鹿児島市西千石町の「フレッセ厚生市場」にある靴修理・鞄修理・合鍵作製のお店です。
 

店 名   リペアショップ鹿児島店
住 所   鹿児島県鹿児島市西千石町13-11
電 話   099-223-1766 
店舗URL http://ebisusama2322.on.omisenomikata.jp/


寛容性と多様性の宗教観

テーマ:ブログ
リペアショップ鹿児島店の坂元です。



今回は、国際派日本人養成講座 ■■「 寛容性と多様性の宗教観」です。

 世界では宗教的な対立紛争が絶えないのに、なぜ日本ではいろいろな宗教儀式が共存しているのか?


■1.「世界のあいさつ」の違い

 東京書籍版(東書)の第1章2節は「私たちの生活と文化」と題して、まず文化をこう定義する。

__________
「文化」は,言葉やあいさつ,食事の仕方など,生活環境の中で身につけた行動の仕方や価値観,それらによって生み出されたものを意味することがあります。[1, p16]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 文化の一例として「世界のあいさつ」がイラストで紹介されているが、日本の「腰から丁寧にお辞儀をする」に対して、フランスの「抱き合ってキスをする」からマオリの「鼻と鼻をこすり合わせる」まで、確かに「行動の仕方」は文化によって異なる。

 しかしこの挨拶の違いが、どのような意味を持っているのだろうか? 日本風のお辞儀とフランス風の「抱き合って頬にキスをする」との間には、何らかの世界観や価値観の違いがあるのだろうが、それを問うことなく、挨拶の違いだけ指摘されても、文化の理解には行き着かない。

 文化の違いを示す実例としては面白いが、文化とは何か、という事を教える公民の教科書としては、これだけでは不十分であろう。


■2.ダイナマイトは「文化」?

 この後で、科学も文化の「代表的な領域」としていることにも違和感を感ずる。

__________
 しかし,文化には負の側面もあります。例えば,ダイナマイトは,初めは土木作業のための道具として開発されましたが,その後,戦争にも使用されました。[1, p17]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 筆者の感覚では、ダイナマイトは「文明」の産物であり、「文化」の一部ではない。土木工事にしろ戦争にしろ、ダイナマイトが爆薬として使われるのはどこの国、どの民族でも同じだからだ。

 Wikipediaでは「文化」を「人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体のことである。社会組織(年齢別グループ、地域社会、血縁組織などを含む)ごとに固有の文化がある」と定義している[2]。この定義からすれば、民族にしろ企業にしろ、社会組織ごとに固有の「振る舞い」があり、それが民族文化や企業文化を構成していると考えるのが適当だろう。

 とすれば、どの民族やどの企業でも同じように爆破のために使われるダイナマイトは「文化」には入らない。文化の構成要素ではないダイナマイトを持ち出して、「文化には負の側面もあります」と言われても、生徒たちを混乱させるだけではないか。


■3.フランス庭園と日本庭園の違いから

 育鵬は文化を次のように説明する。

__________
 世界の人々は,日々の暮らしの中で何を主食とし,どのような言葉を話しているのでしょうか。例えば,日本人の主食は米であり,母語は日本語です。世界のさまざまな国や地域に暮らす民族が,それぞれの風土,伝統や歴史,他の地域との交流などによってつちかい,共有してきた独自の様式のことを文化といいます。[3, p24]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 食べ物や言語を例にとって、文化への説明を始めるのは分かりやすい。そして文化の違いの例として挙げられているのが、フランスと日本の庭園である。

__________
 パリ郊外にあるベルサイユ宮殿にみられるようなフランス式庭園は,左右対称で,植え込みは整って刈り込まれ,木は直線や円状に規則的に配置されています。自然を支配して、人工的な美しさを追求しているといえます。

 これに対し日本庭園は,川や池,木.花,石などで自然に似せた景色をつくり出しています.自然と対立するのではなく,人間は自然の一部であるという日本人の自然観を表しています。[3, p25]
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 パリを旅した日本人は、たとえば凱旋門を中心として美しく整った町並みやノートルダム寺院などの建物の壮麗さには感嘆するが、フランス庭園の幾何学的なデザインには違和感を感じる人が多いだろう。樹木を幾何学的に配置し、枝葉を真四角に刈り込んだりする様からは、自然を自分の思うとおり加工する傲慢さを感じとってしまう。

