米を収穫します。

ところが稲作が普及するようになると、今度は新たな問題として、大規模水害の問題が発生するようになりました。
この対策のために、水路を掘る技術が開発されました。
土を掘ることによって余った残土は盛土(もりど)にして古墳となりました。

次には丈夫な堤防を築く技術が生まれました。
そのためには、大量の土砂を川端まで運ぶ必要がありましたが、これには水田作りの際に築かれた水路が大きな役割を果たしました。
船を使えば、大量の土をいちどに運ぶことができたのです。
こうして古墳に使われていた土砂は、堤防作りに活用されるようになり、平野部は洪水に悩まされることの少ない、稲作にも生活にも適した土地となっていきました。

食糧事情が良くなれば、当然のことに人口が増加します。
けれど一定の土地からは、一定の作物しか収穫できません。
そこで人々は、新たな土地を求めて、全国に広がっていきました。
つまりこのことは、親族が全国に広がっていったことを意味します。

その親族たちは、それぞれの土地に定着し、そこで何百年の時を重ねました。
けれど、もともと、同じ血を引く一族です。
山の向こうには、別なムラがあり、村の血を濃くさせないためには、嫁さんは山向こうの隣村や、そのまた向こうの村からもらうといった習慣が生まれました。

大国主神話に、出雲の八十神(やそがみ)たちがオホナムチとともに、八上の姫を貰いに行くといった描写がありますが、これは今風にいえば、村の青年団が、国をひとつ隔てた因幡の国の八上村の女性たちと、集団見合いに行ったというお話です。

こうした習慣は、つい近代まで、すこし田舎の方に行けば残っていた習慣(集団見合い婚)で、そうすることによって、村の血を絶やさず、また、血が濃くなることを防いでいたわけです。

脱線しますが、戦後は自由恋愛が極端に推奨された結果、農村部では嫁を得ることに極端に不自由し、結果、外国人との間で集団見合いが行われたりするということが起こるようになりました。これは社会の歪(ひずみ)ともいうべきことかもしれません。

一方、稲作は、地方豪族をも発展させました。
各家庭でも、もちろん食料備蓄はしますし、村単位でも、村の鎮守様にお米を備蓄して、いざというときに備えていたのですが、地域全体が被災するような大規模災害が起こったときには、被災しなかった遠隔地の村から食料支援をしてもらわなければなりません。

そしてそのためには、広範囲な地域を統括する豪族がいてくれることが、人々の生活にとってなくてはならないものとなっていきました。

要するに、いざというときのために、
各家庭でも、食料を備蓄する。
村でも、食料を備蓄する。
地域でも、豪族が中心になって食料を備蓄する。
さらに、豪族たちが、互いに連携することで、地域の飢えを防いでいく。
といったことが行われるようになっていったわけです。

ところが、実は、これだけでも足りない。
なぜかというと、わが国では数十年に一度、東日本大震災のような大規模災害が起こるからです。
こうなると、地域の力だけではどうにもならない。

このときに、やはり頼りになるのは、地域の人々にとっての本家のなかの総本家である中央の朝廷です。
そこで朝廷にも米を備蓄する。

それだけではなく、中央から国司を派遣してもらうことで、地域をまたがった、広域での非常食料の手当を可能にしていく。
そして国司は、担当する地域の人達が、決して飢えることがないように、最大限の力を発揮していく。
要するにわが国では、国と地方と村々が一帯となった災害対策が不可欠であったわけです。

こうした伝統から、戦前戦中まで、わが国では税の滞納をする人というのは、ほぼ皆無で、納税期間中に、催促がなくても全住民が、必ず確実に納税を済ませるという習慣が根付いていました。
なぜなら、納税は、いざというときのための災害保険どころか、命を守る手立てでもあったからです。

ところが、実は、これだけでも足りないのです。
どういうことかというと、災害時の困難も、人は安定した平時になれば、その苦労を忘れてしまうし、世代を越えたら、なおさら苦難は忘れ去られてしまうからです。

これを補うために必要なことが教育です。

教育によって、過去の災害を忘れないようにする。
どのようにして、どのような災害が起きたのか。
そのとき、人々はどのようにして身を守り、互いに助け合ったのか。
そのおかげでいまの命があることを、けっして忘れないためには、教育は不可欠の要素となりました。

万葉集において、一般の庶民が歌を詠み、また文字を記したことが、世界の歴史では信じられない出来事であるがゆえに、昨今では日本人なのかどうかさえも疑わしい一部の学者のセンセイが、庶民が字を書けるはずがないから、庶民の歌とされているものは、貴族たちの贋作だ、などと証拠もないのにデタラメを述べていますが、そうした論説は、わが国が災害大国であるという事実を完全に見落としています。

そういう馬鹿者が出ないようにするために、わが国では古来、学問を通じて、過去を忘れないという取り組みが行われてきたのです。
学問は、わが国において、人々が生き残る上での必要条件であったのです。

そして国をあらためて統一していこうということになったとき、中央の朝廷が、この学問を中心とした文化の担い手となっていくという選択が行われました。

それまで、地方豪族ごとにバラバラだった神代文字を、あらためて神代文字を元にした漢字を用いることで、ひとつひとつの文字に、さまざまな意思を重ね合わせて、歌を詠む。

この技術は、高い教養に裏付けられなければ、実現できないことです。
そしてその高い教養を、中央の朝廷が中心となって担い、国司がその伝達者となることは、国司が地方の豪族や庶民教育の担い手になるということでもあります。

つまり、国司は、単に国司というだけでなく、地域社会における師匠の役割をも持つようになるわけです。

なかでも、とりわけ優秀な地方の国司の子女は、中央の朝廷に采女として採用になるということも行われました。
そのなかで、よく知られているのが、源氏物語を書いた紫式部です。
紫式部の父は、越後の国司で、これまたたいへんに優秀な人でした。

こうしてわが国は、文化といざというときのための災害対策という二つの面から、国の統一を図りました。
そしてそうすることでわが国は、征圧も虐殺も粛清もしないで、国を統一するということを、実現してきたのです。
これは世界史的にみて、まさに稀有(けう)なことであったのです。

つまり日本は「奇跡の国」です。

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