 フランス庭園から「自然を支配して、人工的な美しさを追求している」自然観を指摘し、日本庭園から「人間は自然の一部であるという日本人の自然観」を対比させる説明は説得力がある。

 ただし、この説明ではさらに「龍安寺の石庭に代表される枯山水」を紹介して、「水を使う日本庭園とは別の形で自然の美をかもし出しています」と言うのは、やや理解が難しい。枯山水には抽象的に水を表現するという日本文化の別の要素が現れているからだ。

 そこまで行かずとも、日本の三名園と言われる金沢市の兼六園、岡山市の後楽園、水戸市の偕楽園などと比較して、「人間は自然の一部であるという日本人の自然観」に絞って説明した方が分かりやすいのではないか。

 いずれにせよ、東書の「世界のあいさつ」では生活様式の違いの説明だけで、その根っこにある人間観、自然観まで説明していないのに対し、育鵬は表面に現れた様式の違い生み出している人生観や自然観の違いまで踏み込んで説明しているのである。


■4.日本人は「無宗教」なのか?

 育鵬は次に「私たちの生活と宗教」という項を設け、子どもが生まれると神社にお宮参りをし、人が亡くなると仏式の葬式を出し、クリスマスを祝い、元日には神社やお寺に初詣に行く、という事から、「宗教的行事への寛容性や多様性が見られます」と指摘する。

 多くの日本人は外国人から「日本人の宗教とは何か」と聞かれて、このようにいろいろな宗教儀式を自在に取り入れているから、「無宗教だ」と答えたりする。

 しかし日本人は本当に「無宗教」なのか? この問題を考えるためのデータとして、育鵬は「神社、寺院、教会の数」を挙げている。それによれば、「神道系神社 81,290、仏教系寺院 77,333、キリスト教系教会 7,234と、合計約16万5千にも達する。

 これをコンビニの47,801店(2012年)と比べて、「神社や寺院の数が多いことがわかります」と説明している。確かに街のいたる所にあるコンビニのさらに3倍以上というのは、大変な数である。

 神社にしろ、寺院、教会にしろ、現世の利益には繋がらないのに、我々の先人たちがお金と手間暇をかけて、これだけの数の宗教施設を作ってきた。この数だけでも、「日本人が無宗教だ」という言い方は事実に反することが分かる。


■5.日本人の宗教的な「いい加減さ」?

 しかし、キリスト教のクリスマスを祝い、そのすぐ数日後の元日には神社や仏閣に初詣に行くという日本人の「寛容性や多様性」はどう解釈したら良いのだろう。これは宗教的な「いい加減さ」と自虐的に捉えられるかも知れない。しかし、本当にそうだろうか? 育鵬は次のように続ける。

__________
 このように日本人の伝統的な宗教観は,ひとつの神を信じて,日々,信仰するというよりも,その時々の宗教儀礼を通して,自分が所属する社会で,自らの役割と責任を自覚することに重きがおかれているようです。[3, p25]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この「ひとつの神を信じて,日々,信仰するというよりも」という所に、大事なヒントが潜んでいる。この点は、東書の次の指摘と合わせて考えると良い。

__________
 さらに,世界では,異なる宗教や宗派を信じる人々の間で対立や紛争も起こっています。私たちは,文化にはこのような側面があることを理解し,文化が人々の暮らしと平和のために役立つように努めていく必要があります。[1, p17]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 世界の宗教的対立は主に一神教どうしの間での争いだという点を踏まえると、育鵬の「ひとつの神を信じて,日々,信仰するというよりも」という指摘の重要性が浮き彫りになる。


■6.日本人が身につけた近代的な信教の自由

 日本人と一神教との出会いは戦国時代にキリスト教宣教師がやってきた時に始まる。その際に次のような面白い逸話があった。

 1549年に日本に上陸した宣教師フランシスコ・ザビエルは「日本人は理性的な国民でありますから、その大部分がキリスト信者になることを、イエズス・キリストにかけて期待しています」と本国に書き送った。しかし、その期待は見事に裏切られる。日本人の理性は、キリスト教の教義に潜む不合理性を見逃さなかったからである。

 京に上る途中の山口で布教を行った際には、次のような問答がなされた。

__________
 山口の信者は、その洗礼の前に、デウスの全善(JOG注: 全能)に就いての重大な疑問に襲われた。それは、デウスは私達が来るまで、決して日本人に啓示をお与えにならなかったから、全善ではないということであった。

又私達の教えているように、デウスを礼拝しない者は、地獄に堕ちるとすれば、デウスは祖先に対して無慈悲である。何となれば、デウスは教について何も識らない祖先が、地獄に堕ちることを許したからである。[a]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 キリスト教の神が全能なら、なぜ今頃のこのこと日本にやってきたのか、しかもそんな神がやってくる前の自分たちの祖先が、単にその教えを知らないという理由だけで地獄に墜ちるというのは無慈悲ではないか、と理性ある日本人は疑問に思ったのである。

 高度な教義を持つキリスト教は高等宗教、神道は教義もない原始宗教というのが西洋的な宗教観であるが、我々の祖先は「高等宗教」の教義に潜むイデオロギーの虚構を見破っていた。

 キリスト教の強引なイデオロギー性は、フランス庭園に見られるような「自然を支配して、人工的な美しさを追求している」自然観と通ずるところがある。「人間は自然の一部であるという日本人の自然観」は、そんな人工的なイデオロギー性を嫌ったのである。キリスト教が現代日本でも1%に満たないのは、これが原因であろう。


■7.人類が多大な犠牲を払って学んだ宗教的寛容性

 今日の教養あるキリスト教徒やイスラム教徒は、公の場で神学論争を繰り広げたりはしない。異なるイデオロギー間の果てしない争いになるだけだという事を知っているからである。そして互いの信仰を尊重して、それぞれの生活の中で宗教的儀式を行ったり、禁忌を守ったりするのを尊重する。

 これが近代的な宗教的寛容性であり、「信仰の自由」である。日本人の間でも、古代には神仏の信仰をめぐって物部氏と蘇我氏の戦いもあったし、中世にはキリシタン大名が神社仏閣を破壊するような事もあった[b]。そういう歴史を通じて、日本人は近代的な「信仰の自由」を身につけたのである。

 もともと神道の多神教としての宗教的寛容性、多様性があった日本に比べて、複数の一神教が対立した西洋では過酷な宗教戦争が繰り広げられた。

 たとえば、1096年から1272年までの約200年間、キリスト教の聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還しようとする十字軍の戦いで、死者は300万人に上ったとされる。十字軍は手始めとして、遠征途上のラインラントやマインツで、これまた別の一神教徒であるユダヤ人共同体を壊滅させたりもした。[c]

 さらに同じキリスト教の中でも、カトリックとプロテスタントの間で激しい宗教戦争が繰り広げられた。フランスでのユグノー戦争(1562-1598年)では死者200-400万人、ドイツの三十年戦争(1618-1648年)では同300-1150万人と推定されている。[d]

 西洋人はこういう膨大な犠牲を払って、ようやく宗教的寛容性の大切さを学んだのである。そして、未だ近代的な寛容性を学んでいない原理主義的なイスラム教徒が宗教的な対立・紛争を起こしている。


■8.「寛容性や多様性」の知恵

 東書が宗教間の対立・紛争を避けることが大切だと説くなら、多大な犠牲を払って人類が学んだ「寛容性や多様性」の知恵を説くべきだ。そして日本人がその知恵において数世紀も世界に先行してきたことも。

 育鵬でもこの点は指摘されていない。「その時々の宗教儀礼を通して・・・自らの役割と責任を自覚することに重きがおかれている」というのは、近代的な寛容性を前提にした上で、宗教儀式が持つ文化的な意味合いを明らかにしている。

 これはこれで深い指摘であるが、授業では「なぜ世界では宗教による対立や紛争が起きているのに、日本ではいろいろな宗教が平和的に共存し、かつ一人の日本人が異なる宗教儀式を経験するのか」と生徒たちに考えさせる事が良いのではないか。

 それによって、近代的な「寛容性や多様性」の大切さを学ぶ問いかけになるはずだ。それは多様な宗教が共存しなければならない国際社会に生きる公民として大切な知恵である。
(文責 伊勢雅臣)

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